ホロウ・シカエルボク氏の「喪失というものにかたちがあるとしたら」を読ませていただいて。
カフカについて詳しくなく……カフカとカミュは、ダリに拒否反応を示したのと同じように、なぜか受け付けなかったのですよね。今回はポーのようなニュアンスというよりは、もっと純和風な、谷崎潤一郎の「犯罪小説集」(集英社文庫)のような趣を感じました。……わたしの記憶では、これは著者本人がまとめたものではなくって、近年になって集英社が独自に集めた短編集だったような気がするのですが。江戸川乱歩とか、安部公房のような科学を突き抜けたサイファイ(非科学の科学)のような匂いもして……その両者とも、わたしは詳しく読んでいないのですが。谷崎潤一郎の「犯罪小説集」は連作でもありませんし、推理小説でもありませんし、筋やプロットがあるというよりは、独特の空気感を文字の世界に定着させることを狙ったような作品だと思われたのですが、わたしは当時、謎解きもカタルシスもないその独特の世界に浅からず魅了されたことを覚えています。そのような趣向は泉鏡花にもありますね。……明暗の明の表現としては、谷崎潤一郎のライフワークは源氏物語の翻訳や「細雪」に結実するわけですが……。これらの小説(「犯罪小説集」)を書いた時、谷崎は若かったとは言い難いでしょうし、かと言って老成していたわけでは当然なく……。わたしとしては、その年齢特有の宙ぶらりん、日本の明治以降の文化という宙ぶらりんがもっとも真摯に表されていて、少し今の時代に読み返してみても良い作品群なのかな、という感じがしています。これが霊の滑稽──漫画家水木しげるの妖怪物のような表現となると、文学であれば泉鏡花の「天守物語」のような<世界のカリカチュア>というものに集約されていくのかな、という気はしているのですが。
あるいは記憶違いであったかもしれないのですが、ホロウ・シカエルボク氏の作品には、病院の──それはあくまでもこの作品においてたまたま現れたものでしかないのかもしれず、ただ、ホスピタリティーを「受ける」のではなく「与えようとする」側の能動性が、これまでにも幾度となく表れてきているように思うのですが、この一篇においては、単にテーマ/テーゼとしてのそれではなく、「ホスピタリティー」というものの本質を巡る諸相が、キュビズムのように、フォービズムのように、荒々しく多面的に表されている。……とは言え、それはそれらの文言が書きなぐられていく間に、作者の心理をうまくマシュマロのように包み込んだものであるのかもしれないのですが。──いや、「ホスピタリティー」……これは、いつものわたしの<上手く言葉を選べていない>表現だよなあ。でも、99%の間違いのなかに、わたしは1%の正解は必ず現れているような気がしていて。
作者が何を言いたいのか、ということを自問するのであれば、作者の最後の一行を読めば良いのですが、──それは、この作品の本質的な価値だろうか。まあ、読者はまずこの言葉に安心して、度胸があるのであれば、それ以前を埋め尽くしている表現の混沌に投身してみよ、という作者の挑戦と野心をわたしは感じるのですが、「喪失というものにかたちがあるとしたら」……これは、最初に現れた言葉か、最後に現れた言葉か、あるいはそこに時系列(卵が先か、鶏が先か)などは存在しないのか。ふいに話題を逸らしますが、ピカソの「青の時代」「ばら色の時代」……その中間の「なんでもあり」しかし「なんでもありさえもの否定」という、一芸術家の一格闘のようなものを、この詩のなかにわたしは感じてしまいます。「喪失」──そこに、読者は愕然とする思いを見ても良いのです。そしてまた、「かたちがあるとしたら」という希望を読み取っても良い。作者は決して読者を説得しようとしてはいないし、読者が作者に魅せられたからと言って、彼のような表現を、また自分らしい表現を出来るわけでもない。これは、ホロウ・シカエルボクという一詩人における「ガリア戦記」なのだろうか……。
「血」「血」……なぜ、作者は自らのうちに滾る血についてこれほどまでに語り、リストカットで流されるような<偽物>としての「血」を軽蔑しているのか。それは多分……読者の思いと想像に任せたほうが良くって。
この作品「喪失というものにかたちがあるとしたら」の価値を決められないまま、わたしはただそこに生きている一人の詩人の息吹を感じて──などと書くことを、わたしはだらけきった手抜きの表現のように感じて、自分でも認めていない。何度か繰り返して読んでみて、何度かわたしの書き綴ったことも繰り返し読んでみて、……父とともに健康的な食事、を終えたものの、わたしはこの流れについていけない。ふと、狂気にかられたように、食パンを取り出し、マーガリンを塗りたくり、はちみつと、アニスのパウダーと、シタモンのパウダーと、輪切りにしたバナナを乗せて、かぶりつく……糖尿病? 頭脳労働とは、最大の肉体労働なのですよ。とにもかくにも、目を血走らせ、肩を怒らせたレスラーの<ロックアップ>が、自分さえも、相手さえも、また自分でも相手でもない存在さえも、打ちのめしていく……いや、そうだろうか? そこにあるのは、ひたすら<生きる>ということの様式美ではないのか? わたしは……あるいは、ここにホロウ・シカエルボク氏の弱さを見ても良い。「タフでなければ生きていけない、優しくなければ生きていく資格がない」──レイモンド・チャンドラー。この言葉は、現代においては解きほぐすことが出来ないほどに、陳腐化してしまっているのです。
この詩人は、これからも宿命の街として紐づけられた「K」の街を疾走していくだろう。そこで、彼の精神は<街>という空間を疾走していくのか。それとも、<街というどこにもない名づけによってのみ存在する位相空間>において、魂の疾走を続けるのだろうか。埒もない……わたしは、そのどちらの事象/現象も等価なものだと思っているから……
ホロウ・シカエルボク氏「喪失というものにかたちがあるとしたら」
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