「イットと呼ばれた子」
由木名緒美


精神病の症状が悪化していた時、少年や青年に助けられる機会や、話が合うと感じる時期があった。年齢退行状態だったと思われる。今も父親に頭を撫でられることで精神を安定させる状態なのだけど。しかし現実に少年に性愛を感じる訳もなく、小児性愛について考えるきっかけになった。幻聴の日々の中ではあるけれど。

小児性愛者が、小児が成人した際に関心を失うのなら、それは「性愛」ではなく「性欲」であり、継続した人間関係を継続不能な病的な倒錯状態と位置付るべきであり、当事者が正当化することは不可能な治療対象状態と見るべきである。

しかしながら小児性愛を先天的な脳疾患と断じてロボトミー手術のように薬漬けにして抹殺しようとする主張は非科学的だし暴論で非人道的な行いのように思う。

酒鬼薔薇が性的サディズムを治療し成人女性を性的対象として見ることが可能なようであった様子からも、小児性愛も精神療法を施すことによって治療可能だと考えてよいと思われる。犯罪者に去勢を、と叫ぶのは恵まれた生活を営むマジョリティが貧乏人は臭いから隔離して町から追い出せと言っているようなものだと思う。

貧乏人はやがてマフィアになり平和な町を襲う。陽を見るから陰が大きくなる。陰にこそ陽の本質があるのに。

ある、被虐待児の里親の体験談をテレビで見た。里親の愛を試すために、被虐待児は暴虐の限りを尽くすという。時に便座の上から用を足すこともあり、里親の精神が病んでしまったそうだ。

けれどトリイ・ヘイデンのように「ガーベッジ・クラス」のこどもを、火事の中から人命を救出したかどで市役所から表彰を受けるような青年へと導く教育が、現実にみごとに達成されており、学ぶべき教訓は世界にたくさん散りばめられていると思う。

人間が、不可能を超えた可能性の先に希望を見出すことをやめた時、人間社会も本当の意味で終わりを告げるのではないだろうか。

小児性愛者に限らず、すべての犯罪や不幸は不遇なストレスから生まれることは科学的に断定してよいと思う。

実の母親に経血をなすりつけられ、糞尿をぬりたくられ、拷問のような暴力を受け、尿道に体温計をつっこまれて成長したこどもがやがて連続性犯罪者となり、最後に与えられるのは死刑とあらゆる罵声。

これが「平和な社会」なのだろうか。台所が臭いならゴミ箱を洗えばいい。平和な世界を願うなら犯罪者と向き合う行為は避けられないように感じるけれど、ただの妄想だろうか。

「正義」という言葉は、まるで「ガーベッジ・クラス」のこどもを隔離し、正常児だけの遠足会に満足気に笑っている大人達のようで、ガーベッジ・クラス出身のろくでなしのくずとしてはむなしさ覚える。

これだけの惨い歴史が累積した「現在」という地点から「平和」という未来を構築していく手立てがあるのだとしたら、惨たらしい闇を直視し、愛の眼差しで融和していく努力なしには、人類は進化していけないのではないだろうか。

一人の犯罪者が笑う時、世の中は一歩、平和を叶えていく。そのように思うけれど、闇は深淵で近づけば近づく程気が遠くなるばかり。


散文(批評随筆小説等) 「イットと呼ばれた子」 Copyright 由木名緒美 2024-08-09 14:42:12
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