初秋
山人

 ポットから熱い湯を注ぎ、インスタントコーヒーを啜る。ここ数日カルキ臭がする。とくに体がコーヒーの苦みを欲しているわけでもなく、便通を促すためだけに口にする処方薬のような感覚だ。疲れた時、インスタントコーヒーがものすごく美味く感じることがある。ここ最近は肉体的な疲れもさほどなく、ただ苦いだけの不味いコーヒーだ。それでも、どこか刺激を求めたくなるのである。その刺激のせいかどうかは不明だが、コーヒーを落としこむことで便通が促されたりすることもままある。
 外の音に気を配れば変わらない生き物の音がし、それぞれがそれぞれに今日一日を開始し活動をしていくのである。彼らの鳴く目的は主に繁殖のためや、テリトリーの警告音だったするのであろう。四六時中羽根をすり合わせたりしているのである。当然それはプランがあるわけでもなく、長い年月の中で自然と行われてきた遺伝でしかない。もちろん、繁殖したいという願望があるわけでもないのであろう、彼らを生存させ、繁殖することを命ずる神のようなものがきっとあるのだと思う。と考えれば合点がゆく。
 つまりは、あらゆることに多かれ少なかれ意味があるとするならば、この自分という些細な生きざまですらも何かの役に立ってきたのだという考えも浮かんでくる。
 およそ十一年前、私は命を失う一歩手前で救出され今に至っている。山村の誰も通行するはずもない場所で、偶然犬の散歩をしていた隣人にたまたま発見されて命を取り留めたという経緯があった。あんな偶然はあり得ないとすら思えたが、あったのだ。
 六十六年間を振り返れば、不運がかなりの率を締めているが、このように命を救われたり、大怪我を免れたりといった事例も多いと気づく。もちろん知人などは、常に順風満帆で不運というものが存在しないのではあるまいかといった類の人も多い。
 春以降、妻とは寝室を共にすることもなく私は仕事場で寝泊まりし、朝食のみを食べに家に行き、あとは冷凍飯や家から持ち出した総菜、仕事場の冷蔵庫からがさっと簡素に作った総菜などで自炊している。かといって夫婦仲が悪いのかと言えばそうでもなく、意外と二人で出かけることが多くなり、会話も増えていたりする。それぞれが個々の趣味や楽しみを満喫し日々を送るというスタイルになってしまっている。ただ今後妻が仕事を辞めた後、あるいは私の実父が死んだ後にはどうするのであろうか。熟年離婚という選択も彼女に残されているのであろうし、それを留める力も私にはない。
 いまが第二の人生なのだろうと思う。この先に第三の人生があるのなら、そこに向かう気力はごくわずかな気がしている。とにかく、無理をして働き、キチガイのような労働をこなし、そしてまだこうして老体に鞭打っている。これだけ労働したのに、何も豊かにならない。それはすべてにおいて、私自身の問題なのだろうし、まともな思考ができない典型なのだろう。もう十分すぎるほど生きた気がする。なんでも有りの生きざまを、カオスのような人生を時間の藪に塗れながら。
 「しようがない。心臓が止まらないんだもん」父は今年末に九十四歳を迎えるが、未だ酒を嗜み酔っぱらうことすらあるが、たまに冗談で口にする台詞だ。父にとっても今は第四くらいの人生なのだろうか。酒を嗜み、時代劇や相撲観戦をし、六十年以上前の事柄を饒舌に独り言を語り続ける父は、ある種怪物なのかもしれない。
 そんな父を見ていると、父より二十七年若い自分が生きることに疲れてしまっているのは情けないのかもしれない。
 消えてしまいたい、そう思うこともあるが、それよりも自分のあらゆることに関しての才が無いことにあきれるのである。私が野生の生き物であったのなら生き残ることは出来ないだろうと思う。
 この先、厳しい現実が待っていることだろう。決して楽になることはない。そして、消えることもあらゆる事柄を放棄することすらもできないまま、私は苦いコーヒーを胃に落とし込むように日々を一つづつ飲み込んでいくしかないのであろう。
 雨へ上がるのであろうか、うるさいミンミンゼミが本能のまま鳴き始めた。今日私はこれから遅い洗顔と投薬をし、整体に行き、家業のための仕入れを少しする予定である。
 
 


散文(批評随筆小説等) 初秋 Copyright 山人 2024-08-12 08:52:43
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