HASAMI GROUP「IQ500の蕎麦屋」(
https://www.youtube.com/watch?v=yftOFLKgPFA)は、曲もさることながら歌詞のおもしろさが実に豊かだ。内容そのものもいいが、特にこの「IQ500の蕎麦屋」という題材そのもののおもしろみに気づいた着眼が見事だ。いかにすごいか、順に歌詞を引用しながら語りたい。
IQ500の蕎麦屋/知識がツユに染み出る
IQ500の蕎麦屋/苦学の蕎麦粉が喜ばしい
題のおもしろみを存分に生かし、「IQ500の蕎麦屋」というフレーズをハンバーガーの旗みたいに繰り返し振るっている。「蕎麦」というキーワードから想起できる最も手近なところにある”出汁”のイメージを「知識がツユに染み出る」とし、続くフレーズでは「蕎麦粉」と「喜(よろこ)」で押韻することで一気にBメロへ引きこんでいる。
オススメは鳥わさみたいな哲学
常連客は反モニュメンタル
Aメロで具体的に示されてきた「蕎麦屋」の姿が、歌い方も相まって地に足のつかない抽象的イメージに飛躍する。蕎麦のつけあわせに「鳥わさ」が出るような店なので、立ち食いというよりはやや高級店、お膳に入った上品な分量の蕎麦とフタつきのお椀に入ったツユが出てくるし、きっと各地の地酒が豊富に取り揃えてある。しかし最近はユッケも生レバーも出ない店が多く「鳥わさ」も例外ではないのだから、おそらくこの「鳥わさ」は消えゆくもの、すなわち”無”の象徴であると考えられる。”無”の「哲学」といえばサルトルの著書「存在と無」における自由(拠り所のなさ)=”無”という思想が思い浮かべられる。この蕎麦屋の店主は「鳥わさ」を提供する際に生じる食中毒にあたる危険性、言い換えれば危険な目に遭う自由(=”無”)に対する不安から、本当に「鳥わさ」そのものを全国的に”無いもの”として扱われるようになったという現象に思想的な重要性を見出していたのだろう。
「モニュメンタル」とはあるモノを永続的に保存しておくことでそのモノが象徴している事件や人物などの存在を記憶しておくことだ。「鳥わさみたいな哲学」をおすすめする店主の常連客であれば、象徴性への信仰から離れて自然主義的傾向を持ってもおかしくはない。「鳥わさ」の消失が意味するモノよりも、「鳥わさ」が”無”として扱われていることそのものに対する意識に重きを置いているのだから。
整合性の観点からカツ丼はない/抽象化の過程で消えた天ざる
逃走の理論で作る蕎麦掻/たぬきときつねの首都改造計画
「カツ丼」と「天ざる」のくだりは、一般的な蕎麦屋のメニュー事情を考えてみても理解しやすいだろう。問題なのは「蕎麦掻」と「たぬきときつね」である。「蕎麦掻」とは、デンプンの性質を利用して湯の中で蕎麦粉を餅状に丸めたものである。「逃走の理論」はおそらく浅田彰の「逃走論」のことで、平成のある時期の大学生から専門化たちを含めたあらゆる人々が口々にポストモダンや構造主義を論じていた頃に提唱されたアンチ・知識中心主義だ。”蕎麦をうつ”ことに職人的に固執し代々受け継がれてきた技術や知識に磨きをかけていくようなこだわりの姿勢とは対極にある、小学生でも作れる家庭的な「蕎麦掻」はまさしく「逃走論」的だ。「首都改造計画」とは、80年代後半に都内の主要都市のみにあらゆる施設や権力が集中していたことによる歪みを是正するためにたち上げられた政策で、主要都市と同様の機能を複数の都市に分散させることを目的としている。まさに、「たぬき」や「きつね」といった主要メニューに客の支持が集中することを避け、ほかのメニューにも人気を分散させることで材料のムダをなくすとともにバラエティ豊かな蕎麦屋の顔を見せる機会を増やすことと見事に接続している。このフレーズは「哲学」と「蕎麦屋」をタイトに地続きのものとすることに一役買っている。
立ち食いを超える飛び食いで宇宙へ
惑星SOBA打ち上げ成功
こちらでは「哲学」と「蕎麦屋」が逆にルーズなつながりを見せている。「宇宙へ」から「打ち上げ成功」と物語を作ることによって、ルーズさが悪い方のナンセンスに傾かない絶妙なバランスを見せている。技巧的な構成だ。
あぁ頭がいいってなんだか悲しいね
あぁ僕の蕎麦の謎を解いてほしい
詩文に不可欠な”感傷”がサビで盛られる。サビだけに鼻にツンとくるような切なさだ。この”感傷”は、はじめて店主が「僕」と語り始めるところから生まれている。インテリジェンスを匂わせない率直な文体で、「悲しいね」と感情を訴え「解いてほしい」とこちらに自分の有り様を委ねてくる姿勢は、多くの聞き手から共感を集めることだろう。
IQ500の蕎麦屋/まさかの客が訪れる
IQ500の蕎麦屋/涙を流す男は
IQ1000のFラン大学生
頭が良すぎて英語ができない…
「まさかの客」は、先のフレーズで蕎麦屋に共感してしまうような聞き手のうちの一人だ。彼は「IQ1000」と、一般的感覚からすれば「蕎麦屋」よりも2倍「頭がいい」ということになるが、私の読みではこの「大学生」もおそらくこの店主と同じ人生を送ると考えうる。「Fラン大学生」になってしまったのは、彼の能力面での価値が世間から認められなかったからだ。「頭が良すぎて英語ができない…」とは、「頭がいいってなんだか悲しいね」と同様、IQが高すぎることの弊害を嘆いているもので、店主の境遇と共通している。また、一般的に「Fラン大学」の卒業生は有名企業や公務員といった安定した仕事に就くことが難しいため、「蕎麦屋」のように自営業で店を持つ進路が現実的なものとして考えやすいのだ。このような人物を「まさかの客」と表現しているあたり、店主はこの客から普通の客とは違うシンパシーを感じたのではないか。
あ 俺空気読みすぎて言葉ベラベラ出ない
あ これバブルが弾けて過去利用した文化?
おそらく最も難解なのが「バブルが弾けて過去利用した文化」の箇所だ。ひとつの読み方としては、”既に弾けてしまい過去のものとなってしまったバブル期に利用されてきた文化”が「これ」の内容だ。ここまで登場した「逃走論」や「首都改造計画」はことごとくバブル期のものである。また、自営業で一儲け、といった夢を追うことができたのもバブル期であるし、「Fラン大学生」でも就職に困らなかった時代でもあるのだ。「言葉ベラベラ出ない」のは、「空気読みすぎて」、つまり既に過去のものとなってしまったバブルの空気感の消滅を誰よりも鋭敏に察しているために、バブル期を生きてきた同世代の人たちの無責任で前時代的な物言いよりも慎重に発言してしまうからだ。この自らの慎重さに「あ」と気づくことによって、自分の世代が未だに「バブルが弾けて過去利用した文化」の中にあることに二度目の「あ」を機に自覚的になっているのである。内言で語られる瞬発的・主観的な気づきであるがゆえに、客観的に見ると難解だ。
何をやってるのかわからない朝方
でもこの蕎麦を食べさせたいあなたに
あぁ頭がいいってなんだか悲しいね
あぁ僕の蕎麦の謎を解いてほしい
「朝方」という時間設定に注目してほしい。立ち食い蕎麦の場合、タクシーやトラックの運転手を中心とした夜勤明けの人向けに開店しているケースが多い。この「IQ500の蕎麦屋」は、通常の店が営業しないような「朝方」の時間帯から店を開けて、「頭がいい」ことの悲しさを噛み締めながら客に蕎麦を振舞っているのだ。相手は夜勤とはいえ正規雇用されている、自分よりもIQは確実に低いが充足した”今”を生きている客たちである。これを「何をやってるのかわからない」と表現することには何ら違和感を挟む余地はないだろう。
それゆえに、「僕の蕎麦の謎を解いてほしい」と救いを求める必要があるのだ。「僕の蕎麦の謎」とは既にわかっているとおり、この蕎麦屋が蕎麦屋である理由、もっと言えば「IQ500」として生まれてきたことに対する個人が抱えるには大きすぎる驚きだ。あるものがそのものであることに対する問いは、「哲学」の根源的な問いである。「IQ500」と「蕎麦屋」はこうしてウロボロスのように互いにテーマを交わらせ、融合し、一体化する。