人間ではない。
岡部淳太郎

 何か奇妙な感覚がずっとあった。それは僕の中に気づかないうちに住み着き、いつの間にか成長していた。それに僕は浸食され、操られてさえいるのかもしれない。また、そのせいで、僕はおそらくひどい生きにくさを感じてもいる。だが、それは同時に、僕にとってただ一つの生きる道でもあったのだ。
 詩を書くようになって、自分を詩を書く人間であると自覚するようになってから、このような思いを抱くようになった。その僕の中に住み着いて成長していた奇妙な感覚とは、平たく言えば異和であり、世界全体への馴染めなさである。そのような感覚から僕の詩は出発し、いまもその感覚を頼りに詩を書いている。世界に馴染めない僕が、それでも世界の中で生きていかなければならないというのは、酷なことではあった。だが、僕も世界の中に放りこまれた一人の人として見做されているからには、世界に馴染めないなどと言っている場合ではなく、あらかじめ用意された世界という場所でそのどこかにあるだろう椅子に座っていなければならないのだ。それが生きるということであり、それが出来なければ死ぬしかないということになってくる。だが、それでも消えない異和の中で僕が編み出したのが詩を書くということであって、それはおそらく自分でも意識しないうちにぎりぎりの方法として編み出されたものに違いない。世界に馴染めないのならば、自分の中に詩という世界を作ればいい。そんな寸法だ。そうして僕は、馴染めない世界の中で詩を書く者として存在するようになった。
 だが、そうして詩を書くことで生きながら、僕の中にある奇妙な感覚は消えはしなかった。いや、詩を書くことがその奇妙な感覚への答合わせになってしまった感もあり、それゆえにか、その感覚は強まるばかりであった。幼い頃から感じていたもやもやしたものが明確になったために、それに自覚的になってしまったと言っていい。詩を書くことで「詩人」として存在するようにはなったが、「詩人」とはそれは「人間」とはまた違った存在様式のようにも思えた。何か人間のふりをして過ごしながら本当は詩人なんだと、周囲を騙しているような感覚にもなったのだ。谷川俊太郎の有名な詩句を改変して言うならば、

 本当の事を言おうか
 人間のふりはしてるが
 私は人間ではない

 そう言ってしまいたい気分であった(谷川俊太郎「鳥羽1」より、「詩人」と書かれた部分を「人間」に改変して引用した)。こういうことを言うと同じような詩の書き手の中からも反感の意見が出るかもしれないと承知はしていてあえて言うのだが、実は詩人は人間ではないのではないだろうか。文字通り人と人の間に存在するのが「人間」というものであるのなら、詩人はそうした規範から外れてしまっている。詩人自身の存在基盤は実は人との間、言い換えるなら世界の内側でダイナミックに動く運動体の中にあるのではなく、人々を、また世界を、外側から眺めるような場所にあるからだ。世界が動き、人々が大勢集まって織り成す綾模様を、その中に入りこむのではなく外側から眺めて観察する視点がなければ、到底詩人など務まらない。そのような局外者的な立場に自らを置くということは、いわゆる人間的な、一般の世間的な幸福というものには当てはまらない姿勢がある。そうでなければ「世界を凍らせる」(吉本隆明の詩句より)詩など書けはしないだろう。
 ところで、以前見た演劇にこんな場面があった。それは舞台役者たちの劇の裏側を描いた自己言及的およびメタ的な視点のある劇なのだが、そのラストシーンで、主人公である劇団を率いる座長が街中で自分と同年配ぐらいの男を見て、その美しい妻や健康な子供を連れてリムジンに乗ったいかにも幸福そうな様子にこんなことを言う。「確かに羨ましいよ。でもな、あいつ舞台に立てないんだぜ」と(二〇一八年十二月五日~九日、築地ブディストホールにおいて上演された『スポットライト』より。主演・石橋正次)。これは果たして羨望ゆえの強がりであろうか。いや、決してそうではないだろう。劇団の役者など一般のサラリーマンに比べたら経済的にはずっと下層の部類に属することはよく知られている。確かに生活面での困窮を味わいはするだろう。だが、そうではなく、この台詞には舞台役者としての矜持のようなものがこめられているのだ。普通ではありえないであろう舞台に立つという経験ゆえに味わえるもの、それに魅せられているからこその台詞であることは間違いない。推奨された世間的な幸福を享受するのではなく、大して金が稼げるわけでもない、しかしそれゆえにか逆に普通の人間では味わうことがない特別なものを持ちうることの方を選ぶ。詩人というものも、これと似たようなところがありはしないだろうか。その劇の中でも登場人物たちが自分はなぜこんなことをしているのかと疑問を持ちながらも役者として舞台に立つことを肯定的に捉えているが、詩を書くという行為もそうで、詩で金を儲けるなど覚束ないし、大して人や社会の役に立つとも思えない、いわば実務的ではない行為であり、そんなことをそれでもつづけているのは、その中に普通に社会生活を送っているだけでは味わうことの出来ない特別な何かを見出して、それに魅せられているからに違いないのだ。
 だが、おそらく、そのような感覚が強ければ強いほど、その特別なことをしている者はますます一般的な「人間」から遠ざかってしまわざるをえないだろう。一般的な社会はそのような特別な何かを自らのうちに勘定していないからだ。それにのめりこみ、そこにしか自らを賭ける場所はないと思えば思うほど、その者はそれに特化した存在となってしまう。そのことが悲劇であるのかはたまた喜劇に過ぎないのであるかはひとまず措くとして、問題はやはりそうなってしまった自分自身をよく見つめることだろう。それは明らかに人間ではない。舞台役者は舞台役者であって人間ではないし、詩人は詩人であって人間ではないのだ。だが、そう言ったとて人間であることから生じる様々な義務や葛藤や面倒事から免除されるわけでもない。特別なことをしていたとて、それも結局は世界の枠組みの中で成される他ないのだから、特別なことをする者であると同時に、やはり人間なのだ。つまり、詩人でありながら人間でもある。または、舞台役者でありながら人間でもある。そのような存在様式が課せられている。もっとも、その人間である部分は他の普通の人々よりもかなり薄められてはいるのだが、社会や世界や世間というものは詩人や舞台役者などという特別なことをする者を想定していないから、彼等が他の人間と同じ見た目をしている以上は同じ人間として数えてしまうことになる。それは特別なことをする者の世界に馴染めない心理などに配慮はしてくれないのだ。つまりは、詩人の側から見ればまず詩人であり次に人間であるということになるが、世界の側から見ればただの人間であるという認識のずれが生じてしまう。しかしながら、やはり自らの生を生きるのが自分自身以外にいない以上、詩人でありながら人間であるという自分の視点から見るのが中心になってしまわざるをえない。そうであるにも関わらず、世間や社会や世界の代表者面をした他の人々は、こちらをただの人間であるとしか見てくれないのだ。
 これは何も僕に限ったことでもなく、また詩人に限ったことでもない。例に挙げて説明したようにいくらでもそのようなことはありうるし、自分で普通の人間であると思っている人であってもそのような状況を体験してしまう可能性は大いにありうることだ。だから、ただの人間ではないということを孤独に思い悩む必要などない。しかし、ここで確認しておきたいのは、最初に「人間ではない」と書いたものの、それは結局「ただの人間ではない」という方向へとスライドしてきているということだ。詩人だって人間である。それは正しい。しかしながらそれは詩人だって普通の人間だということを意味しない。最初の「人間ではない」という言い方だけだとともすれば自己憐憫の暗い方向に傾くことになりがちではあるが、「ただの人間ではない」という言い方だと、その後に「しかし」という留保をつけざるをえないだろう。「ただの人間ではない。しかし」という微妙な割り切れなさが残るのだ。この言い方の違いを考慮するならば、詩人だって普通の人間だということにはならないだろう。そのような言い方は、詩人(または先の舞台役者でもいい。そのような特別なことをしている存在)を普通の人間から引き離して高みに置くことで生じる傲慢な心理を警戒するという意図がこめられている。それは充分わかるのだが、詩人だって普通の人間だと言い切ってしまったら、特別なことをしている者ゆえの苦悩が充分表現されていないという感じがしてしまうように思う。おまえも普通の人間だよと言ったところで、世界に対して異和を感じて馴染めないでいる者の気持ちが救われるわけではないのだ。そうすると大事なのはやはり「ただの人間ではない。しかし」というその先の部分だろう。この表現しきれないもやもやとした混沌。そこにこそ特別な何かをしている者の、「ただの人間ではない」者の、見えない可能性が含まれていると考えるべきだ。そこにはいくばくかの矜持もあれば多くの挫折や癒されない傷もあるだろう。問題は複雑で先送りにされたままであるだろうが、せめて世界に対して「でもな、あいつ詩が書けないんだぜ」と言えるような気持ちがあっていい。おそらくそのようなぼろぼろの誇りの中からしか、「ただの人間ではない」者のいまだ見えない未来は開けてこないだろうからだ。



(二〇一八年十二月)


散文(批評随筆小説等) 人間ではない。 Copyright 岡部淳太郎 2023-01-16 09:51:22
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