大阪文学学校体験記
室町 礼
1997年初夏のことである。
大阪の谷町筋にある新谷町第一ビルの扉を開いて中に
入るとちょうど奥から三十前後の美人が出てきたばか
りだった。
「すみません。大阪文学学校は何階にあるのでしょう
か」
腰を低くして尋ねると女はこちらを険しく睨んだだけ
で、返事もしないで階段を上っていった。
(なんだ)美人とはいえ険のある顔つきをしていた。
拗ねたような高慢な表情の女性、嫌いじゃないんだけ
ど人が礼をつくしてものを訪ねているのに無視するな
んて、珍しい人がいるものだと思った。
汗をかいて探し回り、ようやく大阪文学学校の教室を
捜し当てて中に入ってみると、新入生の歓迎会のよう
なものはもう始まっており、先輩の学生(といっても
多くは社会人)が座る席に先ほどの女性がいた。
女はAという豊川悦司にそっくりな美男子の横に身を
寄せるように座りこちらを不快そうな目つきで見てい
る。
この女も詩を書いているの!?
驚くべき人格だと思った。どうして教えてくれなかっ
たのか。そもそも初対面だろ!? なんでおれが睨ま
れなきゃならんの。
──これが最初の一撃だった。
この女性に限らず大阪文学学校では、この後、苦々し
い思いをさせられる女人が次々と現れてくるのである。
朝から晩まで死にたい、自殺したい、リストカットし
たいと露骨に訴える若い女の子がいた。
そういう境地の人に対処するすべのないわたしは腫れ
物をさわるように遠くから彼女を眺めていた。
ぼんやりしているわたしのことだから気がつかなかっ
たが、私のクラスの講師だった哲学者で詩人の細見和
之が授業中にその女に眉をひそめて注意したことがあ
る。実作詩の朗読中のことである。あとで細見から聴
いたところによればわたしを迂遠にデスる詩をかいて
いたという。
まさか気がつかなかった。それもわたしの身体的欠陥
をデスる詩を。それに気がついて細見は注意したのだ
という。
あの女、いつから死ぬ死ぬっていう詩ばかり書いてる
んですか。
あとで細見に尋ねると、死ぬ死ぬっていう人に限って
長生きするんだよ。鼻ヒゲをこすりながら薄笑いを浮
かべた。それを聞いてひと安心すると同時に自分が理
由もわからず嫌われていたことに少なからず落胆した。
しかもその嫌悪の気持を詩に託すなんてことがあるの
だと知った。詩人なんて容易な連中じゃないぞと思っ
た。
ほかにもこういうことがあった。
入学してしばらくすると秋期の新入生が入ってきた。
その中に光がさすような可愛い女の子がいた。講師の
細見までが授業のあとその子を呼んで屋上に通じる階
段に腰掛けながらいろいろと相談にのってやっていた。
その女の子と廊下で出会ったことがある。大阪文学学
校は昼の部と夜の部に分かれていて、わたしは教室か
ら出て帰るところだったが、その愛らしい新入生の子
はこれから教室に向かうところだった。
わたしはうっかり他の事を考えていたのかもしれない。
会釈を忘れたようなのだ。するとその女の子はすれ違
いざま、いきなり年長のわたしの前に立ちはだかった。
「おい、舐めてんのか、おまえ。無視しないで挨拶く
らいしろ!」
と低い声で恫喝したのである。晴天の霹靂だった。天
使のようにあどけない顔の女の子はそういうと、呆気
にとられて立ちすくんでいるわたしを置いて、何事も
なかったようにすまして教室に消えていった。ったく、
詩人め。
ある女の子からは飛び蹴りをくらったこともある。
どうもわたしは女からみてイジメの対象にしやすいよ
うだった。これはわたしにも理由があってどうやらわ
たしはPTSD障害であることが間違いなかった。幼児の
頃、親父から死ぬほどの虐待を受け、あとで母親から
聴いた話ではおなかを蹴られ腸ねん転を起こして救急
車で運ばれたこともあったらしい。わたしが記憶して
いるのは浴槽に沈められて風呂蓋で頭を押さえられた
ことだった。そのときは死に物狂いで救けを求めたこ
とを覚えている。でも父の顔が思い出せない。前後の
経緯も思い出せない。怖いからわたしの無意識が思い
出さないようにしているのかも知れなかった。その後、
五歳になったわたしは両親の離婚とともに京都市内に
ある孤児擁護施設に預けられたのだが、そのときも大
声で泣きわめいたことを覚えている。こういうことが
あってわたしは幼児のころから外部に心を閉ざして本
しか読まない子どもになっていった。
現実に向き合うのが怖いし、何かを記憶したり意識し
たりするのもかつての恐怖を呼び起こしそうで怖かっ
た。わたしは知的発達が遅れ、自然な対人交流がで
きなくなっていった。そういう境遇からくる現実的な
所作のぎこちなさが女性たちから「ヘンなやつ」と映
っていたのだろうと思う。
わたしはイジメにあって内心腹を立てているのだが、
相手が女だから顔に出すことはしなかった。女たちは
多分、わたしの発言や仕草の魯鈍さに腹を立てていた
のかもしれない。
そういうことを繰り返すうちにわたしは、詩人っての
はわたしが想像していたような人たちではなく下手す
るとロクでもないやつらの集まりかもしれないという
仮説を抱くようになった。
生徒は全員で50名ほどいたかもしれない。詩と小説
そして段階ごとに6つほどのクラスに分かれていた。
あるときクラス合同の飲み会があった。
そのとき集まった男たちの顔をみてわたしはうんざり
した。
悪相ばかりなのである。映画でいえば詐欺師やヤクザ
しかつとまらないような険悪な人相の連中ばかりだっ
た。これには正直落胆した。
しかもその中にはオウム真理教の信者で山口組の構成
員だという男もいた。その男は全身に入れ墨を入れて
いた。講師の細見和之などはその男に「ぼくのボディ
ガードになってくれないかな」などとお好みを食べな
がら真面目な表情で囁いていた。
そしてそういう悪相の自称詩人たちが例の死ぬ死ぬ女
や意地悪女と高邁な詩論を戦わせているのである。そ
れをみて、わたしはうんざりしてしまった。ああ、詩
人がこんな連中ばかりだともっと早くわかっていたら
授業料など払って来ることはなかったのに。
今思い出したが、詩集が一冊欲しくなりジュンク堂難
波店に行ったことがある。恥ずかしながらそれまで詩
集を一冊も読んでなかったのだ。
詩関連の棚には谷川俊太郎の詩集ばかりが並べられて
いた。その一冊を手にとったわたしは飛び退いた。
あやうく詩集を落としそうになった。表紙一面に谷川
の顔写真がモノクロで印刷されており、その丸坊主の
顔が凶悪な殺人犯のようにしか見えなかったからだ。
わたしが大阪文学学校で結局仲良くなったのは、例の
意地悪な女が抱きつくようにしていた豊川悦司そっく
りのAだけだった。
Aはイケメンだけでなく自分で小さな会社も経営してお
り、またH氏や中也賞の候補にもあがるなど、詩壇で
はけっこうな中堅の書き手だった。
(不思議に思われる方もいるでしょうが当時の大阪文
学学校は詩壇で名をなす人も学生として遠くから通っ
ていた。歴程の重鎮である日高てるのような人の話を
聞くためだったのかも知れない。ちなみにわたしもA
も最終学年は日高てるのクラスだった)
わたしとAは授業が終わるとビルの裏手にある立ち飲み
屋で毎回酒を汲み交わした。わたしはまったく詩の素
人だから詩の話はまったくダメだった。一方Aは野村喜
和夫などと親交のある新進の詩人だった。どうしてそ
んな詩人がわたしのように素人の胡乱な相手に親しみ
を覚えてくれたのか不思議だった。
ただ困ったことには、Aがいつもわたしと連れ合ってい
ることに、件の、顔に剣のある女がヒステリーを起こ
したことだった。
わたしが教室に入っていくとこれみよがしに「ガタン」
と音を立てて立ち上がり
いつも教室から出ていくのである。
わたしには同性愛の趣味も傾向も皆目なかったが、なぜ
かAとは気があった。
気があったと思うのはわたしだけであって、ほんとうは
わたしのぎこちない対人姿勢や態度に、そして頭が悪い
のに恥知らずにも詩がわかったふりをする愚かさに同情
をよせてくれていたのかもしれない。
知らなかったのだが、後日、Aはフィリピンで男性器摘出
手術を受けて女性になってしまった。わたしはAがそんな
ことで苦しんでいるとはつゆ知らなかった。かれは長い間、
性自認と身体性の違いに苦しんでいたのだった。
ある日、二人でミナミの酒場に飲みに出かけて、Aが酔っ
払ってテーブルにうつぶしてしまったことがある。わたし
は旧知の間柄であるバーのママに彼を起こさないでといっ
て先に帰った。そのあと、目が覚めたAはわたしが居ない
ことを知って暴れたという。
それにしても今から思うと、わたしは大阪文学学校の連中
にいつも殴られていた。
一番酷い目にあったのは、玄月という在日朝鮮人の男子生
徒が芥川賞をとったときである。
北朝鮮の在日の方が経営する鶴橋の料亭(ここの女将も大
阪文学学校の生徒だった)で祝賀会があり、文学学校の校
長で詩壇の重鎮である長谷川龍生以下、金達寿、金時鐘、
金石範という大物在日文学者も顔をみせていた。
例のヒステリックな女は玄月の横にぴったり座って恋人の
ように振る舞っていた。
深刻な理由は割愛するが、わたしは韓国朝鮮人が嫌いだっ
た。そこで、その席で徹底的に韓国朝鮮人を非難した。玄
月の幼稚な小説もこき下ろした。たちまち、料亭の二階座
敷は乱闘の場になり、孤立無援、わたしは全員から袋叩き
にあって二階の階段からつき落とされた。
よくまあ救急車がこなかったものだと思う。身体中打撲だ
らけで鼻血を出してとぼとぼと歩いて家に帰ったのを覚え
ている。
ひとりだけ、生徒のひとりが追いかけてきて裸足で歩くわ
たしに靴を渡してくれた。
この詩人はAが唯一敬愛し尊敬する無名詩人で、無名ながら
きら星のような詩を書きその後早逝した。
そのことがあり、結局わたしは三学期の終了を待たずして
二年半で大阪文学学校を放り出された。
今から思うと殴られっぱなしの日々だった。