『斎藤茂吉=蠅の王(ベルゼバブ)論』。
田中宏輔

 
 ボードレールの作品世界に通底している美意識は、詩集『悪の華』(堀口大學訳)に収められた詩の題名によって捉えることができる。たとえば、「不運」、「前生」、「異なにほひ」、「腐肉」、「死後の悔恨」、「幽霊」、「墓」、「陽氣な死人」、「憂鬱」、「虚無の味」、「恐怖の感應」、「われとわが身を罰する者」、「救ひがたいもの」、「破壊」、「血の泉」、「惡魔への連禱」などである。

 本稿では、前半で、これらの語群をキーワードとして用い、斎藤茂吉の作品世界に、ボードレール的な美意識が表出されていることを示し、後半で、「蠅」がモチーフとして用いられている茂吉の短歌作品を幾首か取り上げ、『斎藤茂吉=蠅の王ベルゼバブ論』を導き出し、その作品世界を新たに解読する手がかりを与えた。


夕さればむらがりて来る油むし汗あえにつつ殺すなりけり(『赤光』)

をさな妻こころに守り更けしづむ灯火ともしびの虫を殺しゐたり(『赤光』)

宵ごとにともしともして白きの飛びすがれるを殺しけるかな     (『あらたま』)

ゆふぐれてわれに寄りくるかすかなる蟆子ぶとを殺しつ山ののべに(『ともしび』)

ちひさなる虻にもあるか時もおかず人をおそひに来るを殺しつ(『石泉』)


 これらの歌は、きわめて特異な印象を与えるものであった。害虫退治という題材が特殊なためではない。害虫退治が題材であるのに、ここには、害虫に対する嫌悪や憎悪といった表現主体の悪感情がほとんど見られないためである。悪感情もなく、害虫を殺すといったことに、なにかしら、尋常ならざるものが感じられたのである。


ゴオガンの自画像みればみちのくに山蚕やまこ殺ししその日おもほゆ(『赤光』)

河豚の子をにぎりつぶして潮もぐり悲しき息をこらすわれはや(『あらたま』)

さるすべりのの下かげにをさなごの茂太をつつありを殺せり(『あらたま』)


 子供ならば、面白がって害虫でもない小動物を殺すことがあるかもしれない。しかし、そのことによって、自分のこころが慰められているのだという認識はないであろう。あるいは、そう認識するまえの段階で、そのような行為とは決別するものであろう。しかし、茂吉は、そう認識しつつも殺さなければならないほどに、こころが蝕まれていたのであろう。


むらぎものみだれし心澄みゆかむ豚の子を道にいぢめ居たれば(『あらたま』)


 このような歌を詠まずにはいられない茂吉の心象風景とは、いったい、いかなるものであったのだろう。


唐辛子たうがらしいれたるくわんに住みつきし虫をし見つつしばし悲しむ(『白桃』)

昆虫の世界ことごとくあはれにて夜な夜なわれの燈火ともしびに来る(『白い山』)

砂の中に虫ひそむごとこのひと夜山中やまなかに来てわれは眠りぬ(『白桃』)

たまきはる命をはりし後世のちのよに砂に生れて我は居るべし(『ともしび』)


 これだけ昆虫を殺しながらも、その昆虫、あるいは、その昆虫の世界を哀れに思い、自身が昆虫に転生するような歌をもつくるのである。茂吉は、かなり振幅のはげしい嗜虐性と被虐性を併せ持った性格であったのだろう。


鼠等ねずみらを毒殺せむとけふ一夜ひとよ心楽しみわれは寝にけり     (『暁紅』)

狼になりてねたましき喉笛のどぶえを噛み切らむとき心なごまむ     (『愛の書簡』)


 まことに陰惨な心象風景である。しかし、このようなこころの持ち主には、小胆な者が多い。そして、そういった人間は、しばしば神経症的な徴候を示し、病的ともいえる奇矯な振る舞いに及ぶことも少なくない。


この心葬り果てんとの光るきりを畳に刺しにけるかも(『赤光』)

ふゆの日の今日けふも暮れたりゐろりべに胡桃くるみをつぶす独語ひとりごといひて(『あらたま』)


 このように病んだこころの持ち主が、異常なもの、グロテスクなものに、こころ惹かれるのも無理はない。


一夜ひとよあけばものぐるひらの疥癬かいせんにあぶらわれは塗るべし(『ともしび』)

うちもだし狂者を解体する窓のにひとりふたり麦刈る音す(『あらたま』)

狂者らは Paederasie をなせりけり夜しんしんとけがたきかも (『赤光』)

あたらしき馬糞まぐそがありて朝けより日のくるるまで踏むものなし(『ともしび』)

狂人のにほひただよふ長廊下ながらうかまなこみひらき我はあゆめる(『あらたま』)

けふもまた向ひの岡に人あまた群れゐて人をはふりたるかな(『赤光』)

墓はらを歩み来にけり蛇の子を見むと来つれど春あさみかも(『赤光』)

朝あけていろいろのしにがらのあるをし見れば卵産みけり     (『白桃』)


 これらの作品には、どれにもみな、ボードレール的な美意識が表出されているように思われる。


ものぐるひの声きくときはわづらはしたふとなりとおもひしかど (『白桃』)

十日なまけけふ来て見れば受持の狂人ひとり死に行きて居し(『赤光』)

死に近き狂人を守るはかなさにおのが身すらをしとなげけり     (『赤光』)

うつせみのいのちをしみ世に生くと狂人きやうじんりとなりてゆくかも(『この日ごろ』)


 精神科医であった茂吉の、気狂いに対する ambivalent で fanatic な思いは、どこかしら、彼の昆虫に対する思いに通じるところがある。ボードレールもまた、つねに ambivalent で fanatic な思いをもって対象に迫り、それを作品のなかに書き込んでいくタイプの詩人であった。


まもりゐる縁の入日いりびに飛びきたりはへが手を揉むに笑ひけるかも(『赤光』)

留守をもるわれの机にえ少女をとめのえ少男をとこの蠅がゑらぎ舞ふかも(『赤光』)

冬の山に近づく午後の日のひかり干栗ほしぐりの上にはへならびけり(『あらたま』)

うすぐらきドオムの中に静まれる旅人われに附きし蠅ひとつ(『遠遊』)

はへ多き食店にゐてどろどろに煮込みし野菜くへばうましも(『遠遊』)


「蠅」が茂吉の使い魔であることは、一目瞭然である。「蠅の王」(ベルゼブル、ベルゼブブ、あるいは、ベルゼバブ)は、蠅を意のままに呼び寄せたり、追い払うことができるのである(ユリイカ1989年3月号収載の植松靖夫氏の「蠅のデモロジー」より)。「ベルゼブル」は、マタイによる福音書12・24や、ルカによる福音書11・15によると、「悪魔の首領」であるが、茂吉に冠される称号として、これ以上に相応しいものがあるであろうか。demonic な詩人の代表であるボードレールに与えられた「腐肉の王」という称号にさえ、ひけをとらないものであろう。

 つぎに、茂吉を、「蠅の王」と見立てることによって、彼の作品世界を新たに解釈することができることを示してみよう。本稿の目的は、ここに至って達成されたことになる。


ひとり居て卵うでつつたぎる湯にうごく卵を見ればうれしも(『赤光』)


 一見、何の変哲もないこの歌が、「卵」を「赤ん坊」の喩と解することによって、「ひとりでいるとき、赤ん坊を茹でていると、煮えたぎる湯のなかで、その赤ん坊の身体がゆらゆらと揺れ動いて、それを眺めていると、じつに楽しい気分になってくるものである」といったこころ持ちを表しているものであることがわかる。


汝兄なえよ汝兄たまごが鳴くといふゆゑに見に行きければ卵が鳴くも(『赤光』)


「卵」を「赤ん坊」と解したのは、この歌による。

 拙論にそって、斉藤茂吉の作品を鑑賞すると、これまで一般に難解であるとされてきたものだけではなく、前掲の作品のように、日常詠を装ったものの本意をも容易に解釈することができるのである。




*引用された短歌作品は、すべて、斎藤茂吉のものである。


自由詩 『斎藤茂吉=蠅の王(ベルゼバブ)論』。 Copyright 田中宏輔 2023-05-22 01:00:31
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