稜線
山人

 一月二十五日、山に行かなければならない、そんな義務感が私を支配していた。天気も思ったより好天になるらしく、夜明け前なのにひどく安定している。
 妻に握り飯を三個頼んでいたが、行先を言ってはいなかった。ほぼ単独で山に向かうことが多いので、必ず行き先を言ってから向かうことが多かった。
 昨晩のうちに大まかな準備をしておいた。冬山で長時間を想定し、予備の衣類と万が一クラックに落ちた時のシャベルとかロープなどを準備した。単独行なので、そんなケースには咄嗟に役に立つかどうかはわからないが、雪山にシャベルは必須である。もちろん登山専用シャベルだから分解してザックに入れておいた。
 昨年十二月より、冬期間の職種が百八十度変わり、三日に一回は全休で、あとの二日も早朝と夜の勤務も加わるが、ほぼ半日ずつ休めるのだ。その間、妻と低山に登ったり、単独で半日単位の里山に登ったりしていた。しかし、低山は低山だ。わざとらしく律儀に整備された山道はどこかあざとさを感じてしまう。管理をする山岳会や山の会の誠意が痛く感じられ、自然体から逸脱してしまっていると感じるのだ。そして人気の低山には必ず人がいて、絶えず人の匂いが感じられる。そんな中、自分だけの空間、孤高の景観がひどく懐かしく、その世界に溺れたいという欲求が強かった。
 家からそのままカンジキをザックに括りつけ、車道から歩き出す。ほぼ、一〇分で今は営業されていないスキー場のロッジ前に着いた。使われていないロッジには二メートルほどの雪が堆積し、リフト乗り場も雪で埋もれていた。一昨年、どこかの怪しそうな会社がスキー場営業を行うということで、各民宿に挨拶をしに来たことがあったが、まったくわかってないな、というのが第一印象だった。それでも百に一つくらいの期待はあったが、その業者が経営に携わることはなかった。このまま、廃スキー場としてどこかの動画のネタにでもなるのだろうか。
 斜面の入り口にはおびただしい足跡とスノーシュー、スノーボード、スキーの跡が混在していた。滑り終え、にぎやかに会話をしたのだろう。やたらたくさん入り混じったそれらの痕跡はいかにも若さというものを感じさせた。その若さの痕跡の中に、六十半ばの男が入り込んでいく行為は何なのだろう。もしなにかトラブルが生じ、新聞沙汰にでもなれば、年寄の危険な単独冬山という罪人のようなレッテルが貼られるに違いない。どのみち、山での遭難や事故ではすべて肯定されず、マイナスイメージしかないのだ。
 スキー場跡の山頂まで一時間近くかかった。前日吹雪いたのか、その後の痕跡はかすかにわかる程度であった。ときおり、風のあんばいで踏み跡がわかるところは抜からず有り難かった。しかし、抜かるところでは大きくタイムロスし、この時点で目的の山頂まで行くことはできないであろうと思っていた。
 急登の後には、一旦中斜面になるが再び急登が待っていた。そこを抜けるとようやく稜線に着いた。
 握り飯の具は、鮭そぼろ・タラコ・筋子であった。梅干を期待したが、外れた。その他、ラスクとバナナが一本入っていた。他に自分でもパンをいくつか持参したが、食すことはなかった。
 こんな好天に関わらず人は皆無だ。もっとも人が入らないコースでもあり、平日ということもあろう。昨日の雪と風で、雪には風紋が見られ、ブナには樹氷が見られた。そして、太陽光線に照らされた雪の結晶が数えきれない宝石のようにきらめいていた。苦痛を伴い、我満を繰り返し、一歩一歩登ってきたのだが、それに見合う褒美を私に与えてくれた。厳しかったが、ほんとうに来てよかった。そう思った。
 美しい宝石群を愛でながら、食物を胃に収めるという幸福はこの上ないものだ。このおびただしい宝物を一人占めできたのだ。
 稜線まで四時間を要していた。もう少し春に近い時期ならば、焦ることもなかったが、まだ大寒を過ぎたばかり真冬だ。行動に見切りを付けなければならない。六時五十五分に出発し、正午まで登りの行動を許していた。が、そこから先は仮に山頂に近い位置まで来ていたとしても、途中撤退を決めていた。
 八合目の皿を伏せたようなピークで十一時五十分を差していた。ここまで来て行かないという選択肢はあるのだろうか、そう思った瞬間、いくつかの期外収縮が私に待ったをかけた。やはり行くなということなのだな、と私は踵を返した。
 時折現れる矮小の灌木の樹氷(モンスター)が雪原にオブジェのようにたたずんでいた。
 美しい日だった。数えきれないほど登った山ではあるが、その日毎の表情があるのだと思った。この先、私はどのくらい登ることができるだろう。しかし、もう二度と来ることはないとしても後悔はないと思える日だった。


散文(批評随筆小説等) 稜線 Copyright 山人 2022-01-28 13:40:30縦
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