鹿くん
はるな


ひとつひとつなら、簡単なことだと思う。息をすること、湯を沸かすこと、出かけていくこと、恋をすること、帰ってくること。でも鍋を火にかけたままとりこんだ洗濯ものをたたみはじめると焦がしてしまうし、恋をすると息をするのを忘れてしまう。出かけたまま帰ろうとしない気持を置き去って、軽くなった体だけで帰宅する。なにもかも簡単なことだと思う。でもぜんぶ上手くできない。
鹿くんは会っているあいだずーっと飲酒している。かわいい顔でにこにこ笑って、今週はおれ以外の誰と会ったの?とか聞いてくる。私も真似をしてにこにこ笑ってみるが、許してくれない。最初から最後まで機嫌良くしていて、いつも一瞬だけ苦しい顔をする、人混みでも、暑くても、構わずに繋ぐ、身長よりもっと大きい手のひらをしている。
会っても会わなくても同じだと思う。最初にみたときからわかった。夫と知り合ったときもそうだったし、そのあとに好きになって、のちに会わなくなった人ともそうだった。チョコレートを飲んで、公園を一周した。それで充分わかったと思ったからそのときは帰った。それからもうしばらく経つけれども、いまだにあの公園に置いてきたものがある。

堀の周りを歩いたのだった。蓮の葉がきれいに水をはじくのを見た。花曇りの日で、娘を産んだ日を少しおもいだした。色色な気持が思い出された。帰った方が良いとわかったから、半周したところでもう帰ります、と宣言すると、もう少し喋ろうよ、と悲しそうな顔をした。それでそうした。
あのとき怒ってるのかと思ったよ。と言うとき、鹿くんはちゃんと悲しそうな顔をする。あんまり帰ろうとするから、怒ってるのかと思った。と言う。そのあいだもすいすいとなんらかのお酒を飲んでいて、でも全然酔ったりしない。
それより見て、うちの近所に鳩が住みはじめたんだよ。わたしは鳩の写真をみせる。雨の日に、軒下でうずくまる、まるい二羽の鳩だ。ここに住まれたら大変だなあ、とおもったのだ。

あ、ほんとだ。
つがいで住んだね。

鹿くんは、うれしそうに言う。
すとん、と落ちる音がする。すとん、すとん、と、心地よく落ちていく。こんなにあかるい底があっていいのか、と思うほど、すとん、すとん、すとん、
と落ち続ける。


散文(批評随筆小説等) 鹿くん Copyright はるな 2023-05-29 18:51:35
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