詩の日めくり 二〇二〇年二月一日─三十一日
田中宏輔

二〇二〇年二月一日 「女子高校生」


 もう何年もまえのことだけれど、電車のなかで見た光景が忘れられない。目の不自由な男のひとが杖をもって入ってこられたときのことだ。制服を着たひとりの女子高校生がすっと、そのひとのそばに寄って、自分の肘を持たせて行き先を聞いたりしていたのだった。彼女にとってはごく自然な振る舞いだったかもしれないけれど、ぼくには感動的な場面との遭遇だった。女性のほうが看護師が多い理由がわかった。美人でも、ブサイクでもない、ごくふつうの女子高校生だった。ぼくには勇気もなく、恥ずかしく思う気持ちが強くて、彼女の振る舞いが英雄的に思えたのであった。


二〇二〇年二月二日 「寿がきやラーメン」


 寿がきやラーメン店が高野のスーパー「イズミヤ」のなかにあったときは、よく行ってた。下鴨に住んでたころね。西院に引っ越してからは、京都ファミマにあった寿がきやに行ってた。両店舗とも、いまはなくなってしまって、京都には、寿がきやは一軒もなくなってしまった。残念。ぼくにはとても好みの味だった。


二〇二〇年二月三日 「鍵をなくしたこと」


 10年以上もまえのことだが、えいちゃんと付き合ってるとき、あさ、仕事に出かけてすぐに部屋の鍵をなくしたことがあって、合鍵は明日にならないとお渡しできないとアパマンショップの係りのひとに言われて、部屋に帰れなくて、仕事が終わってから、公園に行って時間を過ごしたり、本屋に寄って本を買って喫茶店でその本を読んだりして時間を過ごしていたのだけれど、そのとき付き合っていたえいちゃんの仕事が終わるまで長い時間を不安な気持ちを抱きながら過ごさなければならなかったんだけど、えいちゃんの仕事が終わるのが夜中だったので、身体の関節がコチコチに固まっていたのであった。そこで、ふと思いついて、銭湯に行くことにした。お湯につかると、それまでの不安と気苦労でコチコチになってた関節の痛みが嘘のようになくなってしまったのである。お湯の効果はすごいと思った。その日は、仕事が終わったえいちゃんと夜に会い、えいちゃんちに泊まらせてもらって、つぎの日の午後にアパマンショップのひとに、ぼくの部屋の合鍵を無事、渡されたのであった。いままでの人生ではじめて部屋の鍵をなくした日のことであった。銭湯でコチコチの関節の痛みがすっとなくなって、ほっとしたことが一番印象に残っている。


二〇二〇年二月四日 「予備校でも机の引き出しの鍵をなくした」


 鍵をなくしたといえば、予備校に務めているときに、自分の机の引き出しの鍵を働いている間になくして、合鍵をつくる業者に予備校まで来てもらって、合鍵をつくってもらったことがある。かかった費用の5000円を自腹で切らなければならなかった。仕事を終えて、自分の部屋に帰ってきて、着替えようとして、折りたたんでいた袖を下ろしたら、なんとそこから鍵が出てきたのであった。胸のポケットに入れていた鍵が、チョークを落としたときに上半身をかがめたときに折りたたんだ袖口に滑り込んだように推測された。予備校の使った教室や職員室をいくら探しても見つからなかったわけだ。折りたたんだ袖口に入っているなんて思いもしなかったのである。うかつだったが、仕方がなかった。支払った5000円が悔やむに悔やみ切れなかった。


二〇二〇年二月五日 「荒木時彦くん」


 荒木時彦くんから、詩集『一日の可能性』を送ってもらった。ミニマルな短篇小説を読んだみたいな感じがした。


二〇二〇年二月六日 「草野理恵子さん」


 草野理恵子さんから、同人詩誌『Rurikarakusa』第13号を送っていただいた。草野さんの作品は、相変わらず、江戸川乱歩が詩を書いたような感じだった。


二〇二〇年二月七日 「ルーシャス・シェパード」


 日知庵に行くまえに、ジュンク堂に寄って、ルーシャス・シェパードの短篇集『タボリンの鱗』を買った。シェパードの作品は、日本語になったやつ、全部持っていて、この本は、昨年の暮れに出たもので、ぼくが見落としてたやつ。数か月まえにした、長篇『緑の瞳』の再読もよかった。これは、どだろ?


二〇二〇年二月八日 「つつじ」

 
 中学校の校門のところに、つつじが植えられていて、よく花を引き千切って、花の蜜をなめた。いまのぼくならしないと思うのだけれど、見るひとがいなければ、見つかりさえしなければ、ちょっとした悪いことくらいしてもいいのだと思っていたのだろう。そうでも思わなければ、自分のしたことが理解できない。見つからずになめた蜜はことさら甘かったように思える。いや思えたと表現できるだろう。ひとつの告白だ。


二〇二〇年二月九日 「尚 泰二郎さん」


尚 泰二郎さんから、詞華集『郵便ポストのナイチンゲールな夜』を送っていただいた。タイトルとか小見出しの言葉の定義集のような気がした。たとえば、こんなもの。

  ★荒行
修業とは滝の水に打たれることではない。ことさら肉体を痛打せずとも、日常の中に魂が鞭打たれる、厳かな瞬間はある。


二〇二〇年二月十日 「きみの名前は?」


きみの名前は?
(ジャック・ヴァンス『五つの月が昇るとき』中村 融訳)


二〇二〇年二月十一日 「勇気がなかったばかりに」


 下鴨に住んでたとき、よく高野のスーパー「イズミヤ」によく行ってたんだけれど、ある日、イズミヤのフードコートでなんかを食べてたら視線を感じたので見ると、テーブルひとつあけた前の席に坐っていた青年が、ぼくのことをじっと見つめていた。タイプのがっしりとした体格の青年だった。もしかしたらゲイの男の子なのかなって思ったけれど、ぼくは食事を終えると、そそくさと帰った。別の日に、その青年がイズミヤの2階から3階に上るあいだの階段の踊り場のベンチにひとりで坐っていたけれど、そのベンチの横にゲイのおじさんらしきひとが立っていた。ああ、この青年のこと狙ってるんだなあって思った。待ち子をしているこの青年もゲイだったんだなって思った。スーパー「イズミヤ」ゲイはどこでも発展場にするんだなって思った。その青年とは、一条寺商店街でもう一度、道で出会ったけれど、そのときは、その青年は友だちといっしょだったから、話しかけることができなかった。めっちゃタイプの青年だったけれど。ぼくが30代で、その青年は二十歳そこそこだったように記憶している。ぼくは勇気がない。その子がぼくのことをフードコートで見つめてきた時点で、ぼくがアクションしなければならなかったのだ。大事なところでチャンスを失ってしまう。ぼくの悪いところだ。勇気がない、臆病なせいだ。相手の子がプロかもしれないと、ちらと思ったことが原因だった。プロというのは、相手がゲイだとわかったら、金銭を要求してくる連中のことだ。ぼくも一度、プロに引っかかって、15万円、とられたことがある。貯金を銀行でおろさせられたのである。苦い経験だった。その子がプロかどうかはわからなかったけれど、危険な香りはしていた。愛嬌はなかったけれど、ぼくにはかわいい、体格のいい青年だったけれどね。


二〇二〇年二月十二日 「戸浦六宏さん」


 芸能人と寝たことが一度だけある。戸浦六宏という悪役をよくやっていたひととだ。京都のゲイバーで飲んでいるとき、ぼくのことが気に入ったみたいで、言い寄られたのだった。店では、戸浦六宏さん、「先生」と呼ばれていたけど、俳優って先生なのかな。戸浦六宏さん、ベッドのなかではお姉だった。ぼくの汚点。ぼくが20代後半のときのお話。お店で無理やり、つけられたって感じだった。ぜんぜん、ぼくのタイプじゃなかったもの。


二〇二〇年二月十三日 「平 幹二朗さん」


 俳優の平 幹二朗に、発展場の八千代館というポルノ映画館でつきまとわれたことがある。平 幹二朗って、ゲイだったんだね。身体の大きなひとだった。タイプじゃないから、館内を逃げまくったけれど、かなりひつこくつきまとわれた。きっと、むこうは、ぼくのことがタイプだったんだろうね。


二〇二〇年二月十四日 「ルーシャス・シェパード」


 ルーシャス・シェパードの短篇集『タボリンの鱗』を読み終わった。おもしろかった。買ってよかった。きょうからの寝るまえの読書は、リチャード・マシスンの『地獄の家』手に入れてから20年近くの歳月が流れ去ってしまった。おもしろいかな。どだろ。マシスンは、よい作者だと思っているのだけれど。


二〇二〇年二月十五日 「私はかもめ」


 ウルトラQの第10話「地底超特急西へ」に出てくる怪物M1号が、さいごの場面で、「私はかもめ・・・」と二度つぶやくシーンが、めっちゃ印象に残ってるんだけど、それがチェーホフの『かもめ』という作品のなかのセリフであったことに、きょうはじめて気が付いた。そういえば、はじめて宇宙に行ったソ連の女性飛行士が「ヤーチャイカ(私はかもめ)」って言ったことも思い出したぞ。ということは、ウルトラQは、チェーホフというより、初めて宇宙に行った女性飛行士が「ヤーチャイカ(私はかもめ)」って言ったとこからとった可能性のほうが高いね。だって、ウルトラQに出てきた怪物M1号っていう怪物が地球の軌道上をくるくる回りながら「私はかもめ」って二度つぶやいていたのだもの。


二〇二〇年二月十六日 「SOSのサイン」


 河村塔王さんからの情報です。「旧ソビエトの女性宇宙飛行士ワレンチナ・テレシコワさんがSOSのサインとして「わたしはカモメ」と言った事が知られています」


二〇二〇年二月十七日 「ブラックライト」


 20代のときのことだけど、おしゃれなゲイバーの暗い店内、黒いテーブルのうえに置かれたカクテルグラスの光が、カクテルグラスに入ってるカクテルがブラックライトで、ブルーの蛍光色に輝いていたんだけど、この光は、この輝きは、そのときのぼくの若さでないとみられない美しさなのだと、直感で思った。瞬間瞬間の美しさというものがあって、そのときにしか目にできないものであるということだ。そう思えば、齢をとったいまでも、齢をとった目が見る瞬間瞬間の美しさというものがあって、齢をとっても、その美しさをとらえる目は持っていなければならないのだと思った。


二〇二〇年二月十八日 「台湾人の青年」


 大阪の梅田に「揚子江」というラーメン屋がある。塩味のラーメンで、菊菜が入っている。めっちゃおいしい。20代から40代のはじめまで、大阪の梅田にあるゲイ・サウナ「北欧館」に行くときには、かならず行っていたラーメン屋だった。ある土曜日のこと。ぼくがまだ20代だったと思うけれど、北欧館でできた台湾人のぽっちゃりした、まだ30歳にもなっていないひととできて、おなかがすいたねって話をして、つたない英語をぼくはしゃべっていて、それで、ふたりで揚子江に行くことになったんだけれど、帰るときに、彼が代金をふたり分出そうとしたから、ぼくは、そこは割り勘だと思って、だって、彼はいくらぼくより年上だと言っても、旅行者なのだから、当然、割り勘だと主張して、割り勘で勘定を支払った記憶がある。それにしても揚子江はおいしいラーメン屋だった。齢をとって、大阪には行かなくなったけれど、ときどき、揚子江ラーメンを食べに行くだけのために大阪に行ってもいいかなって思う。


二〇二〇年二月十九日 「小野知子ちゃん」


 記憶って不思議だな。小学生のときにマンガクラブに入ってたんだけど、クラブといっても4、5人のグループだったんだけど、そこに小野知子という名前の女の子がいた。好きでもなんでもなくって、ただ名前を憶えているだけど。かわいくも、なんともなくって、ただ利発な子だったことだけは憶えている。名字から名前まで憶えている女の子はその子くらいだ。名字だけ憶えている女の子は何人かいるのだけれど。ぼくは小学校の卒業写真も、名簿も持っていない。持っていないといえば、中学校のも、高校のも、大学のも、卒業写真や名簿を持っていない。みんな捨てたのだ。引っ越しのときにね。過去に縛られたくないからだったと思うけれど、なによりも過去に縛られている人間なのにね、ぼくって。


二〇二〇年二月二十日 「忘れられないSF小説」


 小学生のときに父親の持っていたSF雑誌に掲載されている作品を読んだことがあって、タイトルも作者名もわからないのだけれど、忘れられないものがあって、内容は、男が船に乗っているときに念力で心臓を握りつぶされそうになるシーンと、島についたら、そこでは死なすためだけの目的で男女の奴隷を売っていたという話なのだけれど、またその作品とは再会することはなく、ぼくは死んでしまうのだと思う。これこれこういう作品を知りませんかとミクシィとかツイッターとかで訊いているのだが、返答は一回もなかった。そういえば、高校生のときに読んだSF小説で、冒頭で、昆虫型ロボットに男が暗殺される作品も、タイトルと作者名が出てこない。それらしいものはあたったのだが、見つからなかった。これにもまた死ぬまでに再会できないのだと思う。


二〇二〇年二月二十一日 「ロバート・ホールドストック」


 リチャード・マシスンの『地獄の家』を読み終わった。おもしろかった。古い作品なのだけれど、古さを感じさせられなかった。

 きょうから寝るまえの読書は、ロバート・ホールドストックの『ミサゴの森』に。これまた20年くらいまえに手に入れた本。オールディスが、ベタボメしていたSF小説だ。世界幻想文学大賞、英国SF協会賞、英国作家協会賞を受賞した作品だそうだ。おもしろいかな。どだろ?


二〇二〇年二月二十二日 「石垣島」


 発展場である大阪は梅田にあるゲイ・サウナ「北欧館」で出会った、ちんちん腋臭の男の子は、石垣島出身だと言っていたが、石垣島では、カギというものがないらしい。それほど家は安全だということらしい。ほんとかな。もう30年くらいまえに聞いた話だから、当時はそうだったとしても、いまだにそうだとは限らないしね。どうなんだろう。


二〇二〇年二月二十三日 「宮尾節子さんの朗読会」


@sechanco 朗読会、行けると思います。


二〇二〇年二月二十四日 「ムヒカ=ライネス」


『ミサゴの森』を読み終わった。おもしろかった。聖書的だなと思ったのだけれど、より古い祖型があったらしい。きょうからの寝るまえの読書は、読むのを中断してたムヒカ=ライネスの『ボマルツォ公の回想』。さいしょから読み直す。中断したの、10年以上まえだから、すっかり忘れてるからね。むかし5000円くらいで手に入れたのだけれど、いま Amazon で見たら、1200円くらいで売ってた。古書の値段って、ほんとに闇だな。めっちゃおもしろいSF小説が1円だったり、しょうもないSF小説が5000円を超えてたり。


二〇二〇年二月二十五日 「ジプロヘキサ」


 むかし、ジプロヘキサという薬を処方されて服用したのだけれど、16時間ものあいだ昏睡してた。身体が重くて、すぐに動かせなかった。ネットで調べると、糖尿病患者が服用すると死亡する危険性があるとのことだった。通ってる精神科医院のお医者さんに、ぼくが糖尿病だということを話してなかったんだけど、あした精神科医院に行って事情を話して薬を替えてもらおう。


二〇二〇年二月二十六日 「自衛隊の青年」


 発展場である、いまはなき八千代館というポルノ映画館でできた男の子が自衛隊員だったことがある。ぼくがまだ30代のときのことだけれどね。お持ち帰りして寝たのだけれど、「あんまり出えへんかもしれへん。ヘルスで一発出してきたから、ごめんな。」と言われて、こいつは相手が男でも女でもいいんか。出したらいいだけなんやなとも思ったけれど、ごめんなと、あらかじめあやまってくる優しさをもっているのだなとも思った。つぎの日、休みだから、飲みに出て、そのままあさ5時までやってるポルノ映画館にきてたのだけれど、1週間後くらいに、大久保にある自衛隊の宿舎に電話したら、迷惑そうだった。だから、そのことは1回かぎりだった。水泳選手だったみたいで、ぼくが電話したとき、いま水泳の練習中ですと電話を受け付けた男のひとが言った。それで30分後にまた電話したら、ようやく出てくれたってわけ。かわいい男の子だった。23歳だと言っていた。付き合いたかったのだけれど、その子は、一回限りでよかったんだろうね。でも、勤め先の自衛隊の電話番号と本名を教えてくれたのは謎だ。ベッドのうえで、睦言をつぶやいていたときのことだからだったのかな。かわいい男の子だった。一回限りだけど、友だちが言ってた。一回だからいいんだよって。そんなの、さびしいな。でも、ほんとのことなのかもしれない。


二〇二〇年二月二十七日 「ごっつあん」


 日知庵からの帰り、阪急電車に乗り込んだら、見知らぬ男から声をかけられた。「あつすけ?」餃子でも食べてきたのだろうか、ニンニク臭い息を吐きかけながら、「あつすけやろ?」というので、ぼくは見覚えがなかったけれど、こういうことはときどきあって、中学や高校のときの同級生だったりすることがあったので、「そうやで。」と返事した。向こうはうれしそうだったけれど、中年の醜い男から声をかけられて、ぼくは不満だったので、それ以上返事をしなかった。ぼくは西院で降りるのだが、その男は烏丸で降りてくれたので、ほっとした。部屋に戻って、その男の顔をようく思い出して過去にかかわった人物を思い浮かべたら、思い出した。ごっつあんだった。高校のときの同級生で、後藤という名字の友だちだった。野球部だったのに、プログレを聞くような変わった男の子だった。大学も、ぼくと同じ同志社だった。当時は丸顔のぽっちゃりさんで、かわいかったのに、電車のなかで見た男の顔は、顔の筋肉が垂れてしわしわになった醜いものだった。


二〇二〇年二月二十八日 「おじいちゃんですか?」


 いまでは笑い話なのだが、10年以上もむかし、えいちゃんと付き合ってたとき、えいちゃんの娘の保育所でなにか催し物があって、ぼくもいっしょに行ったのだが、そのとき保育士の女性のひとりから、「おじいちゃんですか?」と言われて、ちょっとショックを受けたのであった。そんなにジジイに見えるか、と思ったのであった。10年以上まえだから、当然、50歳にもなってなかった時期である。まあ、むかしから老けて見られることはあったが、それにしても、おじいちゃんですか、とは。そういえば、50歳ころに銀行に行ったとき、受付の女性に、「年金のお預けですか?」と言われたこともある。若く見られることが多いのだが、ふけて見られることもある。両極端だ。ある種の女性からは老けて見られるということなのであろうか。


二〇二〇年二月二十九日 「宇宙人みたいだね。」


 10年以上もまえ、えいちゃんと付き合ってるときに発見したのだが、顔を上下さかさまに見たら、宇宙人みたいに見えた。目がしたで口が上にあるだけで、人間とは呼べないものになったのである。文章も、言葉を配するときに注意しないと、思ったものとまったくちがったものになる可能性があるね。同じ言葉を使ったとしてもね。


二〇二〇年二月三十日 「シンちゃん」


 ぼくは、いま西院というところに住んでいるのだが、15年以上まえは北山に住んでた。なぜ西院に引っ越したかと言えば、住んでた北山のアパートメントが取り壊しになるからだった。西院には友だちのシンちゃんが住んでたので、西院に引っ越したのであった。


二〇二〇年二月三十一日 「友情」


 そのシンちゃんとは、いま絶交状態である。ノンケの居酒屋であるきみやで、シンちゃんが、ノンケのおじちゃんの膝を触ったとかいうことで、そのおじちゃんは、ぼくがよく知ってるひとだったので、そのときには何も言わなかったのだけれど、別の日に、ぼくがひとりできみやに行ったときに会ったのだが、そのときに、「このあいだいっしょに来てたひと、膝をさわってきて、気持ち悪かった。やめてくれるって伝えといてくれる? このあいだは、あつすけさんがいっしょやったから言えへんかったけど。」と言われて、「すいません。そんなことがあったんですか。もうせいへんように伝えておきます。」と返事した。それで、そのことをシンちゃんにどう伝えようか、シンちゃんも傷つかないように細心の注意を払って、メールで、「ノンケの店で、ノンケに手を出したりしたらだめだよ。このあいだ、いっしょにきみやに行ったとき、藤吉さんの膝をさわったんだって。気持ち悪かったって伝えておいてって言われたよ。」ってメールしたら、ぼくのメールの書き方が冷たかったって。もう絶交だということで、いま、シンちゃんとは絶交状態になっているのであった。15年も友人関係をつづけていたのにね。なんだかなあって感じ。ぼくのメールの内容って冷たかったかな。要点だけ伝えたんだけど。15年の友情も、ささいなことで壊れるのだなって思った。シンちゃんは、近所のマンションの4階に住んでいて、その部屋から見下ろせる中学校の校庭のポジションが微妙に審美的だった。角度というか、形がね。15年まえに、それまでいた東京から京都に引っ越してきて、「西にいけばよい。」という啓示を受けて京都に来たらしく、京都に来て、発展場である千本日活というポルノ映画館で、ぼくとはじめて出会ったのだけれど、「出会えてよかった。」と言っていたのにね。シンちゃんは熊本出身者で18歳になったときに東京に行ったらしくて、東京では7年ほどいたらしくて、そのときの思い出を書いてよと、ぼくが言って、書いてもらった紙をハサミで切り刻んで、セロテープでくっつけていってコラージュしてできたものが、ぼくの最高傑作「マールボロ。」だった。大切な友だちを一通のメールで失うなんて思いもしなかった。





自由詩 詩の日めくり 二〇二〇年二月一日─三十一日 Copyright 田中宏輔 2022-04-18 01:58:56縦
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