タイトルを持たない、
パンジーの切先(ハツ)

 母との待ち合わせ場所へ行くには、駅からかなり歩かねばならなかった。この場所のように、都市とそのベッドタウンと、そのベッドタウンではたらく人々が仕事以外の生活をする場所に、まだ適切な名称はないのだろうか。

 深い緑いろの胴体に、白い屋根が載せられたログハウス風の建物は、その周辺を、かざらない印象の、白をベースにした背の低い草花と、うさぎや小人の置物で装飾したかんじの良い庭で囲ってあった。中に入る前にぐるりと一周したところ、駐車スペースの反対側には、テラス席があり、テーブルやイスは、木製のように見えたが、ガラス越しなので詳しいことは分からなかった。建物へ向かう数段の階段は、靴底が当たるとカンカン音を立てるので、それに気を取られて、うっかりと蹴飛ばしてしまった銀色の、やけに軽くて私の拳くらいのサイズしかない小さなバケツを元にあったであろう位置へ戻す。
 この暑さのなか、駅から25分も歩いたために、私は汗をだらだら流していて、小さなバケツなんかどうだってよかったのだが、そのままではなんとなく後味がわるい気がした。よっ、と声をかけて、膝を折った姿勢から、もとの姿勢へもどり、扉をこちら側へ引いて、中へ入ると同時に、キンとした冷房の涼しさと、いらっしゃいませ!という複数の女性の声に迎えられた。
 ご予約は、と一番近くの店員に尋ねられ、ああ、予約していて、連れが先に入っているんです、若林といいます、と返す。店員の女性は、一瞬、黄色い花柄のバンダナから溢れた髪を耳にかけ直し、私の角度からは見えない店内を見渡したあと、案内ボードを注意深く確認してから、こちらへ、と私を店内へ案内した。
 信じられないくらいざわざわした店内では、20代から60代くらいのあらゆる女性たちがケーキを食べ、紅茶を飲んでいる。そこの喧騒は、小学生の頃、500人くらいの生徒が集まる体育館での全校集会が始まる前と変わらないくらいのざわめきで、私はここで、誰かとお互いを理解し合うための会話をすることは、きっと誰にも不可能だろうと思った。
 案内された店内の私から見て、左端の一番奥の席のテーブルの中の左側で壁に少しもたれながら、ホールの入り口の方を向いて座っているのが、母だと気づくのに、少しかかったが、出された水をちびちびと飲んでいる姿を見て、ああ母だ、と思う。店員は、私を席に案内したついでに、私の分のグラスに水を注ぎ、母のグラスにも水を足した。店員が、メニュー表をもってきて、今日のおすすめがほうれん草となすのトマトソースだと伝えて去るまで、私たちは目も合わさなかった。
 あ、久しぶり、と私が声を掛けると、母は、久しぶり、と返し、一つしか置かれなかったメニュー表を手に取って、目を通し始める。あー、その、元気?と、次切るのは、天気のことしか残らないペースで、私は母との会話カードを切ってしまう。元気も元気、昼間っからこんなとこ、元気じゃなきゃこれないよ、と返ってきて、私はそれに頷く。ここにいるさまざまな年代の客に共通しているのは、ありあまるエネルギーだ、そして、それは私に足りないものでもある。母は、メニュー表を一度隅から隅まで見たあと、また最初のページにもどり、二周目のメニューチェックを始める。店員に、もう一冊メニュー表を頼もうとするが、店員は忙しそうで捕まらない。それどころか、目すら合わない。諦めて、母のメニューが決まるのを待つ。
 母は、ナスとベーコンのペペロンチーノとオレンジジュース、私は、本日のおすすめとウーロン茶を頼むことにして、呼び出しボタンを押して、店員を呼んだ。注文が繰り返され、飲み物は食前にということになり、店員は喧騒のなかへ去っていく。
 私たちには、いよいよ話すことがなくなり、ただお互いのドリンクを心待ちにするよりなかった。それから少しして、おろおろとしながら、学生のような店員が、ドリンクを盆に載せてこちらへきた。私は、お手拭きや水の入ったグラスを壁際に寄せる。店員はにっこりして、何かの確信の下の行為なのか、ウーロン茶を母、オレンジジュースを私に提供して、消えていった。私は黙って、オレンジジュースのグラスを母の方へ押しやり、代わりにウーロン茶をとった。いやだわ、ああいうの、という自身の発したひと言が、トリガーとなったように母は、彼女を苛立たせるあらゆる物事について、堰を切ったように話し出す。パート先に新しく来た社員が信じられないくらい使えないこと、同僚が孫自慢をしてくること、近所のスーパーの店員の態度がおそろしく悪いこと、父が映画を深夜まで見て、彼女と口を聞かないのが気に食わないこと。この洪水のような発話を、止める術がないと私は27年間の母-子関係で熟知しているため、曖昧な相槌をうちながら、ただパスタか、前菜のサラダかが来て、一瞬でも私が自由にできる時間がくるように祈った。
 私と母のもとにサラダがきたとき、急にヒートアップした母の声に驚いた私は、ウーロン茶のグラスを引き倒しそうになった。なんとか私はそれをパッと手を出して支えて、ことなきを得たが、母はその一瞬の出来事にも、目の前に置かれた彼女の分のサラダに目もくれず、日頃の鬱憤を晴らそうと、オレンジジュースを片手に話し続けている。
 私は、フォークを2人分、カトラリー入れから取り、一つを母に渡し、母にことわってから、サラダを食べ始めた。ドレッシングが甘酸っぱいような味で、水菜やサラダもしゃきしゃきとして、美味しかった。てっぺんに乗っていた、コーンをチョイチョイとあとで食べようと避けつつ、サラダを食べ進める。
 好き嫌い、まだあるの? 
 私は顔をあげる、母が白けた顔で私の方を見つめていた。まあね、まだ少しある。でも、嫌いなわけじゃないよ、食べる、けど、最後でいいかなって。私はそう言いながら、逃げるように、水の入ったグラスへ手を伸ばした。「そういえば、この前、お父さんが、ポップコーンなんて家で作ってた。後始末せずそのまま、お母さんが後は片付けた、いつも通り」。
 コーンを避ける私をチクリとしたついでに、ポップコーンへ連想をつなげ、見事に父の愚痴へと着地する母のみごとな姿は、オリンピックならメダルが貰えるレベルかもしれない。まあ、あれでしょ、映画、映画見て寝落ち……。よくあるよ、私もよくする。まあ、まあ!片付けは自分でしなきゃいけないよ、そうだけど!と言いながら、私はコーンを一粒、フォークの先に突き刺した。
 あんたはどっちにもいい顔をする。
 地を這うような声に顔をあげられなくなる。それは、たしかに度々指摘される私の悪癖だった。フォークの全ての先端にコーンを一粒ずつ装着しようとすることを、顔を上げない口実にしようと私は足掻く。そのうちに、それぞれに正しいパスタが届いた。私は、すべての先端に、ブーツを履いているみたいにコーンを刺されたフォークを見てふふと笑って、それを口に入れて、なるべく雑に噛み、すぐにウーロン茶で飲み下した。パスタはまずまずの味で、私は満足したが、母は味については何も言わずに、引き続き何かに悪態をついていた。

 テラス席の方から、ちいさなポーチ片手に白いワンピースを着た女性が、こちらへ向かって歩いてきたのは、私がパスタにフォークを刺そうとしたのと同じ時だった。白いワンピースから出た手が、健康的に焼けていて、その、日焼けした肌と白い布の作るうつくしいコントラストに目が吸い込まれていく。そのひとはさっさといってしまう。おそらくお手洗いに行ったのだろう。それよりも、私は、白いワンピースに包まれていた、いつかのおかあさん、を思い出していた。
 おかあさんは、私と同じで、(私が母と同じで)やけにしろくて、だからさっき見たようなグラデーションはできない。ただ、白い布に包まれた白い身体があるだけだ。わたしの左の上腕には、いくつか離れて火花が散っているような黒子があった。今もあるそれらを、当時は、何かあるといつも、指先でつないで、はやくおかあさんの気分が変わりますように、と願って、でたらめな方向に頭を振って、(すべてがまざるように、)わたしという、さなぎのなかみが均一にうつくしく塗りつぶされて、おかあさんを怒らせないにんげんになれるよう祈っていた。ふるえている赤いジャムのついたスプーンを掴んだ子どもの指先が、白いパンをめがけて、食卓上をたどたどしくうごく、このときに怒られているのは、わたしではなかったけれど、標的は、ねこのきまぐれみたいに変わった。わたしも、お父さんも、代わりばんこというか、常に標的を流動的に変えるおかあさんになれてしまって、もうどうしようもなかった。もう、わたし自体が、早いうちに何かに食いちぎられていて、吐き出された吐瀉物がわたしというにんげんのかたちをして、おかあさんの前に立って、頭を垂れているだけだったのに。だが、そうやって、ある種の知恵を身につけることが、わたしがさなぎから、孵るということだった。

 泣くなんて、嘘だよ。私が私へ言い続けた言葉。泣いたらお母さんはもっとひどくなる。泣くなんて、嘘だよ。おかあさんは、そんな私の様子に気づくことなく、いまだに皿から、どろどろした吐瀉物を、大切な娘にするように抱き上げている。

 でも本当はちがう。お母さんは、私にお母さんのお母さんになってほしいんだ。母の母、私の祖母は、とにかく花が好きで、花を育てることにだけ精魂を込めているひとだった。祖母は親としてはひどく未熟で、母は祖父と祖父の母に育てられてきたという。でも私は祖母が好きだった、まだ幼い子どもだった私からみても人として未熟なところは多々あった人だけれど、私は祖母には気を遣わなくてよかったし、祖母は私をとにかく甘やかしてくれた。庭でたくさんの花を見せてくれる祖母、西瓜を畑にぶつけて、来年もここに西瓜がなりますように、と二人で手を合わせて笑った。母がさみしい子ども時代を送ったことは、本人から何度も聞いて知っている。祖母はあきらかに親向きの性質、能力の持ち主ではなかったし、でもお見合いで祖父と結婚し、母を産んでしまったのだから仕方ない。母は子どものときに、ふつうのお母さんがいる家に憧れたという。だから自分は温かい家庭を作りたかったというのが彼女のいい分で、その相手としては父は不適だったという。
 お母さんにはお母さんの話を聞いてくれるお母さんがいなかったの。その代わりとされた私は、母の話を随分たくさん聞いてきた。私は彼女の優れた愚痴聞き係として、かつ標的として生きてきた。十八で家を出たとき、家というのはこんなに静かで、誰からの制約も受けないのかと感動したものだ。
 私は素早く、パスタをフォークに巻きつけた。もう私は母の標的になることはそうそうない。その役割を一手に引き受けていた父は、近頃、母に別れを切り出したらしく、今日もそれについて私は母から呼び出されたのだった。私にできることはなにもない、私は何もしないと、はやく告げなければならないが、私はのろのろとパスタなんかをたべている。この後のことを考えると、胸が勝手に苦しくなるが、本当に私に出来ることはなにもない。ただのフリーターの私が、母を迎えて暮らすのはあらゆる観点から無理だし、金銭的援助も今以上には、無理だ。お腹が痛くなって、母に言ってから、ハンカチを片手に、お手洗いへ向かった。馬鹿馬鹿しいくらいうるさいここに、私の居場所がないことは自明だった。ならば、母はどうだろう。お手洗いのドアノブを握って開けたとき、しかし、私には、母がどのような暮らしをしてきたどのようなひとなのか、そして、その(物理的-精神的)居場所にも、すこしのこころあたりもなかった。

 お母さんは、家族に尽くしてきた!と席に戻るなり始まった母の弁を私は深刻な顔で聞き流している。お母さんがどれだけ頑張ってきたか、と熱弁を奮いながら、感情の昂った母は、ついに顔を両手で覆って、ワッと泣き声をあげたように見えるが、いかんせんここはうるさすぎる。あんたには、わからないだろうけど……!と言って、母は顔を覆う手に力を入れる。
 泣くなんてうそだよ。
 私の声に、母がパッと顔を上げる、真っ赤な顔をしている、両目が充血しているのが見える、狼狽えた母を見て、私は反射的に口にしてしまった言葉を後悔する。子どもの頃からいつも、私はそう自分に唱えつづけてきたが、かといって、そのことを誰かに押し付けようと思ったことはないはずだった。母はぶるぶると、歳を重ねて皺の増えた手を振るわせながら、水の入ったグラスを取る。そこに水は入っていない。私は机を転がってきたグラスを掴んで、きちんとあるべき姿の向きへ戻して、母の手元に遣った。ここがうるさすぎる場所でよかったと心底思った。
 足元の荷物入れから、肩掛けの鞄を取って、黒い財布を取り出し、そこから三千円を出してテーブルの上に置く。そして、ちいさな紙袋をそこへ添えた。「お母さん、誕生日、近いから。おめでとう」。母は今度こそ本当に泣き出しそうになりながら、テーブルの上から目を背けている。「もう帰るよ、お母さんも身体に気をつけて。じゃあ」。私は席を立って、店内を横切り、レジにいた店員の女性に、連れがまだ中にいる旨を伝えて店を出た。カンカンと小さな階段を降りている間にも、ひんやり冷たかった身体が、すぐに夏の熱気に包まれてぬるくなる。庭に目を遣れば、薄い紫色の蔦性の花が地面を這って、敷地から溢れ出しそうな姿で咲いている。それはクレマチスと言うのよ。いつか祖母がそんな風に言っていた気がする。そういう記憶ばかりが、ある。


散文(批評随筆小説等) タイトルを持たない、 Copyright パンジーの切先(ハツ) 2024-07-17 22:57:37
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