(前編はこちら→
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皇后陛下の尚侍(お世話係の長官)を務める一条実
子は電話口でしどろもどろに弁解する内務大臣の電
話を礼もいわずに切ってしまった。その非礼にあっ
と思ったがあとの祭りだった。
ため息をついて二の丸雑木林の池に目をやるとピン
クや白の大輪の花が水面に浮いている。朝に開花し
たあざやかな蓮の花も夜になればしぼんでしまうの
だ。御一新以来、一介の役人ごときが権勢をふるう
世の中になるとはなんとまあ怪しい時代か。
独りごちると実子は意を決したように宮内庁電話交
換室に電話をつなぎ枢密院議長、倉富勇三郎を呼び
出すよう伝えた。
枢密院は行政や内閣からは独立した天皇直属の諮問
機関だった。長の倉富は治安維持法の骨子をつくっ
た男であり昭和天皇の相談役になって以来、その剛
腕ぶりが天下に響き渡っていた。その倉富勇三郎が
一条実子の数多くいる姻戚のひとりだった。
電話口に出た倉富は実子から経緯を聴くなり不服そ
うにいった。
「どうしてもっと早く相談していただけなかったの
ですか」
「内輪の恥を知られたくなかったのよ。でも、この
ままじゃ─」
「それ以上はおっしゃらなくとも結構。ご安心下さ
い、御子息は今すぐにでも釈放させますから」
「内務大臣でも手こづったのよ」
「あいつにやらせますよ」
「あいつ?」
「あの男です。甥の──」
電話口から突然、黒い霧が吹き上がるような不気味
な声が漏れ出てきたように思えて実子はぎょっ
とした。不意に「あの男」の記憶がよみがえった。
血の濃い皇統の親戚縁者の中に半世紀にひとりは生
まれてくる異端児のひとりである。
「大丈夫かしら」
「切れすぎる鋏も使いようです」
「では、お任せしますわ」
電話を置いた実子は季節がらもなく寒気を覚えた
蓮池のほうから蛙の声が響いてくる。そういえば数
度しか直接会ってはいないとはいえ「あの男」は子
どものころからふつうではなかった。バッタを捕ま
えて枯れ枝の先の糸に吊るし、それで蛙を釣ってい
るところを見たことがある。それだけならいいのだ
が「あの男」はそのあとすぐに蛙の腹を短刀で縦に
割いて呑み込まれたばかりのバッタを取り出し、裂
いた蛙の腹を糸で縫ってまた池に戻すというおかし
なことを顔色もかえずやっていた。成人したその男
に息子を奪還させるというのだが─。
「ああ、煩わしい世の中だこと」
実子はまた独りごちて身震いした。
麹町憲兵分隊は麹町区三番町6番地にあった。
今なら有楽町線「麹町駅」周辺一帯の地域を
さすが当時は旧華族や軍人の邸宅がひしめく高級住
宅街であり、その周辺に軍関連の官庁や施設が宅地
を囲むように建っていた。
麹町憲兵分隊もその一角にあり、分隊とは名ばかり
で屋上に小さな雑木林を造りそこに社を築くほど豪
奢な四階建て白亜の庁舎を拠点としていた。そのこ
とからも伺えるように麹町憲兵分隊の実体は陸軍省
憲兵隊の中枢であり東京市全域の軍機密関連の捜査
を一手に掌握する日本陸軍の最高機密軍事機関だっ
た。
一条実子が枢密院議長倉富勇三郎と電話で語りあっ
てから数時間もたたないうちに麹町憲兵分隊長室の
机の上の電話が鳴った。当時、十数台しかなかっ
た最新のダイアル式黒電話だった。
電話をとったのは麹町憲兵分隊長で陸軍中佐の佐藤
義美だった。まだ三十そこそこ。カマキリのように
鋭角で面長の神経質な貌にメガネが光っている。
ものもいわずに話を聴き終えると男は口元に薄笑い
を浮かべてこういった。「叔父上、これは貸しです
よ」
電話を切ると佐藤は赤いタッセルがついた濃紺色の
帽子をかぶった。憲兵隊の制服は昭和5年に制定され
た陸軍の「九〇式軍服」に基づくものだが、制帽に
ついたこの赤い血のような布のタッセルだけが違っ
た。遠目にも憲兵隊の存在を際立たせるために特別
につくらせたものだった。浅葱色のマント、長靴、
そして制帽についたこの赤いタッセルをみると人々は
震えあがった。
佐藤中佐は隊員の控え室へつかつかと入ってゆくと
世間話をするような軽い調子でいった。
「えー、いまから堀留警察署に乗り込みます。諸君、
すぐに準備を」
警察署に憲兵隊が立ち入るなど前代未聞のことである。
隊員たちは色めき立った。
「装備は必要ですか」と副官の憲兵曹長がとまどい
気味に尋ねる。
「う~ん」中佐は女のように細く白い人さし指を軽
く額にあてた。
「火器は3式軽機関銃で十分でしょう。しかし数は
多いほうがいい。二十名ほど連れていきましょう」
「まさか、警察相手に出入りではないでしょうね」
曹長が驚いたようにいう。
「わたし一人でも用が済む話ですが、え~、丁度いい
機会だから派手にやりましょう。だれが主人である
か連中に思い知らせるのです」
そういって微笑んだ。
しかしその笑みはだれがみても頬の筋肉が痙攣した
ようにしか見えなかった。青白い知的な顔をむしろ
醜くみせただけだったが、しかし隊員のだれもそん
なことはおくびにも出さなかった。
毛利には二人の妾がいた。
昭和初期の頃は甲斐性のある者が妾を囲うことはそ
れほどおかしなことではなかった。いずれも酌婦か
ら身請けした女たちでその日、めずらしく非番の毛
利は黒門町の妾の仕舞屋(しもたや)で布団の上に
あぐらを書いて一冊の小冊子──『共産党宣言』を
読んでいた。
敵を知ることが特高の仕事のひとつでもある。中卒
の毛利といえど警察官となって猛勉強し資本論はさ
すがに無理だったがそのほかのマルクスエンゲルス
の主要な著作を片っ端から読んで"アカ"の思想信条
を少しは理解しているつもりだった。妾のおりくは
まだ布団のなかでまどろんでいる。
読み疲れてあくびをかいた毛利は小冊子をポンと膝
の上に放り投げた。
「万国の労働者よ、団結せよか.....」
労働者なんてどこにいるのか。いるのは孤児や失業
者や自殺者やおりくのような妾の境遇でしか生きら
れない女たちばかりのようにみえる。インテリが頭
の中でつくりあげた労働者なんて、どうもおれには
ピンとこない。そう思って鼻をこすっていると、玄
関の戸を叩くものがあった。
毛利はとっさに枕の下に隠した32口径のロイヤル
式拳銃を手にとった。
ロイヤル式拳銃は東京のロイヤル銃砲火薬店が開発・
製造したもので警視庁特高警察官の正式銃として採
用されていた。小ぶりでポケットに隠しやすい8連
発の自動銃である。毛利は主義者の襲撃にそなえて
常にこの拳銃をそばに置いていた。
「課長、わたしです」
部下の山県為三だった。山県は特高一係(左翼関係)
の主任警部である。その切羽詰まった声を聴いて毛
利はただならぬ気配を感じとって玄関戸をガラッと開
くなり「なにがあった」と尋ねた。
山県は蒼白な顔をしている。
「麹町憲兵分隊が一条実淳をひっぱっていきました」
「お? そんたらこと、できねえど。できねべし」
毛利は思わず福島弁でわめいていた。
「なんてこった、勾引の理由は何だ」
「身柄引き渡し命令書だけで理由は国家機密だそうで
す」
「国家機密だとお!?」思わずのけぞった。「そんた
らこといったら、な~んでも出来るじゃないかっ!」
山県は激しく同意するように頷いた。「連中、特高を
舐めてます。武装した小隊を引き連れてきたそう
です」
「部長はなんと言ってる?」
「警視総監にかけあってますが国家機密であれば警察
行政の埒外だそうで、いかんともしがたいそうです」
「軍機法か」毛利は呻いた。
大正10年に制定された軍機保護法─軍機法は治安維持法
と同じ効力を有していた。それだけではなく何をもって
軍事的な国家機密とするかの法解釈の恣意性が高く、
運用は憲兵隊に一任されていた。
「やられたな」
上体を折って両膝に手をつき地面を見ながら考えてい
た毛利は突然起き上がって叫んだ。
「こりゃあ、多喜二がやられっぞ」
「多喜二が?」
「実淳は日共中央の連絡係りだ。多喜二の居所を知っ
ている」
「あ」山県は阿呆のように立ちすくんだ。
「麹町の奴らはおれたちと違って主義者の捜査や日共
壊滅が目的じゃない。戦争屋だ。連中は不敬小説で陛
下を侮辱した多喜二を見つけ次第殺したがっている。
捕まればすぐに殺られっぞ」
「どうします?」
「麹町が相手じゃどうにもならんな」
分隊長佐藤義美のバックには枢密院がついている。
毛利は脱力したようにふらふらと妾宅の居間に戻った。
乱れた寝間着のままである。そのあとを山県が追った。
目を覚ましたおりくがいそいそと身繕いをしてお茶を
運んできた。山県にとってつけたような会釈をすると
また布団にもぐるのだろうかすぐに引っ込んだ。
毛利は手もとの茶をがぶりと飲んだ。
「まあ、いい。身分が身分だからどちみちこれ以上長
くは勾留できなかった」
気をとりなおすようにいった。
「ですが、こんなことがあたりまえになれば.....」
山県は不服そうである。
「国をあげて戦争の準備に邁進しているご時世だよ。満
州もとった今、だれが軍部に楯突くことなんかできるか」
「多喜二を検挙しようとしているわたしたちが多喜二を
守らなければならないなんて」山県にはどうにもガッテ
ンがいかない。
山県の様子を見て毛利は一冊の小冊子を棚から抜き山県
に放った。
「おまえ、まだそれ読んでなかったろ」
山県は餌を与えられた猟犬のようにすぐに小冊子に集中
してページをめくった。
「これは!」
「まだ発刊されてないが幹部党員のあいだには出回ってい
る多喜二の最新作だ。おれの党内協力者が危険を犯して複
製した一冊だよ」
それは小林多喜二の死の翌年に発刊されて遺作となった
『党生活者』だった。
「この内容はまるで」山県は紅潮した顔をあげた。「明ら
かに党中央に対する反逆ですね」
「どうやら多喜二はこの小説の原型を小樽時代の昭和3年
に書き上げていたようなんだ。多喜二はコミンテルの27年
テーゼに反抗して党中央から査問を受け共産党から一時除
名されたことがある。その直後に書いたものを手直しした
ものらしい」
「どうりで多喜二の小説にしては文体が軽いと思いました。
これはロシア作家の影響を受ける以前のものですね」早稲田
の文系を出た山県は多喜二の小説を読み込んでいた。「そ
れにしても、どうしてそれを今ごろ」
「さあな。地下潜伏中の多喜二の心境にどんな変化があった
のか知らないが日共幹部の佐野学はカンカンらしい」
「27年テーゼは天皇制を打倒すべきとしていますが、たし
か多喜二は日本大衆の心情や歴史風土にそぐわないロシア
側の一方的な押し付けだとしてコミンテルを批判ししてい
ましたね」
「もっとひどいことに、多喜二はその小説の続編を構想し
ほぼ書き上げているってんだ」
「続編があるのですか」
「協力者からの情報では多喜二の〈小説計画〉というのが
あって、その内容からすると、それがもし出版されれば日
共党中央は労働者からの支持を失い、党の活動基盤が根底
から崩壊しかねない決定的なものらしい。それを示す証拠
が作家の中野重治に送られた手紙に書かれているそうだ」
「事実なら多喜二はわたしたちの救世主ということに
なりますが」
『党生活者』を再び食い入るように見ながら山県は興奮し
ていった。
毛利はうなづいた。
「いまや多喜二をこの世から抹殺したがっているのは日共中
央と麹町憲兵隊かもしれんな。その二つが今日、奇しくも手
を結んでしまったことになる」
「ちっ。なんでもありだな」山県は毒づいた。
「おれはもう一度タキに会ってくる」
毛利がいった。
「報告が遅れましたが、タキはホリウッドを辞めましたよ」
「ほう?」
「いまは神田に三畳間のアパートを借りて独りで住んでます」
「よし、そこへ案内しろ」
タキが借りたアパートは神田三崎町にあった。三崎町は当時
「神田のスラム」と呼ばれて日雇い工員や土木人足のための
木賃宿や下宿が密集する町だった。タキが借りたアパートは
工具を売る商店の二階にあった。真昼でも薄暗い廊下を歩く
と床がミシミシと軋んだ。やっとタキの室番号をみつけて中
の様子を伺ったがこそりともしない。しかし戸を叩くと返事
が返ってきた。タキの声だった。
「おい、あけてくれ。あんたの常連客だったペテン師だ」そ
ういうと戸がひらいてタキがうつくしい顔を見せた。
小さな炊事場と布団、それに机がわりのミカン箱があるだけ
の簡素な三畳間だった。
「おう」というと、
「どこまでもつきまとうのねえ」
タキはそういったがそれほど怒っているふうにも見えなかっ
た。
「なんでバー辞めたんだよ。あの店好きだったのに役所の金
でタダ酒が飲めなくなったぜ」
「もちろん課長さんのせいよ」
「そりゃあ、悪いことをした」毛利は真に受けてしまったが
タキは笑った。
「ウソよ。もともと飽き症なんだわ、わたし」
そういって毛利に座布団をすすめた。
「こんな部屋借りて、あんた、神田の家族とは別居したのか」
「六畳一間に母や妹たちと七人暮らしでしょ。こうでもしな
ければ好きな仕事もできないし」
「きつい世の中だな」
だれにいうともなく毛利はつぶやいた。
「わたしを付け回しても小林先生は監視されているわたしの
所になど、ぜったい姿なんかみせないわよ」
嫌味をいうタキに毛利は紙袋を差し出した。
「アパート借りたらいろいろ不便だろ。これでお湯でもわか
せや」
「電熱器ね」
昭和7年ごろの東京でも電熱器はまだ中流家庭にもほとんど
普及していなかった。たいへん高価なものである。
「電気代がたいへんだわ」
「ストーブ代わりに使ったらそうかもしれんが、お茶飲みた
いときは便利だぞ」
「ありがとう。早速、お湯沸かすわね」タキが立ち上がろう
としたのを制して毛利は一冊の本をポンと投げた。
「そんなことより、これ読んでみろや」
「なにこれ?」
「まだ出版されてないが、アカの間で話題の多喜二の新作だよ」
タキは本を手にとった。本というよりはざらばん紙に刷られた
紙を束ねた小冊子である。山県に渡したのと同じものだった。
「なんて書いてあるんです?」
「あ、そうか、すまなんだ。字が読めないんだったな」
タキは多喜二にしつこく勧められて、ひらがなまでは読めるよ
うになったが漢字はまったく読めなかった。
毛利はしまったというように頭をかいた。
「かんたんにいうと一種の暴露小説だよ。専従活動家がどんな
ふうに生活しているか、日常を細部にわたって暴露している」
「暴露って、先生がそんなもの書くわけないでしょ」
タキは頭から相手にしない。
タキと多喜二のあいだにわだかまる決定的な壁はこれかも知れな
いなと毛利は思い至った。作家の多喜二にとって連れ合いがじぶ
んの小説を評価できないってのもつらいだろう。
「これを書いたせいであんたの彼氏、いま、かなり危ないことに
なってるんだがな」
「課長さん、小林先生を殺すっていってたじゃない。それなのに
どうして先生の命を心配するのよ」
「あれは冗談だ。おれたち特高が多喜二の命を奪っても何のとく
にもなりゃしないだろ。情報のお宝の山をだれが抹殺する」
タキは唇をすぼめて俯いた。
「もう迷路みたいで何が何だかわからないわ」
「ちょっと手を出してみな」
「今度は何をするの」
おずおずと差し出された小さな手に毛利は8連発のロイヤル自動
拳銃を置いた。
小ぶりだがずっしり重い。
タキは両手でそれを目の高さに持ち上げた。
「ひやっこいわ。これ、本物?」
「まあ、おれの人生みたいなものだな」
気取った物言いに気がついて毛利は少し赤面した。
「無闇に人を殺してしまえる道具なんだね」
「そうだけど心強い味方でもあるんだよ。これで誰かを守ること
も出来る」
「まあ。トーキーに出てくるヒーローみたいにいって、なんか逆
転してねえ?」タキはくすっと笑った。
タキのこの笑顔を見に来たのかもしれないなと毛利は思った。そ
してタキから銃を取り上げるといった。
「多喜二に連絡つくものならすぐ伝えなさい。死にたくなければ
警視庁に連絡してこいって。少なくとも党中央の仲間を信じたら
おしまいだぞって」
(つづく)