2024年、歌のわかれ
おまる

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おまる様
いまひとつ、おまるさんのコメントにセンスが感じられないといいますか、おまるさんのコメントを読むほどに、オールド感覚の方々みなさん全員に切腹して欲しくなりました。


三浦果実様
オールド感覚がないのがマズイのですよ。
親、親族へのプレッシャーで(=内心それに復讐できる形の)
「ぼく、詩人やってまーす」
というのが一等、マズい人間でしょう。
あなたもその類の人間ではないですか?
よくわからないですが、
泡沫候補になって狭い狭いネット詩界隈に健在をアピールしたい、、
くらいの意図でしょうか。
でも、それすら実現できなさそですね。


おまる様
すみません、ネット詩界隈というのはどのような場所なのでしょうか。察するにオールド感覚を持っていらっしゃる方が多くいらっしゃるのですね。その感覚、持ち合わせてはおりませんが使うことは私にも可能なのかもしれません。おまるさんの人間味溢れる言葉のように。後ほど、おまるさんのクリエイティブも拝見させていただきますね。


三浦果実様
「古い」というのは、なにかの出来上がった方程式の乗っかる態度のことですよ。ちょうど、いまの三浦様のように。


おまるさん
なんか、ありがとうございます!
なんとなく感じたのは三浦果実を好いてくれていらっしゃってとても嬉しく思いました。ぜひ、こちらの新しいクリエイティブな空間で、ネット詩界隈を代表されご活躍することを別の界隈から楽しく拝見させていただきます。ネット詩界隈らしい人と久しぶりに交流出来て新鮮な気持ちになりました。
追伸
作品の方、追記しましたので、ぜひお読みいただけますと幸甚です。


三浦果実様
いえ、私は1ミリもネット詩界隈の住人ではありません。ブロガーです。


三浦果実様
言っていることは、まあわかりますね。
ハイエクは、「致命的な思いあがり」のなかで、原始社会では「所有」がタブー視されていたと言っている。その際、喩えにもちいられるのが、その人にしか扱えない道具「エクスキャリバー」の所有(とその継承)の存在の否定ですね。
すなわち、所有の否定が=自由主義の否定につながると。
わたしは、エクスキャリバーの所有は、ネットの詩投稿サイト(...という平和主義を傘にきた原始社会)でも、むしろタブー視されているのではないか?という疑いを持ちはじめています。
ちなみに、BreviewのウルフボーイⅡも、言われている通りのカスですけど、まあそのスタンスは分かるというか、架空の原始社会を作ろうとしているというか。タネがバレバレの手品みたいな。眺めていてつまらないのですよね。


おまるさん
おそらく、この空間はネット詩界隈のコミュが望まれるものではないんですよね。作品コメ欄でおこなわれる社交も有意義だと言われることもあった博学マウントなやり取りもすべて。ぜんぶ爆破されればよかった。全員死ねばよかった。そんな感じです。ただ、私は、メンヘラ女子といいねをつけることしか出来ない孤独なおぢさんたちには何故だか愛着がありましてね。そんな人らにも、糧になるような場所。そういう居場所って古くなるし視野狭窄な人がたくさん増えていって、必ず澱んで腐るじゃないですか。誰かが朝のカーテンを開けてあげなきゃって思うんですよね。
頭の良し悪しも善人か悪人かも、有名無名も、新しいということでみんな美しくなるの。こんな空間をありがとうございます。それから、また、さようならだね。


三浦果実様
三浦様が何の任務(使命?)を帯びてやってるのかが、
いよいよ不明で面白いですけどね。
立花にしても「死活問題」だから、ああやって頑張ってるわけですよ、三浦様にはそこがブラックボックス過ぎて、
観客からすると超意味不明というか。
ここまで意味不明だと、
なんか甘い汁吸ってんじゃないの?って気がするんですよ。逆に。


(ここの時点でわたしは花緒氏からアクセス禁止処置を申し渡された)


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「文系」と名乗る者、自負する者の多くが、たいてい詩人を自称して、出発するのである。
このことについては、まずこの社会の制度の問題があり、それ以上に文系イデオロギー(=弱虫)の闇の深さが、事態をここまでこじらせていることに寄与しているのだが、これ以上ごちゃごちゃ思考してもメンドクサイから「詩人も、作家も批評家も、同じ穴のムジナの屑だからだ」と解釈して、かたをつけたことにしている。

文章を書く人間、ましてや詩を書きたがる人間、ドロドロの屑であると断言できる。どっぷり「文系」に染まっている人間に会ったら、悪いことは言わない、さっさと立ち去ることだ。無視することだ。わたしはまちがっても「文系」なんぞにはならないつもりだ。リアルの、世間を生きる、なにより「生活」をする人間でいたい。


わたしはかれこれ20年以上、東京のあちこちをさまよっている。必然的にいろいろな出会いが訪れる。思い返すと、その度に感情の波の満ち引きがあって、おもしろかった。
こういうところに、案外社会は巧く出来ているなあ、と感心するのだが、女と恋愛する。性交に”成功”したり、振られたり、曖昧なままで終わったり、、、
でも次の場所に移ったら、そんな事はすっかり忘れてまた次の女と恋愛している。人間は忘れる生き物である。

わたしがなにより好きなもの、といえば、それは、すでに強烈に明確であって、
それはある種の「女」なのだ。その「女」は、東京でビジネスをしていないと出くわせない。
だから東京でビジネスしてる。
そうしないと味わえない快楽があるから。
男はどいつもこいつも、つまらない。
男はかなしい。


一度ならず詩を書いたことがある人なら、わかるだろうが、
その「詩」には、オリジナリティが全然ない。
その詩の言葉は、よく知られた言い回しや、箴言や、引用句のごたまぜに他ならない。だから、詩の必然性がどこにあるのか、ますます気になってくる。 
たまに、ふとある瞬間、すーっと十数行、心おもむくままに書けることがある。結果として、良い作品になる場合がある。なにか蓋が開いたような感覚である。すぐに閉じて、またいつもの日々に戻る。
ふたたび蓋が開くのがいつになるのか、わからない。


詩は、紙とペンさえあれば誰でも書けるはずのものなのだが、実際には、あたりまえには書けない。
ところで、このあたりまえというのは、いったい何のことなのか?
誰もが「あたりまえ」に生きているように思い込んでいるのだけれども、本当にそうなのかと問い返されると、答えに窮してしまう。

わたしたちは、共同体のルールのもとで、さまざまな人間と共に暮らしている。例えば他者に対して、きちんと言うべきことを言う、まっとうな態度をとる、ということが出来ているだろうか?
少なくとも、そういう、あたりまえのことも出来ないような、未熟な、弱虫な人間に詩が書けるのか?という問題がある。
どうやら、詩を書こうとする人間の大半が、そういう類いの、サイテーの弱虫か、使い物にならない破綻者なのである...


散文(批評随筆小説等) 2024年、歌のわかれ Copyright おまる 2024-12-15 11:40:34
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