久しぶりの日記
由比良 倖
しばらくの間、気分が落ちてた。でも、昨日久しぶりにpixivのイラストを見たら、綺麗で、心にしなやかでカラフルな風が吹き込んできた。すぃっと窓が開くような感じがした。ヘッドホンでチャールズ・ミンガスを聴きながら、小型のソファみたいな椅子に、ふんわりと抱きかかえられている。身体が軽い。ベッドは一ヶ月もの間、僕をゆったりとは包んでくれなくて、まるで固まりかけた泥の地面に身を横たえているみたいだった。
四十日ほど前に、一緒に暮らしていた女の子と離れて、さて、ひとりでも頑張らなくちゃ、と思ったんだけど、彼女の存在が切り取られてしまった僕の生活からは、これからの未来の確かさが失われてしまって、起きても何にもしたくないし、音楽も活字も、僕の脳神経の隙間を素通りしていくようで、遂には「何で生きてるんだろうな」という思考まで浮かぶようになった。
ミンガスのベースは地に足が着いている。彼が作曲した多くの曲もまた。彼の感情は、はっきりと他者に向けられている。ミンガスは黒人差別にいつもいつも怒っていて、演奏にも作曲にも怒りを思いっ切りぶつけていたと言われているけれど、今彼の音楽を、録音から60年以上も経って、日本の、寝惚けたような街の片隅で聴いている僕には、ただただ彼のアルバムが思いっ切り素晴らしい、美しいということしか分からない。
全てが繋がりの中にあることを、僕は本当にしばしば忘れてしまう。この世に生きているのは僕ではなく、僕以外の全てだ。「紙のノートに毎日いっぱい書いてみるといい」とYouTubeで言っていたことを鵜呑みにして、ノートにペンで書き続けた文章を読み返していたら、紙面がほぼ自己愛的なことで埋め尽くされていて、自分の醜さに嫌気がさした。僕は他人の為に祈ることが出来ない。何よりも自分の快感を優先していて、欲望の亡者でしかなくなっている。昔はこんなんじゃなかったな、と思ったら悲しい。けれど、自己愛ゆえの苦しみという、この宇宙のどこを探しても見つからないレアな感覚を、十数年もみっちりと享受できたことって、考えようによっては、とてもラッキーだ。ビッグバンには既に精神的苦痛の素が含まれていたのだろうか?
眠るのは好きなんだけど、眠れない一日は灰色の苦行のように長く、なのに眠れない一ヶ月は、苦行の成果がすっぽりワープしてどっかに行ってしまったんじゃないかと思うくらい短く、「何にも無かったなあ」「ただ何もかもが衰えていく」という、灰色の毒素が体中に満遍なく行き渡ったような感慨しか残らない。
明るい眠りの後で、澄んだ風の中で目覚められたらな、とベッドに入る前には(泥のベッドの前で)諦め半分にぼんやりと願う。
眠れない。なのに何故か夕食の時間にはどろどろと眠っていることが多くて、最近は両親と一緒に食事することが少ない。そろそろ日付が変わる頃になって、現実と悪夢が捻れ合った不安な部屋の中で目覚めると、いつも通り、世界は空っぽで、徹底的に僕が独りぼっちであるような気がする。それとも、この瞬間も神さまはじっとりと僕を見ているのだろうか。僕は生きる責任を放棄した個人で、ああきっと神さまは僕に呆れているだろうな、神は自らを助けるものを助ける、の反対を僕は行っているのだもの、どちらにせよ……と考えながら、起き上がって、椅子に坐り、何にせよ僕自身はもはや空っぽでしかないと感じる。仮に魂というものがあるとすれば、僕は今、自分の魂を腐らせることに邁進してばかりなのだから(早めに死んだ方がいいのでは?)生きてるだけもう無駄なんじゃないかと思う。
人は、、、何故生きるのだろう? 心細さと儚さ、懐かしさと悲しさ、そういうものの為に、僕は生きている気がする。それらは全て、プラスかマイナスで言えばマイナスの感情で、もし心に深い底の方があるとするなら、空が青いとか、空気が澄んでるとか、笑顔が美しいとか、海は広いとか、そんなことじゃなくて、暗い朝焼けに錆びた歩道橋とか、哀しい気持ちで飲み込む錠剤とか、歳を取ると個人と個人の境目が段々無くなっていくこととか、排水パイプの下に咲く光の花とか、記憶の彼方でひび割れた青い水槽とか、笑うつもりで下がってしまう口角とか、もはや戻ってこないものを惜しむ代わりに、全ては虹の音楽に溶け込んで、いずれは消えてしまうのだと、聞こえない音楽に耳を澄ますこととか、そういう細々とした暗めの、どちらかと言えばマイナス寄りのイメージの方が、心の深い場所には近いのだと思う。
心のずっとずっと深くのゼロの領域から、完全な静謐に充たされた無の場所から、小さな小さな泡の粒が分かれ分かれ、触れ合いながら離れながら、ぷくぷく、ぷつぷつと、いくつもいくつも立ち上ってくる。粒たちは或いは纏まり、或いは分裂しながら、揺れながら浮かんできて、それらは小さな単音となり、旋律となり、リズムとなり、和音となり、やがては小さな音楽になって、そして意識の表面のさざ波に触れた瞬間、ぱちんと弾けて、カラフルな音色を残して、消えてしまう。
僕は世界は音楽のようなものだと思っている。全ては鳴っている。何故鳴っているのかは分からない。でも多分、本当の静謐は、イコール音楽なんじゃないかな。それともあまりに完璧な静謐は、それ自身が静謐であることに耐えられないのかもしれない。やむにやまれず鳴る音楽が、僕が住んでいる、この世界なのかもしれない。カラフルで、柔らかく深呼吸すると、唇に酸素を含んだ湿度が染みて、心の中ほどが潤む。街中もあれば、スラムもあって、深海も砂漠も、奇妙な造形に満ちた都市もあるこの世界。
12月1日が僕の誕生日で、今日は2日。なかなかに幸先のいいスタートだ。生きよう、生きて何もかもを知ろう、という気に満ちている。何かを美しく新鮮に感じられるって、掛け替えのない恩寵だよね。僕は人生が良いか悪いか(と言うのも曖昧だけど)は、はっきり言って風向き次第だと思っている。もちろんそれは僕の怠惰な経験論で、人によっては、自分の人生を、自分のやる気で切り開ける人だっているかもしれない。でも、僕には、自分の気分さえ、自分では変えられない。何か、僕以外の何かによって、僕の心が目覚めるのを待つしかない。前向きな気持ちが湧いてくるかどうかも、運次第だと思っている。それは、僕が躁鬱気味だ、ということとも関係しているかもしれない。憂鬱なときは、何をどうしても気分が晴れない。爽快な気分のときは、生きてるだけで心地いい。
少しだけ開けた窓からは風が、カーテンを膨らませて、ふんわりと流れ込んでくる。石油ストーブは、酸素を薄くして、僕のいい気分を助長してくれる。
11月は、まるまる調子が悪かったのだけど、英語の本は随分読んだし、実のところかなりたくさん書いた。……と書いていたら、たまたま斜向かいの家に救急車が来た。早速野次馬が四人集まってきて、わざわざ少し遠くから歩いてきた人もいて、救急隊員に話しかけたり、運ばれてきたお婆さんに声を掛けたりしていた。きっと遠巻きに見ていた人もいるんだろう。何かそう言うのって腹が立つなあ、と思う。見世物じゃないし、特に堂々と集まってきて、心配する振りをしながら、明らかに搬送の邪魔をしている輩の厚顔無恥さにはげんなりする。僕が病院に運ばれたときも、そういう感じだったんだろうか? 近所の噂話のネタにでもなるのだろうな、と思うと、嫌な感じがする。と言っても、僕もそんなくだらないことにいちいち嫌な気になって、しかも窓から覗いてたんだから、同じようなものかもしれない。心のとても深いところ、と書きながら、僕にしたところで嬉々として両親に「斜向かいの人だったよ」と言うに違いないのだから、自分にもがっかりする。
まあ、ともかく、僕は世界を知るのに、言語の習得はとても役に立つと思っているし、もっと言えば必須なんじゃないかと思っているし、書かなければ自分の到達点が分からない。結局のところ、僕はこの地表の世界にしろ、宇宙にしろ、そして心の世界にしろ、何かを知りたくて堪らないし、それにやっぱり世界には真理というものがあるに違いないので、生きている限りは、それを追い求めなければ気が済まないのだ。
だからと言って「真理、真理、真理、真理……」と一日中考えたり、真理を書いているっぽい本を日がな読んでいても仕方がない。アニメにだって、小説にだって、真理の一端はある。何故なら、この世に現れている、いちいちのものに、真理が表されているに違いなくて、僕が意識的である限り、どんなことからでも、何かは学び取れるに違いないからだ。何かを学ぶことは、自分を知ることだ、ということに間違いはないし、世界を知り、自分を知れば、今の僕には想像も出来ない場所に到れる筈だと信じている。でも、本当に知るには、ぼーっとしていては駄目で、真空管みたいに熱く目映く、目覚めていなければならない。ぼんやりしている時間が長い自分の怠惰さにも、心底腹が立つし、わざわざ落ち込んで、自分を駄目にしてしまう。そして知りたいことからは、どんどん離れてしまう。何処にも行けないなら死のうかとか、極端な思考に走ったりする。
新しい年齢の、新しい一年だ。本当は一日も無駄にしたくない。今は朝だから、朝ご飯を食べよう。身体の欲求に気分が左右されるのって、本当に、身体って邪魔だなあ、と思いはするんだけど、身体は僕にとっての道具で、ロボットのようなもので、手入れも必要だ、と思えば、少しは気分が休まる。まあ、何か食べよう。