さらば新宿
室町

必死に走っていた
これは血まみれになるか
へたをすれば死ぬ!
早朝の新宿ガード下を
それこそ生まれて初めて真剣に
命からがらに
心臓を後ろに置いていかんばかりに
もてる脚力を全開にして走っていた
きっかけは
ジャズ喫茶で夜をあかし
原油をぶちまけたみたいに光る
雨上がりの
未明のアルタ前道路に出たところで拾った
一個のヘルメットだった
帽子に赤ペンキで
革マルと書いてあったか
中核と書いてあったか
忘れたが
どうやらその夜一晩中吹き荒れた
全学連のデモの名残らしかった
それを
何気に肩にかけて歩いていたら
前方に
学ランのいかつい男が二人
おれを見つけ
凍りついたように立ち止まった
手にはバットのようなものを握っている
おれが不審な二人を見返す間もなく
「この野郎!」
といって
追いかけてきたのだ
拓殖大学か国士舘か知らないが
たぶんおれを全学連の片割れと勘違いしたのだろう
昨夜
ゲバ棒学生と二人の学ランのあいだになにがあったのか
おれは知らない
ただ
その形相の凄まじさは
朝帰りの眠気がすっとぶほどのもので
捕まったら
間違いなくリンチだと直感した
説明を受け入れる余地は欠片も感じられない
ただだれかを殴りたいから
殴れるネタをみつけただけのようでもある
いかにも理不尽だが
それが新宿だ
ラグビーで鍛えたおれの脚力は
三十ちかくになっても
衰えてはいなかった
鬼のような叫び声をあげて追いかけてくる
二人の必死よりも
おれの必死のほうが上回ったらしい
甲州街道を駆け上がり
西口の地下街に降りて
じぶざぐに走りまわった
新宿駅の中央線ホームに駆け上がると
ちょうど
一番電車がすべりこんできた
ぜーぜー息を吐き
閉まったドアに寄りかかって
遠ざかりゆくビル群をみた
おれは噴き出した
やっぱり
新宿はいつも
サプライズを用意しているのだ
ただでは帰してくれない
だが
いったい、なんなのだ
どこにでも殺意や愛や嘆きや友情や罠が
転がっていやがる
それもチープで泥まみれの
おれが今から帰ろうとしているところも
新宿で拾った友情がもたらした
仮の住まいで
木造の古い四畳半を借りている
そのごっつい男は
元プロレスラーの卵で名を石井といった
自分では石井スポーツの御曹司だと
自称していたが
おれと同じく無職で
住むところがないおれにいっとき住まわせて
くれていた
おれたちはいつも映画のような
ドラマや出会いを求めて彷徨っていたのに
いつも
貧困と狂気が隣り合わせだった
石井とおれは
新宿の街頭に立って
サンドイッチマンの日当で
日々を細々と暮らしていた
おれは毎日、下手な応募小説を書き
石井はぬいぐるみのような身体をゆすって
演劇学校に通っていた
友だちとはいえ内心おれは
石井は嘘つきで頭が少しおかしいと
思っていたが
ある日石井は
新宿にある食品会社の社長を
紹介してくれた
面接の結果
その社長はおれの頭の悪さと
性格の悪さに匙を投げたらしく
それでも石井の顔を立てたのか
正社員は無理だが
新宿京王ビル地下で経営する喫茶店の
調理補助として住み込みで使うといってくれた
小さな食品会社の社長を動かす力のある
石井がどうして
その日暮らしのサンドイッチマンをしていたのか
おれにはわからない
ほんとうに石井スポーツの姻戚者だったのかもしれないが
いまでは謎だ
せっかく仕事を紹介してもらったものの
東北出身のバーテンの一人が
どうやら関西人が嫌いらしくて
京都出身のおれを「ド関西野郎」と罵った
そんなことでやりかえすほどガキじゃ
なかったが
若いウェイトレスが注文のコーヒーを
トレーに乗せるとき「熱い」と思わず手を引っ込めた
するとそのバーテンが媚びるような笑みを浮かべて
なんといったか
「ホットだもの」
おれは罵られたことよりも
およそ文学的でない気取ったいいざまに腹を立て
「バカヤロウ」といいざま
そのホットコーヒーを
そいつのウマヅラにぶっかけてやった
もちろん即クビだった
それでも石井は笑って警察署に迎えにきてくれて
二人は狭い四畳半で
再び先の見えない同居生活をつづけた
しかし
おれの懸賞応募小説はいつまでたっても採用されず
役者志望の石井は
青年座の若手たちに愛されていたが
半分その無能さをバカにもされており
いっこうに芽が出なかった
貧窮者同士いずれカネのことで諍いを起こすものだ
おれは石井のところを出て
新宿南口の簡易宿泊所で寝泊まりすることになった
そこで元暴力団の男と知り合い
その男の紹介で
ミカドという新宿ヌード劇場の
照明係をすることになった
踊り子たちは
北海道や東北出身の
あまり頭のいい子たちではなくて
出演前の楽屋では少女漫画を読んで泣いていた
どの子にもマネージャーと称するヤクザのような男が
プロダクションからついてきて
ストリップ嬢たちの品行を見張っていた
わたしは彼女たちからよく
飯をおごってもらった
中には下着まで洗ってくれる子もいた
ずべ公など一人もおらず
どの子も人がよくて優しかった
しかし踊り子たちは
10日ほどで入れ替わり 他の都市へ
移っていった
それから
一年ほどして
新宿紀伊國屋書店の裏道で
偶然石井に会ったことがある
わたしはいっぱしの興行師のつもりで
格好もぱりっとしていたはずだが
石井はやはりプラカードをもってサンドイッチマンを
続けていた
ケンカ別れをしたとはいえ懐かしくて
話を交わすと
言動がおかしかった
つまり
完全に狂っていた
もともとその気配があったとはいえ
眼の下に隈をつくり
でかい図体がしょぼくれて小さくみえた
おれは青年座の石井の知人に様子がおかしいと
連絡した
その後、親元が石井を引き取りにきたらしい
それっきり石井の消息を聞かない
おれは新宿の泥にまみれて
青年時代を過ごしたが
ろくなことがなかった
ただ
いつも街の底を流れる
音楽だけが美しかった











散文(批評随筆小説等) さらば新宿 Copyright 室町 2022-03-28 06:40:33
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