狐の願いと人魚の唄(To celebrate discharge)
板谷みきょう

Ⅰ. 春の街道と、凍った泉

夜明け前の海へつづく街道は、ひんやりと澄み、
物音ひとつなく深い眠りの中にありました。
雪解け水が細く道を濡らし、歩くたび、
ぽとり、と小さな音が響きます。
そのかすかな響きは、幼いころ母狐が息絶えた
小川のせせらぎと、どこか似ていました。

母狐は、畑に追い詰められながらも、わずかな迷いもなく
与一を嬰児籠(えじこ)に寝かせ、猟師の目を引きつけました。
焚かれるように燃え上がった母の魂の熱は、
襟巻のように与一の胸に宿り、静かに息づいています。
北の空には、夜の名残を抱えた海の蒼がゆるやかに揺れ、
その深みに、与一はかつて出会った人魚の瞳を思い浮かべました。

人魚は波を蹴ることさえままならぬ不完全な尾を持ちながら、
瞳だけは、どこまでも澄んだ、触れられぬ願いの色を宿していました。
母狐の犠牲の灯と、人魚の瞳の蒼。

ふたつの光は、与一の胸の奥、凍った泉の底で、
静かに寄り添っていました。

Ⅱ. 躊躇いと沈黙の約束

あの日、人魚は、波の揺らぎに寄り添うように、
そっと与一に問いかけました。

「……この小さな光を、あなたは、ずっと見守っていける?」
その声は羽のように軽く、深い水底のように静かで、
与一の心にそっと落ちました。
けれど与一は、答える言葉を持ちませんでした。
母狐の犠牲という真実を胸に抱えたまま、
偽りの姿で人魚の純粋に触れることは、あまりにも残酷に思えたのです。
与一にできたのは、ほんのわずかな微笑みを返すことだけ。
その沈黙こそが、与一の想いのすべてでありました。

告げれば終わる想い。
告げなければ守れる純粋。

母狐がたどった道の続きを、今度は自分が歩くのだと、
与一は静かに考え定めました。

Ⅲ. 過去の光の孤独な叫び

冷たい街道の途中で、与一はふと足を止め、
何度も後ろを振り返りました。
幼い日の恐れ、言えなかった想い、母狐の灯の残影・・・
すべてが雪の向こうに淡く揺れ、
凍った泉に映る月のようにたゆたっています。

春の光が、やがて街道にそっと差し込みました。
母狐の犠牲の灯が与一をあたため、
人魚の瞳の蒼が胸に寄り添います。
届かなかった声も、伝えられなかった想いも、
やがて静かにやわらぎ、優しさへと姿を変えていきました。
ふと、与一は夜空を仰ぎ、心の奥で問いかけます。

「どうか幸せでいてくれますか」

その声は風に溶け、雪解けの水に乗り、
やがて遠い海の底へ届きました。
潮の満ち引きのひそかな気配とともに、
人魚の胸の奥に、やさしくふれていったのでした。

Ⅳ. 蒼い道の果て永遠の光

与一の道は、ただひとつ。
母狐の灯を胸に、人魚の瞳の色を背負い、
与一は静かに歩み続けました。
過去を抱くのではなく、光として連れてゆくために。

雪解けの街道。
凍った泉。
人魚の涙の蒼。
母狐の灯のぬくもり。

そのすべてが与一の胸で穏やかに溶け合い、
「叶わぬ愛も、献げられた命も、
いずれは誰かを照らす光となる」
という小さな真実を、そっと灯していました。

与一はゆっくりと歩きます。

けれど確かに。
偽りのない光の中を。

母狐が遺した胸の灯と、人魚が託した瞳の蒼。
ふたつの願いは、ひとつになり、
与一の旅路を、果てのないところまで
照らし続けるのでした。



散文(批評随筆小説等) 狐の願いと人魚の唄(To celebrate discharge) Copyright 板谷みきょう 2025-12-01 23:32:52
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