キキコ
田井英祐

 キキコ、というが、これはうちの家内で本名は樹希、年は二一歳の、身長一四五センチに体重四十五キロぐらいだから先ずチビの方や。ところがこれが身体に似合わず、騒がしい。騒がしいだけやない。僕の眼からしたら相当うるさい方で、人にいわんでもええことをいってのける。気に入らんことがあれば誰かれ構わずそっぽ向く。そんな時はどんなに喜ばしても嬉しい顔をせんと、ムスッとしとる。それが腹立つ。せやから笑わす。すぐ笑う。ほんとガキ。樹希などと一人前に呼ぶ気はせん。よってキキコ。聞き分けのいい人になりって願いを込めて。
 今日は大晦日や。一年で一番忙しい日。誰も彼も外を走り回って無事に年を越そうとしとる。この日に一番ヒマなく働いとるのは、官憲・金貸し・極道や。官憲は誘導棒を振り人の流れを整え、金貸しは弁舌を振るい金の流れを整え、極道は匕首を突き付けて人の顔色を変えてしまう。晦日は一年の集大成や。僕らも官憲も金貸しも極道も皆、今年に片をつけようとする。僕もキキコも、このお三方には散々世話になったから、片をつけられそうになっとる。しかし、譲れんもんは譲れんし、払えんもんは払わん、無理なことはできんもんや。僕とキキコは、片をつけられないことのためやったらなんだってするのに、なんで今年初めに願った三つの事「幸福になりたい」「億万長者」「世界平和」を叶えられんかったのか、分からん。ほんとこの一年何しとったんや。全然思い出せん。だから、今年はもう一つ願い事を増やすことにした。「何事も忘れないこと」。これや。
大晦日の夕暮れ、家の前からブレーキ音がし、車のドアが開いて閉じる音がした。僕が眠い目を擦り炬燵から抜け出て立ち上がると、台所で年越し料理を作っていた割烹着姿のキキコが居間に入って来て僕のスーツの前を正す。チビのキキコはつま先立ちになって手を精一杯伸ばし、僕の襟元の裏に手を入れて直す。倒れそうになるからキキコのふっくらと大きくなったお腹に手を回して支えてやった。キキコは僕を見あげたまま言う。
「うちらが人の道に外れたんやから、ちゃんと謝らなくちゃダメ。短気は損気やで。」
「せやから、これ着とるんやろ。」
 僕がそう言うと、キキコは頷いた。僕が手を離すと、キキコの背がストンと縮んだ。さっきよりもなんや偉い小さく見えたから、「偉いチビに見えるわ」と言うと「そうや、偉いチビやもん」と胸を張った。「なんやムカつくけど、まあええ」と言いながら、もう一度自分で前を正し、その間、キキコがどんな顔しとったか知らんけど、絶対見たない。見たら、絶対、もっと腹立つし、恥ずかしい。
居間から八歩で玄関の縁に腰かけて、革靴を上手い事履いて、十歩目には玄関の引き戸に手をかけた。キキコが台所からバタバタ走ってくるから、転ばんか心配でヒヤヒヤしたけど、見たら怒鳴ってしまうと思って、黙ったまま玄関を開いて、軒先に出た。「あんた、ちょっと」って声かけられて、初めて振り向いたら、なんや爪楊枝に刺して持って来とる。キキコは軒先の電灯に背を向けとるから、キキコの前が影になって、なに持って来とるか全然分らん。夜と軒先の明りが混ざった薄い闇に、ボウッと爪楊枝の白さが浮き出ており、その先に突き刺さった銀杏型の物から、湯気が立ちいい匂いがしている。「ほら」って言うから、ためらいながらも「しゃあないわ」と観念して、前屈みになって口を開ける。キキコはそれでも、精一杯手を伸ばさんと僕の口に届かんかった。なんやその姿を見とったら、もっと恥ずかしいし、もっとムカつくから、ついつい言ってしもうた。
「偉いチビのくせに、うまい煮物つくるやないか。ほんま、偉いチビなのが惜しいなあ」
 そして、ここぞとばかりに言われた。
「だって、偉いチビやもん」
 腹立つから言うた。
「うるさい」
 軒先のライトを背にしたキキコがどんな顔しとるか分らん。でも、なんや、もうこっちは恥ずかしいから、ほんま顔も見たないし見せたない。せやから、背を向けて歩いた。そしたら、後ろから、大きな声で、
「お父ちゃん、ファイト!」
って言われた。「ほんま、チビのくせに、うるさいし人に言わんでもええこと言うし、騒がしい奴。そんなこと誰でもわかっとる。お前のためやったら、官憲も金貸しも極道も、何でも、追い払ったるわ。お前もそんな僕のことわかっとるのに、わざと言いよるやろ。ほんま、ズルい。ズルいけど、賢い。でも、あれや、そんな賢いお前のことなんか、お見通しや。俺にとって、お前の賢さなんて、可愛いもんや。偉い可愛いチビを嫁に貰ってしもうたわ、ほんまに」               なんて、口にだすわけなく、ただ振り返って、
「わかっとるわ」
 って言うた。キキコは電灯の下に佇んでて、今度はちゃんと顔が見えた。莞爾と笑って偉い可愛く見えたから、僕もなんや、顔引きつってもうて、笑った。そしたら、ガコンとブレーカーの落ちる音がして、電気が消えた。キキコは暗いのが苦手やから、小さく悲鳴を上げた。電気屋、気早いわ、もう電気止めてしもうたんかいな。そう言うてる間に、車のドアが開き閉まる音がして、エンジン音と車が動く音が表からした。僕は履き慣れない靴で走るのは、不利やと思って、脱ぎ捨てて、靴下で走った。
「ほんま、年末なのにゆっくりさせてくれへんなあ。樹希待っとってや。お父ちゃんすぐに帰ってくるから、一緒に年越して、来年は、三人で幸せになろうな」
僕は、そんなことよう言えんかったけど、その代りに思いっきり走って、電気屋の車を追いかけて止めてやった。


散文(批評随筆小説等) キキコ Copyright 田井英祐 2024-07-12 15:10:49
notebook Home 戻る