詩の日めくり 二〇二〇年十三月一日─三十一日
田中宏輔

二〇二〇年十三月一日 「学園紛争」


 ぼくは同志社大学の1980年度生だ。1980年度に入学したって話だけど、ぼくの大学一回生の後期の授業は、学園封鎖で潰れた。後期テストはレポート試験だった。ところで、当時、学園紛争で休校になったのは、同志社大学だけで、それも、ぼくが一回生のときのことだけだった。さいごの学園封鎖だったわけだ。ぼくより前の年度に入学したひとは、4年間のうち、2年間も学園封鎖の羽目に陥ったので、そのことが就職に不利だったと言われている。なぜこんな話を書く気になったかといえば、ぼくがまだ小学生か中学生のときのことだ。祇園で、警察に追われていた学生を、うちの父親がかくまったことを思い出したからだ。当時、祇園の家は、祇園会館の真ん前にあって、3階建てのビルだった。一回でブティックと喫茶店をしていた頃の話だ。懐かしい。


二〇二〇年十三月二日 「大学生のお兄さん」


 懐かしいといえば、河原町の映画館のまえで、ぼくと弟がけんかをして、ぼくが弟に向かって頭突きをしたのだけれど、弟がさっとよけて、ぼくが頭突きをした場所が映画館の写真を貼り付けてあるガラス張りのケースの角で、ステンレススチール製の角で頭を切って、ぼくは血まみれの頭をして、倒れてしまったのだけれど、そのとき、見知らぬ大学生のお兄さんが、タオルをもっていて、それをぼくの頭にあてて、ぼくの住所を訊いて、ぼくをぼくの祇園の家に連れて行ってくれたことだ。タオルは血まみれだった。弟は逃げ出していなくなっていた。ぼくは、なんてやさしいひとなんだろうと、その大学生のお兄さんのことを思った。


二〇二〇年十三月三日 「名前の由来」


 叔父は河野清輔という名前で、ぼくの宏輔の輔は、そこからもらったもの。叔父は、祇園にチャイナタウンというビルと、河原町にトップテンというビルを持っていた。小学生のころ、チャイナタウンのなかにあった何階かのサウナによくただで行っていたんだけど、湯船には飛び込むは、まわりのお客さんに迷惑をかけて、しっかりと怒られて、何回かで出禁になった。トップテンではディスコをやっていて大学生のころにはよく行ってた。踊っていたら、男女のカップルに声をかけられて、なんかあやしい誘いがあったのだが断った。その男女の男のひとのほう、ぼくが小学校のときに行っていたアカデミー学園という塾の学長だったのだが、相手は気がついていなかった。ぼくは知っていて、奇妙な縁もあるのだなあと思った。


二〇二〇年十三月四日 「茶色いしみ」


 コントのコンビである空気階段のおふたりのうち、太ったほうの方がラジオで、「わたくし、もぐらは、朝起きると、枕に茶色いしみが付いています。」とおっしゃっていたのだが、ぼくもそうで、首の後ろにできものができていて、それを手でかいてしまうので、血が出てきて、枕に血がついてしまうのである。手でなるべくかかないようにしなければならないと思っているのだが、ついついかいてしまうのであった。


二〇二〇年十三月五日 「ノブユキ」


 むかし付き合ってたノブユキは眠るとき、自分のチンポコを握って眠っていた。なんでと訊くと、「安心するから。」だって。ぼくにはない感覚だと思っていたが、さいきん、ぼくも寝るまえにチンポコを握ってしまうことがある。いまなら、ノブユキの言ってたことがわかるような気がする。


二〇二〇年十三月六日 「先祖」


 ぼくには子どもがいません。ぼくで、ぼくの血筋が絶えます。ぼくをこの世に誕生させるためには、ぼくに父と母のふたりの人間が必要だったわけで、その父母を誕生させるためにも、父母には父母の父母が必要だったわけで、そういってさかのぼれば、10代まえには1024人の人間が必要であったわけで、10代をさかのぼるのにはおよそ2、300年かかると思われ、20代まえには、およそ1000000人の人間が必要であったわけで、というふうに計算すると、30代まえでさえ、30代まえの日本の人口を軽く超える1000000000人以上の父父父、母母母がいることになって矛盾が生じるのですが、現実が複雑なのでしょうね。計算が合いません。しかし、それにしても、ぼくひとりを生ぜしめるのに、膨大な数の人間がかかわっていたはずで、それが、ぼくがゲイのせいで、それらの人間の営みが、ある意味、ぜんぶパーになるわけです。とても罪なことをしているなという自覚はあります。子どもは欲しかったというのが本音です。


二〇二〇年十三月七日 「馬糞ウニ」


馬糞ウニがいるくらいだから、うんちクラゲがいたっていいじゃないか!


二〇二〇年十三月八日 「オマンコする」


 ぼくがいま持っている独和辞典でficken を引くと、「性交する」と出てくるが、大学時代、友だちが持っていた独和辞典では、ficken を引くと、「オマンコする」と出ていて、うらやましかったことを憶えている。どこの出版社の独和辞典かは忘れてしまったけれど。


二〇二〇年十三月九日 「夢」


 けさ、奇妙な夢を見た。自らの手で自分の首を切断したぼくが、両手で頭をもとの位置に維持しつづけながら、いろいろなところで、いろいろなことをしゃべっているというもの。何を暗示しているのか、さっぱりわからない。


二〇二〇年十三月十日 「体育教師」


 ぼくら中学生に何をつたえたかったのだろうか、中学校の3年のときの体育教師の井上先生が、ぼくらに、こんな話をした。「おれはラグビー部だったが、レギュラーになるために味方の手をスパイク付きの靴で踏んづけてけがをさせた。」と。どういった意図があって、こんな話をしたのか、わからない。


二〇二〇年十三月十一日 「別人」


 中学3年生のときの英語の先生の桂先生が、ぼくが大学を出るころに道ですれ違ったのだけれど、まったくの別人になっていた。噂で、離婚したらしく、生活は乱れて、ボロボロになってるって話だった。たしかに生活がすさんでいそうだった。パチンコにはまっているという噂だった。ぼくが大学に入学するとき、居酒屋さんに連れて行ってくださって、お祝いしていただいたのだけれど。中学3年生のとき、英語はがんばっていたから、大学に入学するときに、合格した大学のうち、どこの大学にするか相談にのってもらったのだった。当時はお酒にあまりうるさくはなく、高校時代にだって、ぼくら学生がやっているコンパに担任の先生の河合先生が来られて、「これで酒でも買ってこい。」といって、一万円札を置いて帰っちゃったことがあるくらいだった。いまなら大問題だろう。


二〇二〇年十三月十二日 「きょうも悲しい網を投げかけている。」


 映画の『イル・ポスティーノ』のなかで、たぶん、主人公の郵便局員が朗読していたと思うんだけれど、パブロ・ネルーダのつぎの詩がよかった。

パブロ・ネルーダ 「歩きまわる」

俺は人間であることにうんざりしている
俺が洋服屋に寄ったり映画館にはいるのは
始原と灰の海に漂うフェルトの白鳥のように
やつれはて かたくなになっているからだ

俺は床屋の臭いに大声をあげて泣く
俺が望むのはただ 石か羊毛のやすらぎ
俺が望むのはただ 建物も 庭も 商品も
眼鏡も エレベーターも 見ないこと

俺は自分の足や爪にも
髪や影にもうんざりしている
俺は人間であることにうんざりしている

(冒頭から3連を引用した。全部で10連ある。桑名一博訳)

でもって、『イル・ポスティーノ』では、忘れられないやりとりがあった。詩人と親しくなった郵便局員に、詩人が、漁船で作業している漁師を見て、どう思うかねと尋ねたら、「きょうも悲しい網を投げかけている。」と郵便局員役の役者が返事するのだが、そこで、詩人役の役者が、「悲しい」という形容語はまさしく正しい形容語だねと言った。この部分も忘れられないやりとりの映像だった。「きょうも悲しい網を投げかけている。」いい詩句だと思った。しかし、もしかしたら、これは記憶違いかもしれない。ネルーダ役の役者が、漁師が漁船で網を投げかけているのだが、それについてどういう形容語がいいだろうかと郵便局員役の役者に尋ねたら、彼が「悲しい」という形容語をつぶやいたのに感心したのだったかもしれない。古い映画だ。思い出も錆びついている。詩人役の役者が郵便局員役の役者に「きみなら、どういう形容語をつけるかね?」と尋ねたのだったかもしれない。とかとか書いてたら、无さんに教えていただきました。以下の四行は、无さんのお言葉です。
:
『イル・ポスティーノ』に登場する漁師は主人公マリオの父親です。詩人パブロが島を去った後、彼が残したテープレコーダーを使ってマリオは島の様々な音や声を記録してタイトルをつけていく。その過程で、彼は漁をしている自分の父親にもマイクを向ける。その録音の作品タイトルが「我が父の悲しい網」。

いったい、ぼくの記憶はどうなっているのでしょうかね。


二〇二〇年十三月十三日 「千本日活」


 発展場のポルノ映画館でかかっているポルノ映画には、独特の哀愁があって、ただ映画をみるだけの発展目的でないこともあって出かけていた。人間と人間のドラマを、映画監督も意識していただろうし、役者のひとも一処懸命に演技していたのだろう。ポルノ映画は、低予算でつくられるのだけれど、いまだに忘れられない作品が何本もある。ここさいきん、二、三年は、ポルノ映画館に行ってないけれど、ポルノ映画館では、再上映がよくあるから、むかし見た忘れられないポルノ映画もやっているかもしれないね。また見に行ってみようかな。忘れられない場面のひとつに、畑で農作業をしている女のひとが男に襲われる場面があって、そこで、男は大根を女のあそこに入れようとするのだけれど、さすがに、大根の先っちょだけしか入らなくって、先っちょだけ濡れていたシーンがあった。あ、こういうのばかり憶えているんじゃないよ。主人のいないときに間男を自宅に引き入れていた夫人が、その間男に言うセリフが泣かせるものだったのだった。いま、そのセリフを引用しようと思ったら、思い出せなくなっている。そのセリフが交わされた場面の記憶だけが残っている。なんという忘却力。でも、そんなふうに、ポルノ映画から得たものも、感覚的に、ぼくの詩に影響していると思う。良質の哀愁があるポルノ映画も少なくないんだよ。あ、間男に夫人が言ったセリフを思い出した。「わたし、忘れないからね。ぜったい忘れないからね。」だった。


二〇二〇年十三月十四日 「腋臭」


 日知庵に客として行ったときのこと。いつも二時間くらいいるのに、その日は一時間くらいで帰ったので、後日、えいちゃんに、「臭かったん?」と訊かれ、ぽかんとしてると、そのときにいたお客さんが腋臭だったからという。ぼくが腋臭の臭いが大嫌いだって知ってるからね。ううん、べつに、ちょっと体調がよくなかったんじゃないかなって言った。そういえば、ジュンちゃんはものすごい腋臭だったけれど、タイプの男の子だったら、腋臭でも、ぼくはがまんできるみたい。ジュンちゃんが部屋に遊びにきたときは、帰ってからも一日中、腋臭の臭いが部屋にしてたものね。でも、タイプだったらだいじょうぶ。ずいぶん自分勝手な嗅覚してるなって思う。


二〇二〇年十三月十五日 「ミキヤさん」


 日知庵にくるゲイのお客さんに、さいきん、どうですかと、発展場情報を尋ねてみた。千本日活のことだけれど、毎日、3本のポルノ映画をルーティンでやってるところだけど、あんまり変わらないという返事だった。でも、ミキヤさんが来てたって。ミキヤさんて、ひとが座席で気持ちいいことをしているときに、のぞきにくるので有名なひとだった。ぼくはのぞかれたことはなかったけれど、日知庵にきてたお客さんはのぞかれたことがあるらしくて、もう、ほんとにねえ、困っちゃったわって言ってた。


二〇二〇年十三月十六日 「字」


 学校からの帰り、興戸駅でごいっしょした習字の先生に、「ぼくは、飛ぶという漢字がうまく書けないんですよ。」と言って、メモ帳を取り出して「飛」という漢字を書いてみせたら、「それは書き順が違っていますよ。「飛」という漢字は、こういう書き順で書くのですよ。」とおっしゃって、正しい書き順を教えてくださった。その正しい書き順で、メモ帳に、ふたたび「飛」という漢字を書いたら、ぜんぜん見栄えが違う美しい字に見えた。正しい書き順がいかに大切なものか、身に染みて知った。これは、ほかのいろいろなことにも言えそうだな。


二〇二〇年十三月十七日 「迷惑だね。」


 同志社国際高校で勤めていたときの話だ。教員たちは一時間目の授業が始まる時間よりずっと早く学校にきているものだけれど、授業が始まる20分くらい前に、近鉄鉄道で人身事故が発生したということで、職員室がしばらくガヤガヤしていたのだが、ぼくの前の席に坐ってらっしゃった下村先生が、「迷惑だね。」とおっしゃったのを聞いてびっくりした。ぼくは、また不幸にみまわれたひとがひとり、命を失くされたのだと思って深刻な気分でいたので、ふだんの調子で、「迷惑だね。」と言い放たれた下村先生の人格を疑ってしまった。まあ、生徒たちが時間通りに登校できないとはいっても、ひとひとりの命よりも優先する話ではないように思えたので。


二〇二〇年十三月十八日 「コックス先生」


 同志社国際高校に勤めていたころ、ぼくはオウプンリーにゲイだと公言していたけれど、ゲイなのにゲイって言わなかった先生がいて、悪質なイジメに遭っていた。ところがその先生、アメリカに帰省中に心筋梗塞で死んじゃったんだけど、ぼくは別に呪ってなんかいないからね。


二〇二〇年十三月十九日 「変態か?」


 そういえば、同志社国際高校では、ほかの先生にも嫌がらせを受けたな。「変態か?」と言ってくる先生もいた。


二〇二〇年十三月二十日 「カミングアウト」


 でも、まあ、そういったイジメも、ぼくがカミングアウトしてたから受けたのだし、まだまだゲイに対する偏見があるということが顕在化したという点では、ぼくの認識が深くなったと言えるだろう。


二〇二〇年十三月二十一日 「LGBT問題委員」


 LGBT問題委員会みたいな部署が同志社国際高校にあって、そこにいじめられていることを訴えたら、いじめはなくなった。


二〇二〇年十三月二十二日 「ジェイムズ・メリル」


 詩集の最高傑作は、ジェイムズ・メリルの『ミラベルの数の書』だと思う。そういってるひとに出合ったことないけれど。


二〇二〇年十三月二十三日 「ブロッホ」


小説の最高傑作は、ブロッホの『ウェルギリウスの死』だ。


二〇二〇年十三月二十四日 「ヴァン・ヴォクト」


SF小説で最高傑作は、ヴァン・ヴォクトの『非Aの世界』だ。


二〇二〇年十三月二十五日 「ミラベルの数の書」


 いま、『ミラベルの数の書』が、Amazon でいくらくらいするのか見てみよう。最安値で6375円してた。
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二〇二〇年十三月二十六日 「ウェルギリウスの死」


 いま、『ウェルギリウスの死』がいくらくらいするのか見てみよう。最安値で5270円だった。
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二〇二〇年十三月二十七日 「非Aの世界」


 いま、『非Aの世界』が、Amazon でいくらくらいするのか見てみよう。最安値は1821円だった。
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二〇二〇年十三月二十八日 「散髪代はただだ。」


 髪の毛を自分で刈って丸坊主にしだしたのは、40代に入ったばかりのころだったろうか。それから20年くらい、散髪代はただだ。


二〇二〇年十三月二十九日 「ハセガワ」


 下鴨や北山に住んでいたころ、北大路橋の西側にあった「ハセガワ」というレストランによく行った。おいしかったからだ。日替わりランチが700円くらいだった。


二〇二〇年十三月三十日 「茶花」


 名前を忘れちゃったけど、あ、「茶花」かな、そういう名前のお好み焼き屋さんが下鴨通りにあって、そこにもよく行ったなあ。


二〇二〇年十三月三十一日 「ぼくはワケワカメだった。」


 西院に引っ越して10年くらいになるけれど、引っ越し先を西院にしたのは、友だちが西院にいたからだけれど、15年来の付き合いのある友だちだったけれど、つまんないことで喧嘩して絶交した。ほんとにつまんないことで、その友だちがノンケの店で、かわいらしいおじさんの隣にすわって、ひざをさわったからなんだけれど、そのおじさんは、ぼくの知り合いだったから、そのときには友だちに何も言わなかったのだけれど、後日、ぼくがひとりで店に行ってたときに、このあいだ、あっちゃんの友だちにひざをさわられて気持ち悪かったと言ってきて、ぼくが友だちにメールで、ノンケの店でしちゃいけないよと書いたことに腹を立てて、絶交宣言されたのであった。ぼくはワケワカメだった。


自由詩 詩の日めくり 二〇二〇年十三月一日─三十一日 Copyright 田中宏輔 2022-07-04 00:01:02
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