田中恭平newさまへ
室町

田中恭平 newさま
コメント拝読しました。
長文何度も読み返しました。

それで.....田中修子という名前ですが
その名前を呼んでも
もういっさいの返事はないというそういう名前です。
かつて生きることに咳き込むように激しく懊悩した人の
名前です。
夢のように 幻のように
その詩のことばだけがかろうじてネット上に散見できる
そういう人の名前。
そしてもはや生きているのはただ人の心の中だけということによって精霊になった人。
つまり田中修子氏が住むのはもはやわたしの心の中やだれかの心の中だけなんです。
そういう人を語るときにねえ
つまりいつものごとく自己承認の手づるや道具や材料にして語るときにですよ
いつものごとく自己承認のネタとして扱っていいのかということがあるんです。
つまりもうはっきりいってしまうとわたしだけでなくほとんどの人は
まあ言うのもいやなんだけど常連てのは全部が全部そうじゃないですけど
自己承認の鬼みたいな方ばかりなんです。
でも自己承認しかないのだからこれを否定してしまったらネットの投稿板は空っぽになってしまう。
あのみなさんは詩だというけどわたしからみると詩なんかほぼひとつもなくて
とくに一部常連さんのなんかは詩ではなくて自己承認の資料でしかないわけです。
わたしの投稿雑文なんかはみなその類です。
それが悪いわけでないしそれで盛り上がっているからいいじゃないかといえばいいのです。
でも
ときにはですねそういうものであってはいけないものというのがあると思うんです。
このネタは自己承認の手段にしてはいけないてものがあると思うんですよ。
そういうですねそういうことに
少しでも留意があれば絶対にだらけた韻律にはならなかったと思うんですよ。
韻律てのは上手い下手じゃなくてその人の緊張して縮こまった姿勢や
内にためられた情動がいやおうなく弾けるように出てくるもので
そこにその人の表現の意図できない真髄がこめられているものです。
あの方の自己承認の文章はわたしの心に住む精霊のことを書いたに等しいのです。
ですからあの罵倒はわたしからの罵倒ではなくわたしのなかの精霊が
わたしに無断でやっちゃったんです。困った人だよわたしの中の田中修子さんは。


えーとそれからビーレビ?でしたか。
キッズ・ランドですね。
わたしのような大人が子どもたちの遊び場にお邪魔すること
はもうありません。
迷惑をおかけするだけです。ああいうお子様の遊び場については
論評する気も起きません。
一般論ですが
言語表現というものが安全安心に幾重にも針の鉄線で守らていて
絶対に外部から表現者を攻撃する者も傷つけかねない脅威もないとすれば
その場の表現者は温泉につかりながら安全安心な歌を詠む人になるのですが
そんなものだれが読みたがります?
そのような安全安心を担保にとったお子様ランドで生まれた表現など
現代詩としてはクズに決まっているわけです。
人はやっぱり雨あられの非難や苦情や罵倒を甘んじて受けなければならないときもある。
それが大人の世界です。
いまの日本にそういう外部からの規制や抑圧や脅威などありませんからそのかわりに辛辣な批評とか批判という
ものに置き換えて考えるべきです。
それへの覚悟をもたなくていいようなお子様ランドで詩の表現なんかありえません。
だいたいですよ「あの人のコメントきついからやだぁ~」って
そんなねえ
そんなのってないでしょういくらなんでも。そんなわがままが通用するようなそんな過保護の
わけのわからないところがあってそれでで禁足だのなんだのとカードを出すなど
吹き出すような話ですよ。そこにどんな批評が生まれるのでしょうか。
ありえないでしょ。
"そのような"ところ(つまり一般論としての"そのような")ところで詩人ごっこするのが悪いとは思えません
詩ごっこの初心の若い人たちが遊ぶにはとてもいいところかもしれません。
でも自称詩人が"そのような"ところ(つまり一般論としてのそのような)ところで
鳥なき里のコウモリのように詩もどきや批評もどきを書いていたら
心の底から軽蔑しますね。






散文(批評随筆小説等) 田中恭平newさまへ Copyright 室町 2023-05-19 18:13:57
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