黒い光輪。
田中宏輔
I あがないの子羊
I・I 刺すいばら、苦しめる棘
その男は磔になっていた。
目は閉じていたが、息はまだあった。
皹割れた唇が微かに動いていた。
陽に灼けた身体をさらに焼き焦がす陽の光。
砂漠の熱い風が、こんなところにまで吹き寄せていた。
腕からも、足からも、額からも
もうどこからも、血は流れていなかった。
砂埃まみれの傷口、傷口、乾いた
血の塊の上を、無数の蠅たちが
落ち着きなく、すばやく移動しながら
しきりに前脚を擦り合わせていた。
頭の上では、それより多い蠅の群れが飛び回っていた。
蠅が蠅を追い、蠅の影が蠅の影を追っていた。
男の目が、微かに開かれた。
彼と同じように磔になった男のひとりが彼の横顔を見つめていた。
もうひとり、彼の脇に、彼と同じように磔になった男がいたが
もはや彼には首を動かす力もなかった。
磔柱の傍らでは
汗まみれ、泥だらけのローマ兵たちが
サイコロ遊びに打ち興じていた。
襤褸布の塊のような灰色の犬が
見えない目で、真ん中の磔台の男を見上げていた。
犬の目はふたつとも色を失っていて、石のように固まっていた。
突然、俄にかち曇り、一陣の風が吹き荒れた。
砂という砂が、風に巻き上げられた。
真昼間に、太陽は光を失い、夜となった。
「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。」
男が暗闇のなかで叫んだ。
すると、光が戻った。
男は息を引き取っていた。
両脇の死体が片づけられているあいだ
真ん中の磔柱では
件の犬が、溝穴にできた血溜まりを嘗めていた。
男の死を見とどけていた女たちのなかから石が投げつけられた。
いくつも、いくつも投げつけられた。
犬にあたり、磔柱にもあたった。
それでも、犬は血溜まりを嘗めつづけていた。
ローマ兵のひとりが、女たちに手を振り上げた。
石つぶてがやんだ。
ひとりのローマ兵が犬を捕まえ
尻尾をつかみ上げて逆さにすると
思い切り地面に叩きつけた。
犬は一瞬の絶叫ののち、左前脚を曲げて
躯を引き擦るようにして、その場を去っていった。
もう女たちも石を投げつけなかった……
……なかった、いなかった。
そこには、ペテロはいなかった。
そこには、アンデレはいなかった。
そこには、ヤコブはいなかった。
そこには、ヨハネはいなかった。
そこには、フィリポはいなかった。
そこには、バルトロマイはいなかった。
そこには、トマスはいなかった。
そこには、マタイはいなかった。
そこには、もうひとりのヤコブもいなかった。
そこには、シモンはいなかった。
そこには、タダイはいなかった。
そこには、ユダはいなかった。
磔台の上の死をはじめから終わりまで見つめつづけていたのは
ガリラヤからつき従ってきたひと握りの女たちと
もの珍しげに見物していたエルサレムの子供たちと
磔の番をしていたローマ兵たちだけだった。
注記
この第I部のタイトルは、講談社発行のバルバロ訳聖書・新約・一三七ページの注記より拝借した。また、第I部・第I篇のタイトルは、共同訳聖書のエゼキエル書二八・二四にある、「イスラエルの家には、もはや刺すいばらもなく、これを卑しめたその周囲の人々のうちには、苦しめるとげもなくなる。こうして彼らはわたしが主であることを知るようになる」からつけた。頭に戴いたのは、王冠ではなく、いばらの冠であった。イエスの頭上、磔柱の上方には、ピラトの指示によって、「ユダヤの王、イエス」と記された罪標が打ちつけられていた。
犬は、この長篇詩の狂言回し的な存在で、それが象徴するものは甚だ多義にわたっているが、まずは、アルファベットに注意されたい。DOGが逆さまになると……。この犬を盲目にしたのは、無知蒙昧な民衆の比喩である。また、犬に血を嘗めさせたのは、列王紀の第二一章、第二二章にある、悲惨な最期を遂げた人々の血を犬が嘗めたという記述から。また、これは、葡萄酒を血に喩えた、最後の晩餐におけるイエスの言葉にも符合させたものである。ちなみに、『イメージ・シンボル事典』の「dog」の項を見ると、サイコロの悪い目のことが「イヌ」と呼ばれていたらしい。
「そこには──がいなかった。」と列記したのは、いわゆる十二使徒たちの名前であるが、このうち、ペテロをのぞいて、すべて講談社・少年少女伝記文学館・第一巻『イエス』によった。ペテロのみ、共同訳聖書から採った。ゴルゴダの丘にいたのは、記述した者のほかにも、イエスを訴えた祭司貴族や、律法学者や、ヘロデ・アンティパスに遣わされた者たちや、処刑見物の好きな民衆たちもいたであろう。しかし、彼らも、イエスがきれいな亜麻布に包まれるまではいなかったであろう。これは想像にしか過ぎないが、ローマ兵に命じられ、イエスに代わって十字架を背負ったクレネ人のシモンが、イエスが息を引き取るまで見つめつづけていたのではないだろうか。彼の名前をここに入れたかったのであるが、詩の調子が崩れることがわかったので諦めた。
I・II ヴィア・ドロローサ I
クレネのシモンは 犬が跛をひきな
坂道を下りながら がら坂道を
下りてゆきながら 下りて
思い出していた くる
磔になった男の …
… あの男の死に顔を
なぜ 死の間際に浮かんだ
あの男が あの不思議な死に顔を
自分のことを 頭から離れなかった
ユダヤの王だなどと シモンの右足が
そんな世迷言をいったのか 小石を一つ
農夫のシモンにはわからなかった けった
わからなかったけれど、そんなことなど
いまの彼にとってはどうでもいいことであった
あの男の代わりに十字架を背負わされたところにきた
あの男が膝を折って蹲ったところだ、とそのとき
傍らを汚らしい灰色の犬が走り抜けていった
そいつは跛をひきひき走り去っていった
シモンの目に、あの男の幻が現れた
まだ磔にされる前、衣服を剥ぎ
… 取られて裸にされる前の姿
なぜ であった。シモンが手
あの男 をのべると、ふっ
の幻が目の と消えた。消
前に現れたのか えてしま
クレネのシモンには った
わからなかった。わから …
なかったけれど、ローマ兵に
強いられて、あの男の代わりに
重い十字架を背負わされたことなど
不運なことだったとは微塵も思わなかった
注記
第I部・第II篇のタイトルについて、『図説・新約聖書の歴史と文化』(新教出版社、M・ジョーンズ編、左近義慈監修、佐々木敏郎・松本冨士男訳)の解説を引用しておく。「ヴィア・ドロロサ(すなわち<悲しみの道>)は旧市街(すなわち中世の都市)を通る道につけられた名で、イエスが<総督の官邸>から<ゴルゴタという所>(マルコ15・16、22)へ十字架を背負って歩まれた道を示し、敬虔な巡礼者たちによって使われる道である。13世紀の修道僧が最初に巡礼者としてこの旅をしたのが、おそらく事の起こりであろう。この道を現代の巡礼者たちは金曜日毎に、<十字架の道行きの留>(The stations of the cross)の各所で、祈祷と瞑想のために立ち止まりながら通過する。」。
I・III ヴィア・ドロローサ II
上がる道も下る道も、同じひとつの道だ。
(ヘラクレイトス『断片』島津 智訳)
「あんた、さっきから、なに考えてんのさ。」
「いや、なにも、べつに、なにも考えちゃいない。」
「ははん、こっちに来て、あたいと飲まないかい。」
赤毛の男は席を立って、女のそばに腰かけた。
──わたしの顔を知る者はいない。
「ここの酒は、エルサレムいちにうまいよ。」
「ほんとかね。」
男は、中身に目を落として、口をつけてみた。
「よく濾してある。香りづけも上等だ。」
男は一気に呑み干した。
「おやまあ、陰気くさい顔が、いっぺんに明るくなっちまったよ。」
「ああ。ほんとにうまかった。苦みがなかった。」
「ここじゃあ、枝蔓ごと、もぎ取ったりはしないからね。」
──田舎じゃないって、言いたいのか。
「女、なんという名だ。」
「マリアさ。」
──あのひとの母親と同じ名だ。神に愛されし者、か。
「あんたは、なんて言うんだい。」
「ユダだ。ユダ。マリアほどにありふれた名前だ。」
女が身を擦り寄せて、男の胸元を覗き込んだ。
男の手が懐にある財布の口を握った。
「なにか大事なものでも、懐のなかに持ってんのかい。」
──大事なもの? 大事なもの? 大事なもの?
「金だよ。金。金に決まってんだろ。」
「そら、大事なもんさね。」
女が男の膝のあいだに手を滑り込ませた。
財布を握る男の手にさらに力が入った。
女の耳は、三十枚の銀貨が擦れ合う音を聞き逃さなかった。
戸口の傍らで、灰色の毛の盲いた犬が蹲っていた。
II デルタの烙印
II・I 死海にて I
ユダは湖面に映った自身の影を見つめていた。
死の湖、死の水に魅入られた男の貌であった。
その影は微塵も動かなかった。
ただ目を眩ませる水光に
目を瞬かせるだけであった。
──この懐のなかの銀貨三十枚。
──これが、あのひとの命だったのか。
──これが、わたしの求めたものだったのか。
ユダは砂粒混じりの塩の塊を手にとって
彼自身の水影めがけて投げつけた。
水面から彼の姿が消えた。
「友よ。」
「えっ。」
ユダの目が振り返った。
イエスが、生前の姿のまま立っていた。
ユダはおずおずと手をさしのべた。
(ひと瞬き)
イエスの姿はなかった。
──幻だったのか……
──そういえば、はじめて師に出会ったのも、ここだった。
ユダの歪んだ影像が水面で揺らめいていた。
II・II 死海にて II
ユダは湖面に映った自身の影を見つめていた。
死の湖、死の水に魅入られた、男の貌であった。
その影は微塵も動かなかった。
ただ目を眩ませる水光に
目を瞬かせるだけであった。
「友よ。」
「えっ。」
見知らぬ男がユダに話しかけてきた。
「死の湖を覗き込んで、いったいなにを見ていたのだ。」
「……、自身の影を。」
「それは死だ。」
「えっ。」
「それは、死自体にほかならない。」
──いったい、この男は何者なんだろう? 死神だろうか。
「それは、おまえの目がこれから確かめることになる。」
ユダは、こころのなかを見透かされているのを知って驚いた。
男は石を手にとって、湖面に投げつけた。
「これで死は立ち去った。私についてきなさい。」
ユダの足は、男の歩みに固く従った。
II・III ヴィア・ドロローサ III
「……、そのとき、わたしは死のうと思っていたのだ。」
薄暗闇のなかで、マリアはユダの目を見つめた。
「じゃあ、そのひとは、あんたの命の恩人じゃないか。」
ユダは、女の豊満な胸のあいだに顔を埋めた。
女の目は、ユダの背後にある星々のきらめきを見つめていた。
「どうして、そのひとを売っちまったんだい。」
無意識のうちに、女の乳房を掴んでいたユダの手に力が入った。
「痛いじゃないか。」
「すまない。」
ユダは顔を上げてあやまった。
女はユダの頭を胸に抱いて、ささやくような小声できいた。
「金が欲しかったのかい。」
「ちがう。そんなものが欲しかったんじゃない。」
ユダは手をのばして、財布を引き寄せた。
「これは約束どおり、おまえにやろう。」
女の手に財布が渡された。
ユダは女の身体から身をはなした。
「行こうか。夜が明けてしまう。」
「あんたも大事なひとを失くしちまったんだね。」
マリアはまだ信じられなかった。
磔になって処刑された男が三日後によみがえるなんて。
そんな馬鹿な話を確かめるためだけに
銀貨三十枚も出す男がいるなんて。
──師よ。いま、わたしは、あなたを確かめにまいります。
ふたりの足は、イエスが葬られた墓穴に向かって
いそいだ。
III 復活
III・I 虚霊
墓穴のなかは、狼でさえ夜目がきかないほどに暗かった。
ふたりは、土壁に手をはわせて手探りしながら歩をすすめた。
奥に行けば行くほど、臭いがきつくなる。
──師は、師は、師は、……
マリアは袖口で鼻のあたりを覆った。
「見えるか。」
「ええ。」
マリアの声は、布を透してくぐもって聞こえた。
目が慣れて、少しは見えるようになった。
「師は、師は、師は、やはり死んでいた。」
ユダの身体が頽れた。
と、突然、狂ったようにイエスの遺体を引っ掴むと
亜麻布を巻きとって裸に剥いた。
「ああ、師よ、師よ、師よ。あなたは死んでいた。」
──やはり、復活など、ありはしなかったのだ。
ユダはマリアの姿をさがした。
マリアは亜麻布を持って立っていた。
「しっ。」
耳のいいマリアが合図した。
ユダはイエスの身体を抱き上げてマリアの背後に身を隠した。
──だれだろう。
マリアは亜麻布を纏って、両手をひろげた。
マグダラのマリアたちが姿をあらわした。
「驚くな。主はよみがえられた。」
マグダラのマリアたちは、御使いの声に驚いた。
「思い出すがよい。主は、おまえたちに約束されたであろう。
主はよみがえられたのだ。すでにここにはおられない。」
女たちは駈け出すようにして墓穴のなかから出て行った。
ユダはイエスの亡骸を地面のうえに置いた。
「さあ、出よう。女たちが戻ってきてはまずい。」
「その死体は、どうするのさ。」
──持ち出さねばなるまい。
「外に持ち出そう。」
マリアは肩をすくめた。
「わたしが背負って歩く。」
ふたりは墓穴から出た。
「友よ。」
「えっ。」
ユダの目が振り向いた。
「どうしたのさ。急に振り向いたりしてさ。」
マリアが訝しげに訊ねた。
「いや、なんでもない、なんでもない。さあ、行こう。」
大きさの異なる影が、エルサレムの門の外に消えた。
盲目の犬が、ひょこひょこと、ふたりの後ろからついていった。
III・II 廃霊
登場人物 マグダラのマリア
ヤコブとヨセフの母マリア
ペテロ
ペテロの弟アンデレ
他の使徒たちのコロス
大祭司カヤパ
祭司長と長老たちのコロス
舞台・I エルサレムの町外れ、ある信徒の家
舞台・II 大祭司カヤパの屋敷
舞台・I
(エルサレムの町外れ、イエスの使徒たちが隠れ家にしている、ある信徒の家。早朝。)
アンデレ──目が冴えて眠れなかった。
ペテロ──それは、わたしも同じこと。いや、ここにいる信徒たちはみな同じこと。だれひとりとして眠った者はおらぬ。
アンデレ──じゃあ、兄さんたちも、主が言われたことを信じているのかい。
(ペテロ、言葉に詰まり、空咳。)
アンデレ──信じているのかい。それとも、信じちゃいないのかい。
ペテロ──信じている、信じている、信じているとも。しかし、わたしにどうしろと言うのだ。いったい、わたしにどうしろと言うのだ。
使徒たちのコロス──それは、わたしたちも同じこと。どうすることもできない。いったい、わたしたちになにができると言うのか。
アンデレ──マグダラのマリアたちは、危険を冒してでも、主が埋葬されている墓穴に行くと言っていた。
ペテロ──アンデレよ。わたしたちは、おたずね者なんだぞ。ここにこうしているだけでも、危険がどんどん増していくのだ。きっと、墓穴のまわりは、大勢の番兵たちが見張っていることだろう。
使徒たちのコロス──マグダラのマリアたちが帰ってきたぞ。
(ふたりのマリア、登場。激しい息遣い。)
マグダラのマリア──主がよみがえられたわ。主が約束されたように、三日目になって、よみがえられたのよ。そう御使いが、わたしたちに告げたわ。
ヤコブたちの母のマリア──このふたつの目が証人よ。
使徒たちのコロス──それは、まことか。
アンデレ──それは、ほんとうか。
ペテロ──まあ、待て、アンデレ。
(ペテロ、マグダラのマリアを睨んで、)
ペテロ──マリアよ。番兵たちはどうした。見張りの番兵たちがいただろう。
ふたりのマリア──(声を合わせて)いいえ、いなかったわ。
マグダラのマリア──しかも、墓穴の入り口は開いていたわ。それが何よりの証拠だわ。
使徒たちのコロス──それが、何よりの証拠だ。
ペテロ──待て。パリサイ人たちが、いや、大祭司カヤパの手下どもが主の亡骸を持ち去ったのかもしれないぞ。
(アンデレ、マグダラのマリアの手をとり、)
アンデレ──番兵は、いなかったのだな。
(マグダラのマリア、力強く肯く。)
アンデレ──じゃあ、兄さんたち、ぼくたちも見に行くべきだよ。
ペテロ──罠かもしれん。
(使徒たちのコロス、動揺して、身を揺り動かす。)
アンデレ──何を言うんだ、兄さん。
ペテロ──罠かもしれんと言ったのだ。番兵がいないだなんて、だれが信じるものか。それにな、もしも、主が復活されておられるのだとしたらな、マグダラのマリアたちの目の前にではなく、まず、わたしたちの目の前に御姿をあらわせられるはずだ。
使徒たちのコロス──そうだとも、そうだとも。なぜ、わたしたちの目の前に御姿をあらわせられないのだ。
(ペテロと使徒たちみんな、ふたりのマリアを家の外に叩き出す。アンデレ、腕を組んで考え込む様子を見せる。)
舞台(二)
(舞台は替わって、大祭司カヤパの屋敷内。昼過ぎ。)
祭司長、長老たちのコロス──カヤパさま、例の罪人、ナザレのイエスの死体が盗まれました。
大祭司カヤパ──番兵たちはどうしておったのじゃ。
祭司長、長老たちのコロス──おりませんでした。
大祭司カヤパ──どこに行っておったのじゃ。
祭司長、長老たちのコロス──わかりません。
大祭司カヤパ──なんじゃと。
祭司長、長老たちのコロス──それよりも、カヤパさま。女がふたり、町で変な噂を流しているという知らせが入りました。
大祭司カヤパ──へんな噂とは。
祭司長、長老たちのコロス──例の罪人、ナザレのイエスがよみがえったというのです。
大祭司カヤパ──ばかな。その女たちを捕らえよ。すぐに捕らえよ。そのふたりの女たちの仲間が、例の罪人、ナザレのイエスの死体を盗み出したのじゃろう。そのふたりの女ともども、みな捕らえよ。
祭司長、長老たちのコロス──みな捕らえましょう。
(ここで、「捕らえよ! 捕らえよ!」の大合唱となり、舞台の上にするすると幕が下りてゆく。)
III・III 偽霊
ユダは目を凝らした。
駱駝を留めて、まじまじと見つめた。
砂漠の真ん中に、林檎の木が一本、生えていたのだ。
林檎の真っ赤な実がひとつ、ぶら下がっていた。
ユダは、それを手にとって、もいでみた。
すると、手のなかの林檎は
たちまち灰となって、掻き消えてしまった。
風のこぶしが、ユダの頬を殴った。
「友よ。」
「えっ。」
ユダの腹のなかで、ナイフの切っ先がひねられた。
「師よ。」
ユダの腹から、ナイフが引き抜かれた。
「師よ。」
ユダは、砂のうえに、膝を折ってうずくまった。
「師よ。」
三たび、ユダは、男に呼ばわった。
男は、ユダの着物でナイフの血をぬぐい、腰に差した鞘におさめた。
「師よ、あなたは、よみがえられた。いま、わたしの目はたしかめました。」
男の影は、ユダの話を聞いていた。
「師よ、わたしを、おゆるしください。
あの日、あなたを犬どもに売ったのは、わたしです。
ああ、いま、わたしは、あなたがゴルゴタの丘で磔になられた
あなたの苦しみを、いま、いま、……」
男は思い出した。
自分の代わりに十字架につけられた、あのナザレの男の顔を。
「イエスさま、お約束をお守りください。
ガリラヤで、アンデレたちがお待ちしております。
おお、主よ、主よ、わたしを、おゆるしください。
わたしは、ペテロにそそのかされ、あなたを、あなたを、……」
ユダの顔が膝の上に落ちた。
駱駝の背から、ユダの荷物を降ろしながら、男は考えていた。
髭を剃った自分の顔が、磔にされた、あの髭の薄い女のような男の顔に
自分の顔が似ていると。
そういえば、ナザレの男のことは、巷で噂になっていた。
磔にされて死んだはずのあの男が、復活して生き返ったというのだ。
このことを利用してやることができるかもしれない。
バラバは、ユダの死体を後にして立ち去った。
盲いの犬が、ユダの腹から流れ出る血を
飽かずに舐めつづけていた。
参考に。apple of Sodom: ソドムのリンゴ。(死海沿岸に産するリンゴで外観は美しいが食べようとすると灰と煙になったという。Dead Sea apple ともいう。(『カレッジクラウン英和辞典』apple の項目より)。