春一番になった鬼
板谷みきょう
「……寝れねぇか。外の風が、うるせぇか。
『ごおごおっ』って、屏風山が唸ってるもんなぁ。
でもな、怖がるこたぁねぇ。あれは吉だ。吉が、この村さ、帰ってきた音だ。
ばっちゃが、この村で一番、悪いことをした時の話をしてやる。
……いいか、これは、ばっちゃが澄乃だった時の話だ」
第一章 額の印
むかし、この村に吉というわらしがおった。
吉が走れば村が笑い、吉が泳げば川が光った。
ところが、ある冬のことだ。吉が熱を出して寝込んだ。
数日して熱が引いた吉の額を見て、村じゅうが凍りついた。
こめかみの少し上、皮膚を突き破って、
どす黒い角が二本、生えてきたんだ。
最初は、みんな「気の毒にな」と囁き合っていた。
だが、誰かが言った。「ありゃあ、鬼だ。人じゃねえ」
その一言で、村の空気が変わった。
道で吉とすれ違うとき、大人は口をつぐみ、俯いて、
薄気味悪そうに横目でチロ、チロと見るようになった。
昨日まで一緒にいた子どもらも、遠くから泥を投げる。
吉は、自分の額を隠そうともせず、無理に笑おうとした。
だが、奥歯を噛み締めすぎて、あごの骨が白く震えていたんだ。
第二章 垣根の晩
ある雨の晩だ。澄乃は、雨音に紛れて垣根の前に立った。
闇の中に、吉の気配がした。
泥のはねる音が止まり、吉がそこに立った。
吉は、信じていたんだ。澄乃だけは、と。
澄乃は、垣根のささくれが指に刺さるのを、じっと見つめていた。
喉まで出かかった言葉を、石のように飲み込んで、澄乃は言った。
「……もう、遊びに来ねぇでけれ」
吉は、動かなかった。
何か、続きを待っていた。
「嘘だと言ってくれ」と叫ぶ代わりに、
吉はただ、垣根の木を力任せに握りしめた。
ミシリ、と木が鳴り、
吉の爪が食い込み、血が滲んで泥に落ちた。
沈黙が、一呼吸、二呼吸、三呼吸……。
吉は何も言わず、
あごをガチガチと鳴らしながら、
闇の中へ去っていった。
澄乃は家に入り、力なく戸を閉めた。
その裏側で、澄乃は崩れ落ちた。
叫び出しそうな口を、血が滲むほど両手で強く、強く塞いだ。
吉を呼んではいけない。呼べば自分も鬼になる。
自分の喉を塞ぐその手の冷たさを、
澄乃は一生、忘れることができなかったんだ。
次の朝、泥の中に吉の足跡がひとつだけ残っていた。
それを手でなぞろうとしたとき、誰かの咳払いが聞こえた。
澄乃は、咄嗟にその足跡を、自分の足で踏みつぶして消した。
それが、澄乃のした、一番残酷なことだった。
第三章 選ばれた風
吉は屏風山の奥深くに消え、本物の鬼になった。
肉体は獣に、心は孤独に、磨き上げられていった。
だがある日、その鋭くなった耳に、澄乃の歌が届いた。
「吉よ、吉よ。
人の姿か、鬼の姿か。
どちらでもいいから帰っておくれ」
吉は、はやて風のように山を駆け下りた。
だが、村の入り口には坊様のお札が貼られ、
村人たちの「来るな」という祈りが、
壁となって吉を跳ね返した。
吉は、村の外で、のたうち回った。
小さな灯り。夕飯の味噌の匂い。
かつて自分を裏切った人たちの、生臭い体温。
(……壊してやろうか。全部、無茶苦茶にしてやろうか)
吉の喉から、獣の唸りが漏れた。
だがそのとき、風に乗って澄乃の震える声が聞こえた。
吉は、拳を解いた。
肉体を捨て、骨を砕き、
ただひとつの「祝福」として、
村へ入ることを選んだんだ。
第四章 すったら事、気にしてねぇど
その時、村を激しい突風が襲った。
だが、その風は、
澄乃の家の障子をふわりと膨らませ、
軒の風鈴を一回だけ鳴らした。
「……ばっちゃはな、それからずっと、
一人でこの風を待ってきたんだ。
吉はな、自分を追い出したわしたちに、
『よく頑張ったなぁ』
『春だど』って、温かい風を運んでくる。
吉の声が、風の中で聞こえるのさ。
『澄乃、気にしてねぇど。
すったら事、気にしてねぇど』って」
ばっちゃは、囲炉裏の灰をゆっくりとかき回した。
火の粉がひとつ、ぽうと上がって、消えた。
「……わしらは、吉を鬼にした。
でも、吉は、わしらを一度も鬼だとは呼ばなかったんだ。
その赦しがな……ばっちゃには、何よりも痛いんだよ」
窓の外で、また一際大きく、屏風山が唸った。
風が孫の頬を、まるで誰かの指先のように、
優しく撫でて通り過ぎた。
「さあ、寝れ。吉が、隣にいる。
……笑ってる、気がするんだ」
ばっちゃはそこで、言葉を切った。
孫は何も言わず、布団の中で、
小さく拳を握りました。
あとは、風の音だけが、続いていました。
最終章 小さな並走
翌朝。
風の名残を残したまま、淡い朝の光が村に落ちていました。
ぬかるんだ道の端に、一輪だけ青い春草が芽吹いていました。
孫は、その花を踏まないように大きくまたぎ、
前を歩く人影を見つけました。
それは、昨日までみんなが目をそらし、
ひとり、うつむいて歩いていた子の背中でした。
孫は、何も言いませんでした。
「おはよう」とも「ごめん」とも言わず、
ただ、その子の隣に並んで歩き始めました。
屏風山から、穏やかな風が吹いてきました。
二人の影が、ひとつになって、まっすぐに伸びていました。
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