月の村 (散文詩 8)
AB(なかほど)
凸凹配位座はいつでも漂っていて、なにかの
拍子に、繋ぎ合っている手のひらの合間にも
ある。ついさっきまで当たり前のことが、風
ひとつ吹いただけで何ひとつ理解できなかっ
たり、その道理に畏れたり。わかっているふ
りをしながら、何ひとつわかってはいないの
だろうけど、当たり前のように。
田植えのすっかり終わった頃、いくつもの大
きな鯉のぼりが風に吹かれ、子供の日を学校
やテレビで教わった子は指をさして不思議が
る。月の暦では今からなんだ。五月晴れなん
てのは今からなんだ。もしかしたら、細胞の
ひとつひとつに繋がっているかもしれないと
いうのに、凸凹配位座がどこかですり抜けた
んじゃないか。
それでも、
スクは、陰暦の六月朔前後に浜に打ち寄せら
れる。まだ一度も藻を食んだことのない稚魚
でなければ、お腹の色が黒ずんでしまっては、
いいスクガラスができない。日頃公務員をし
ている男でさえも、何日も前から目の細かい
スク網作りをしながら、朔を待つ。銀色に輝
くスクが美しいのは、まだ一度も藻を食んだ
ことがないためだろうか、律儀にも月の朔に
打ち寄せられるからなのか、とにかく、光る
波打ち際で男達は嬉々とする。
あじずしが浜町出店に並ぶ頃、親っ様の漬け
た馴れずしがふるまわれ、キリコの灯が浜町
をねり歩く頃、虫送りの火が畦道をねり歩く。
やがて、日が沈む頃に、月が出るのを待って
いる。廃線脇で、次の電車と月が出るの待っ
ている。虫の声と踏切りの音はいつまでも、
凸凹配位座で鳴り続けている。
まだ当たり前のように、季節には穀物が実り、
スクが浜に、人に感情が、まだ当たり前のよ
うに、月は空に。そんなにありふれてもらっ
ても困るのだけれど。
目を閉じた世界では、凸凹配位座はいつまで
も漂っていて、地球のちぎれた塊でしかない
月との合間にも、繋ぎ合った手のひらの合間
にもある。そしてまだ当たり前のように、僕
らの細胞のひとつひとつにすべりこんだりも
する。