詩の日めくり 二〇二〇年一月一日─三十一日
田中宏輔



二〇二〇年一月一日 「ウィルス」


 あたいの携帯、へんなウィルスに感染しちゃったみたいで、勝手にアドレスを書き換えられちゃってて、知らないひとにつながるようになっちゃった。でも、偶然、近くにいるひとがいたから、これから会いに行くんだ。楽しみ。


二〇二〇年一月二日 「妹」


 さっき、妹がテーブルのうえに、炒めた野菜を落としたのだけれど、さっと、ぼくがそれを箸でひろって食べたら、きたないっていうので、だいじょうぶ、テーブルきれいだから、というと、それじゃあ、これからそうして食べなさいと言うから、それは違うだろうって言ってやった。頭の悪い子だ。


二〇二〇年一月三日 「弟」


 ストーブのまえで、片腕を枕にしてまどろんでいたら、あごの下を弟の足があたって、がくっとなったので、知っててやったなと言うと、いや偶然、と返答してきて、謝れと言うと、謝らないと言う。なんちゅうやっちゃろう。


二〇二〇年一月四日 「軌道」


 弟の左目が軌道を外れて顔の外に出かかっているので、はやく病院に行けと言ってるのに、いっこうに行こうとしない。ぼくだったら、心配で、すぐに病院に行くのになあ。


二〇二〇年一月五日 「夢」


 奇妙な夢を見た。オックルビー夫人というのが出てきて。つぎつぎと、毎日、お菓子をたべさせてくれる、しかもそのお菓子だけが食事というものだった。ときどき耳慣れない名前らしきものが思い浮かぶけれど、オックルビーも一度も耳にしたことのないものだ。

 ところで、夢に出てきたその食事というのは、なんらかの療法であったようであった。なにかわからないが。


二〇二〇年一月六日 「レーモン・ルーセル」


 レーモン・ルーセルの『ロクスソルス』、面白くない。むかしとんでもない価格で古書店で買ったものだから、捨てる気にもならず、ちびちびと読んでいるが、ほんと、このあいだ、書店でチラ読みしたアン・レッキーの新刊本が読みたくなるくらいだ。


二〇二〇年一月七日 「パステルナーク『ドクトル・ジバゴ』のユーリイ・ジバゴの詩編 19「夜明け」最終連」


ぼくといっしょなのは名のない人たち、
樹木たち、子供たち、家ごもりの人たち、
ぼくは彼らすべてに征服された、
だたそのことにのみ ぼくの勝利はある。

(江川 卓訳)


誤植「だた」は惜しい。「ただ」だろ。


二〇二〇年一月八日 「レーモン・ルーセル」


 レーモン・ルーセルの『ロクス・ソルス』を読み終わった。退屈はしなかったが、苦痛だった。情景描写ばかりで、会話文がなかった。いや、会話文はあったが、会話はなかった。しかもそれさえ極度にまれであった。強迫神経症のひとが書いた文章のように思えた。細部にいたって緻密で正確無比だったのだ。


二〇二〇年一月九日 「象」


 第2次世界大戦の末期に、動物園の象を殺したっていうことが書かれた本があったかと思うんだけど、もうエサをあげられなくなって。


二〇二〇年一月十日 「ゾウさん」


「リンゴ3個あげるね」「やせた?」「そうかい」「もう10個ちょうだい」「いいよ、ほら」「やっぱりやせた。自分のからだをつかってつくってくれなくてもいいからね」「そうかい」「そうだよ」「じゃあ、いくね」「バイバイ」「バイバイ」「かっこいいでしょ」「そうだね」「さいきん、近所に引っ越してきたんだ」「そうなんだ」「うまくいくといいなあ」「なにが」「お付き合いが」「そうだね」「それにしてもかっこいいゾウさんでしょ?」「そうだね」


二〇二〇年一月十一日 「ジュンク堂京都店」


 ひゃー、ジュンク堂京都店って、2月29日で閉店するんだ。これから、どこで、じっさいに本を手にして選ぶことができるんだろう。西院のブックファーストは置いてる本の数が少ないしなあ。


二〇二〇年一月十二日 「断章」


愛することもまたいいことです。なぜなら愛は困難だからです。
(リルケ『若い詩人への手紙』高安国世訳)

地上の子 私はどうやら
愛するように 悩むように作られている。
(ヘルダーリン『故郷』川村二郎訳)

 よく愛するがためには、すでにくるしんでいなければならなく、また信じていなければならないのではないでしょうか。
(バルザック『セラフィタ』三、蛯原德夫訳)

多感な心と肉体を捻じり合わせて愛に変えうるのは苦しみだけ
(E・M・フォースター『モーリス』第四部・42、片岡しのぶ訳)


二〇二〇年一月十三日 「断章」


もっとも多く愛する者は敗者である、そして苦しまねばならぬ──
(トーマス・マン『トニオ・クレーゲル』高橋義孝訳)

 愛が單なる可能性にすぎない以上、それはしばしば躓きやすいものだ。いや寧ろ、躓くことによつて愛は意識されやすいのだ。
(福永武彦『愛の試み愛の終り』愛の試み・情熱)

愛していなければ悲しみを感じることはできない
(フィリップ・K・ディック『流れよわが涙、と警官は言った』第二部・11、友枝康子訳)

現実とは、愛の現実よりほかにないのだ!
(ブロッホ『ウェルギリウスの死』第Ⅲ部、川村二郎訳)


二〇二〇年一月十四日 「断章」


人間であることはじつに困難だよ、
(マルロー『希望』第二編・第一部・7、小松 清訳)

 おお、ソクラテスよ、なんの障害もあなたの進行を妨げないとすると、そもそも進行そのものが不可能になる。
(ヴァレリー『ユーパリノス あるいは建築家』佐藤昭夫訳)

 いかなる行動も営為もも、ひたすら人を生により深くまきこむためにのみあるのだ。
(フィリップ・K・ディック『あなたをつくります』7、佐藤龍雄訳)

 そもそも苦しむことなく生きようとするそのこと自体に一つの完全な矛盾があるのだ、と言ってもよいくらいである。
(ショーペンハウアー『意思と表象としての世界』第一巻・第十六節、西尾幹二訳)


二〇二〇年一月十五日 「りょう城さん」


 りょう城さんから、詩集『しあわせなはいじん』を送っていただいた。大方の詩篇の詩句が短いもので、ひじょうに読みやすかった。読みやすいのには、論理に無理がないためというのもあると思う。無理なアクロバティックなところがないぶん、読みやすかったのでは、と思われる。


二〇二〇年一月十六日 「もっとも古い記憶」


 もっとも古い記憶は、幼稚園の月謝を落として失くして父親に叱られた記憶だ。ずいぶんきつく叱られたと思う。いまのぼくから見て、とても理不尽なことだと思う。幼稚園生くらいの子どもなら、しっかりしているはずがないからだ。それとも、ふつうのひとは幼稚園生くらいのときでも、しっかりしているのだろうか?


二〇二〇年一月十七日 「はじめて自分でレコードを買ったのは」


 はじめて自分でレコードを買ったのは、中学1年生のときのことだった。ポール・マッカートニーの『バンド・オン・ザ・ラン』だった。音楽は中学に上がるまえに小学生のときから好きだった。しかも親の影響で、家に洋楽のアルバムがずいぶんたくさんあって、それらを聴いていたからだ。小学生のときに、ビートルズはすごいと思っていた。親はラテン・ミュージックも好きだったので、小学生のくせに、いっちょまえに、ぼくもボサノバも好きだった。フレンチポップスも家にあったので、シャンソンなども聴いていた。


二〇二〇年一月十八日 「ローリング・ストーンズ」


 ローリング・ストーンズを知ったのも、中学1年生のときのことだった。友だちの女子の家に遊びに行ったとき、彼女がかけてたのだ。「ダイスを転がせ」のシングルだった。


二〇二〇年一月十九日 「花屋のおじさん」


 四条烏丸から烏丸御池に行く途中に花屋さんがあって、その花屋さんに花を運んでいたおじさんがかわいらしかった。40歳くらいだろうか。ぽっちゃりさんで、眼鏡をして、頭がすこし禿げてたところが、とくにかわいらしかった。


二〇二〇年一月二十日 「100まで数えるように」


 小学校の低学年のときには、宮川町というところに住んでいた。花街で面影はいまでもあると思う。父親が苦労人で、お金を儲けて、そこから抜け出せたのだけれど、幼いときには長屋に住んでいた。そのころ家にお風呂がなかったので、銭湯に通っていたのだが、お湯から上がるとき、100まで数えるように言われていた。ぼくはちゃんと100まで数えてからお湯からあがったのだけれど、子どもって言われたようにするから、そうしていたのだと思うけれど、いまのぼくじゃ、100まぜ数えなくて出てきてしまうだろうね。


二〇二〇年一月二十一日 「無責任な言葉を発しないでください。」


 無責任な言葉を発しないでください。無責任な言葉を発しないでください。無責任な言葉を発しないでください。無責任な言葉を発しないでください。無責任な言葉を発しないでください。無責任な言葉を発しないでください。無責任な言葉を発しないでください。無責任な言葉を発しないでください。・・・


二〇二〇年一月二十二日 「雀」


樹の根のそばに小鳥が二、三羽いる
名前は知らない
でも、きっと雀だろう
おまえたちは土を食べているのかい
そんなに地面をつっついたりして


二〇二〇年一月二十三日 「被差別部落民の血」


 友だちだと思っていたやつに裏切られた。京都にも被差別部落のひとたちが住んでるところがあって、祇園に家が引っ越したときに小学校も転校したのだけれど、その小学校におおぜいの被差別部落の子どもたちが通っていたのだけれど、その地域の電信柱のところにゲロを吐いたあとがあったので、友だちだと思っていたやつに、「汚いね。」と言ったのだけれど、その友だちだと思ってたやつが、そこが被差別部落の地域だから、ぼくが汚いと言ったと、被差別部落の生徒たちに告げ口したのだった。そのせいで、ぼくは学校で、被差別部落の同級生たちから吊るし上げをくらったのだった。30歳を過ぎたときに、実母から、自分が被差別部落出身だったことを知らされたときにも、ぼくの血の半分が被差別部落民だってことになにも感じなかった。いや、少し優越意識を持ったかな。ぼくが好きだった作家も被差別部落出身だったから。そんなわけで、小学生のときに自分の血の半分が被差別部落民のものだったことを知ってたら、あのときの吊るし上げの状況が変わっていたかもしれないと、いまのぼくは思うのだった。


二〇二〇年一月二十四日 「キッスの思い出」


 はじめてのキッスは、幼稚園のときに、男の子のともだちにしたと思うけれど、二度目のキッスは、小学生の6年のときのことだった。同級生の女の子にしたのだった。そしたら、女の子の家に呼び出されて、その女の子の父親に思いきりしばかれた記憶がある。ぼくがまだ、男の子が好きなのか、女の子が好きなのか、自分でははっきりとはわからないときのことだった。


二〇二〇年一月二十五日 「相互オナニー」


 大学の何回生のときのことだったかははっきりとは憶えていないのだが、たぶん、ぼくが3回生か4回生のときのことだと思うのだけれど、試験勉強のために友だちのところに行ってたときのことだった。遅くなったので、泊りになったのだけれど、なぜかしら、ぼくはムラムラとして、眠りかけている友だちを襲ったのだった。襲ったといっても、眠りかけてるところで、その友だちのチンポコを触っただけなのだけれど。そこから相互オナニーにまで発展したのだけれど、その当時、その友だちには彼女がいて、終わってから、こんなことは二度としないからなと告げられたのであった。


二〇二〇年一月二十六日 「木下」


 錦市場を何筋目か西に行ったところを上がったところに「木下」という名前の喫茶店があった。父親と弟とよくいっしょに行ってたのだけれど、目のまえで、挽いたコーヒー豆にお湯を落としてドリップしてコーヒーを淹れてくれたのだけれど、アイスのときも氷を入れたグラスで、お湯をコーヒー豆に落として淹れてくれたのだけれど、そのときのよい香りが忘れられない。カウンター席だけの店だったのだけれど、6、7人も坐ったらいっぱいになるような店だったけれど、よくはやってた。店にかかる曲は、ボサノバやサンバばかりで、音楽も心地よかった。でも、パパは、木下の店のママはぜったいレズビアンだと言っていた。そういえば、店に来るひともゲイっぽいひととかばっかりだったから。ぼくも木下のママはぜったいレズビアンだと思ってた。そんな雰囲気を醸し出すような男らしくはきはきとしたママだったから。真相はわからない。お店はいまはもうないみたい。ママも齢だったから、もう死んじゃってるだろうしね。ぼくが小学生のときにだって、40歳は過ぎてたと思うから。まだ生きてらっしゃたら失礼だね。その場合は、ごめんなさい。


二〇二〇年一月二十七日 「ニュー・ラグ」


 ぼくがはじめてゲイバーに行ったのは、高校生のときのことだった。しかも、父親といっしょにだった。父親と、当時、ぼくの父親が経営していたスナックの従業員の青年といっしょにだった。ゲイバーに行ったとはいっても、ゲイバーが昼間にやっていた時間にだったけれど。「ニュー・ラグ」という名前のゲイバーだった。木屋町にあた。いまはもうないけれど。当時、昼間にもやっているゲイバーはほかにはなかったと思う。夜には行かないけれど、昼間だったら、という若い子が集まるようにっていって昼間にも開けるようにしていたようだった。でもそのときは、ほかにお客がいたかどうかの記憶はない。父親がおもしろい店があるからと言って連れていってくれたのだ。父親が連れて行ってくれたのは、その1回だけだった。3、4年後、記憶を頼りに、大学の3年生になって、そこにひとりで行ったのだが。


二〇二〇年一月二十八日 「父親はゲイではなかったけれど」


 父親は趣味人で、ゲイではなかったけれど、ゲイ雑誌の『薔薇族』や『さぶ』を毎月買っていて、それを本棚に並べていた。継母もそれを知っていたけれど、継母は、父親の単なる趣味のひとつだと思っていて何とも思っていなかったみたいだった。『ムルム』という大判のゲイ雑誌も父親は買っていて、それは『薔薇族』や『さぶ』とは違って、文芸的にも評価の高い、高級感のある雑誌だった。


二〇二〇年一月二十九日 「フトシくん」


 23歳くらいのときに大阪の梅田のゲイ・ディスコ『クリストファー』で土曜日の夜中の12時ころに出会ったフトシくんとの思い出は何度か書いているけれど、フトシくんの部屋にも、ゲイ雑誌の『ムルム』が置いてあった。フトシくんが共同経営しているSMクラブの仕事に出かけているあいだ、部屋にひとり残されたぼくは、『ムルム』の1冊を読みながら、オナニーをした。部屋に戻ってきたフトシくんに正直にそう話をしたら、その夜は、ふたりのあいだにセックスはなかった。ぼくが23歳ころで、フトシくんが21歳のときの思い出だ。


二〇二〇年一月三十日 「断章」


苦悩はいとも永い一つの瞬間である。
(ワイルド『獄中記』田部重治訳)

創造する者が生まれ出るために、苦悩と多くの変身が必要なのである。
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部、手塚富雄訳)

苦しみは焦点を現在にしぼり、懸命な闘いを要求する。
(カミュ『手帖』第四部、高畠正明訳)

苦しむこと、教えられること、変化すること。
(シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』不幸、田辺 保訳)

意志と思惟はいっさいを変容させた。
(アルフレッド・ベスター『虎よ、虎よ!』第二部・15、中田耕治訳)

これから先、変化はどんどん早くなる。
(ロジャー・ゼラズニイ『砂のなかの扉』1、黒丸 尚訳)


二〇二〇年一月三十一日 「断章」


ぼくたちは
(L・P・ハートリイ『ポドロ島』宇野利泰訳)

置いてあったサンドイッチに手を伸ばした。
(ナンシー・クレス『ベガーズ・イン・スペイン』5、金子 司訳)




自由詩 詩の日めくり 二〇二〇年一月一日─三十一日 Copyright 田中宏輔 2022-04-11 00:01:05縦
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