休日に考えたことなど
番田 

僕は昔は絵画教室で絵を描いていた。光や影を形として描きながら、僕はそのようにして絵を描いているのだということを知っていた。対象物の持つ、記号や、光に、模様を捉えようとしては、手でそれを描いていたのだと思う。人生とは何も答えのない正答の無い問いだ。渋谷の交差点は今日も、何かを求めているかのようにして歩き回る人の景色が流れる、懐かしいファッションや、ジーンズを着た人、白いスカートを履いている人、それらの中で目的地に向かって僕は歩いた。何も目的地は無いのだが、昔のことだけが思い出された。あの頃同じ場所に立っていた友達や恋人の横顔が胸をかすめて貝殻を海で拾ったことを思い出していた。浜辺でバーベキューをして肉を焼いて食べていると、そこに潮風が吹いて、肉は砂まみれになって胡椒代わりにしてそれを食べたことが今でも何となく思い出される。


僕は何でも無いことを考えている。そして生きていることを知っている、通り過ぎていく景色の中に思い描いた見ているものの存在を知っている。影に今は残されていたものを。米国の金融政策についての不安とこれからの見通しを考えては、何も具体的な答えを僕は出すことができずにいる、海に釣り糸を垂れていた時に見ていた景色を忘れて今は堤防の入り口の先にあった売店に並べられていたスナック菓子の価格を類推するのだ。遅れを取った日本の企業価値は米国に追従することはできるのだろうか。ソフトウェアや機械といった分野はすでに時代遅れとなった今、アップルのようによりデザインされたデバイス、あるいはオペレーションシステムの構築や巨大なテスラのようなインフラ構想が必要になる。日本は機械の分野では他の国に先んじていたが、そのような分野では目新しい事業はこの30年間登場しなかった。しかし日本が得意としていた機械産業である、パワー半導体の生産はこの先も必要なものとしてあり続けるのだという。時代遅れとなった感のある日本のテクノロジーは今でもそれを生み出すことは可能なのだろうか。僕にはこの先のことは今はまだよくわからないのだが期待している。


散文(批評随筆小説等) 休日に考えたことなど Copyright 番田  2023-06-05 00:16:59
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