詩の日めくり 二〇一八年十二月一日─三十一日
田中宏輔



二〇一八年十二月一日 「詩」


 若いときに書いたものを、文学極道の詩投稿掲示板に投稿した。30代だったろうか。はてさて40代か。ぼくは、自分のすべての作品を一つのストーリーにまとめようとしていたのだった。愚かな試みだったと、いまでは思っている。わざわざそんなことをしなくても、もともと一つのストーリーだったのだ。


二〇一八年十二月二日 「考察」


 ファミレスや喫茶店などで、あるいは、居酒屋などで友だちとしゃべっていると、近くの席で会話している客たちのあいだでたまたま交わされたことばが、自分の口から、ぽんと何気なく出てくることがある。無意識のうちに取り込んでいたのであろう。しかも、その取り込んだ言葉には不自然なところがなく、こちらが話していた内容にまったく違和感もなく、ぴったり合っていたりするのである。異なる文脈で使用された同じ言葉。このような経験は、一度や二度ではない。しょっちゅうあるのである。さらに驚くことには、もしもそのとき、その言葉を耳にしなかったら、その言葉を使うことなどなかったであろうし、そうなれば、自分たちの会話の流れも違ったものになっていたかもしれないのである。このことは、また、近くの席で交わされている会話についてだけではなく、たまたま偶然に、目にしたものや、耳にしたものなどが、思考というものに、いかに影響しているのか、ぼくに具体的に考えさせる出来事であったのだが、ほんとうに、思考というものは、身近にあるものを、すばやく貪欲に利用するものである。あるいは、いかに、身近にあるものが、すばやく貪欲に思考になろうとしているのか。


二〇一八年十二月三日 「考察」


 蚕を思い出させる。蚕を飼っていたことがある。小学生のときのことだった。学校で渡された教材のひとつだったと思う。持ち帰った蚕に、買ってきた色紙を細かく切り刻んだものや、母親にもらったさまざまな色の毛糸を短く切り刻んだものを与えてやったら、蚕がそれを使って繭をこしらえたのである。色紙の端切れと糸くずで、見事にきれいな繭をこしらえたのである。それらの色紙の切れっ端や毛糸のくずを、言葉や状況や環境に、蚕の分泌した糊のような粘液とその作業工程を、自我とか無意識、あるいは、潜在意識とかいったものに見立てることができるのではないだろうか。もちろん、ここでは、蚕を飼っていた箱の大きさとか、その箱の置かれた状態、温度や湿度といった、蚕が繭をつくるのに適した状態があってこそのものでもあるが、これらは、自我がつねに外界の状況とインタラクティヴな状態にあることを思い起こさせるものである。


二〇一八年十二月四日 「エシャール」


一日は17時間 mo あるのだから
エシャール
a
a
a
api
a
a
a
api
a
a
a
api
api
a
api
そのうちの朝は15時間で、お昼は20時間で、夜は15時間あるから
ちょっぴり働けるし、たっぷり遊べるし、たっぷり眠れる。
病院の待ち時間の5時間なんて、へっちゃらさ。
たとえ、薬局でクスリをもらい忘れたって
一日17時間 mo あるのだから
50時間くらい起きちゃってても、へっちゃらさ。
バスが数時間 遅れてきたって、イライラしないし
お風呂につかったまま10時間くらい眠っちゃったって、へっちゃらさ。
湯あたりさえしなければね。
トマト頭 グチャ
かわいい双子ちゃんの頭 mo グチャ
do it, do it
イグザクトゥリー・ライフに、セクシー・マザー・ファッカー
恋人と ピーチク・パーチク
へらへらしちゃって
うひぃ~
何日か前に
西院の阪急駅のところで

阪急の西院駅のところで
ジュンちゃんに会ったよ
de

デッカイ
ハロウィーンのカボチャみたいな頭してさ
朝の新聞紙ぐらいに分厚いメガネしちゃってさ
デブでブサイクなかわいいジュンちゃんにさ
20年目もデブでブサイクだったけど

20年前もデブでブサイクだったけど
いまもやっぱり
デブでブサイクで チョーかわいい
仕事帰りで
白いウェディング・ドレス着てさ
180センチキロメートル・100億トンの巨体なのにさ
i like it, i like it
一日は17時間 mo あるのだから。
reverse, reverse
it's all right
そのうちの朝は15時間で、お昼は20時間で、夜は15時間あるから
ちょっぴり働けるし、たっぷり遊べるし、たっぷり眠れる。
好きなだけ遊んで、好きなだけ眠ればいいさ。
すぇ絵t すぇ絵t もてぇr ふcけr
sweet sweet mother fucker

u
うんこ
んこ
んこ
っこ
sweet
sweet
fuck
fuck
そく
クソ
そく
クソ
i wanna be a かわいい クソ
i wanna be a かわいい クソ
amen
amen


二〇一八年十二月五日 「何年まえかわからない日付のないメモより、いまではとっくに、与謝野晶子訳の『源氏物語』を全巻読み終わってます。」


読むまでに死んでおきたい本  (Keffさんの日記のタイトルを拝借して)

『源氏物語』
いまだに、わたしは、これを読み通せていない。
何度も挫折した。
瀬戸内訳も、橋本訳も読んだことがないのでわからないけど
人柄が、どちらも好きではないので
やっぱ与謝野訳で読むのがいいでしょうね。
橋本治は、むかし大ファンだったのだけれど
あまりに変化がなさ過ぎるので
読むのをやめた作家のひとり。
桃尻娘シリーズは楽しかったのだけれど
教養主義的な発言が目立つようになって
とたんに面白くなくなった。
しかし、読むまでには死んでおきたいわ、笑。
『源氏物語』

仕事の数学が終わったので
これから、ジミーちゃんと飲み会を。
そろそろ来るはずなんだけど
どうしたんやろ。
メールしてみよう。

源氏読まずば歌人うたびとにあらず、と塚本邦雄が言っていたような記憶が。
挫折しますねえ、原文は、古典の素養のないぼくには無理っぽいです。
以前に与謝野訳を持ってたんだけど
京大生のエイジくんに、日本の文学作品を
ぜんぶあげちゃって。
恋人に本を上げるのが趣味だから。
また、ぼちぼち日本の古典も
買いなおそうかなって思っています。
韻文は読んでるんだけど
散文はまだ。


二〇一八年十二月六日 「ウィリアム・バロウズ」


山形さんの訳は、ノヴァ急報を読むかぎり
飯田さんより、質は劣りましたね。
山形さんは、飯田さんの誤訳に文句をつけているみたいですが
山形さんに詩を解する能力は皆無のようです。
章のタイトルを読んで、びっくりしました。
そのあまりに平板な訳に。


二〇一八年十二月七日 「フレデリック・ブラウン」


ブラウンの『まっ白な嘘』をいただきました。ニコニコ
ブラウンの本をいただきました。
ぼくが、たいへん喜んでいるのを知られて
また古いミステリーやSFをくださるとのこと。
いや~、めちゃくちゃ、うれしいです。
その方の本の保存状態のいいこと。
本の保存の仕方で人柄がわかりますね。
あちゃ~、風呂場で読んだりするぼくは、最低かな。
あ、それは捨て本だけだけど。
ときどき、読んでる途中で、いい本だと気づいて
買いなおすハメに。
ま、失敗も人生さ◎
ていうか、失敗の人生さ
ぼくの場合、笑。


二〇一八年十二月八日 「音・ことば・人間」


武満徹・川田順造の『音・ことば・人間』を買う。
ブックオフで、108円。
入試かなんかで見た記憶があって
なつかしくて
パラパラしてたら
武満さんが、ル・クレジオの文章について
引用して書いているところがあって
買っておこうと思って。


二〇一八年十二月九日 「夏野 雨さん」


 夏野 雨さんから、詩集『明け方の狙撃手』を送っていただいた。まだまだ新しい言葉の組み合わせがあるのだなあと思った。作者の現実はうかがい知ることができなかった。作品の目的が別のところにあるからだと思った。言葉運びは、なめらかで、うつくしい。しかも的確だ。かわいらしい表紙が印象的。


二〇一八年十二月十日 「ちくま哲学の森 4」


ブックオフで、ちくま哲学の森 4 を。
ヴァレリー全集とカイエ全集を図書館で読んだのは、ずいぶん昔なので
『パンセ』の一句を主題とする変奏曲
を読んだかどうか、覚えていなかった。
リンゲルナッツの『地球儀』という詩には、笑った。
笑わせてくれる詩というものが、どんなものか思い出させてくれた。
ひとから自分がどう見られたいかという詩が多い現代詩の世界では
お目にかかることができないようなシロモノ。
ホラティウスの詩にも、大いに笑ったけれど
やっぱり、並の現代詩人のものより
古典の詩人のもののほうがずっと面白い。
この本、お風呂用に買ったものだけれど
ちともったいなく思った。


二〇一八年十二月十一日 「ミラン・クンデラ」


クンデラの『不滅』
あと4分の1くらい。
たいへん面白い。

異色作家短篇集19も、あと1篇。
質は18のほうが高かったような気がするけれど
それでも、十二分に高い質のアンソロジーだと思う。
最後の20が楽しみ。

これから、クンデラを読みにお風呂に。
ああ、そうだ。
銭湯って
もう何年も行ってないけど
銭湯で本を読んだら、叱られるのかしら。
叱られそうだにゃ。
あったかいから
いま時分だと、いいと思うんだけど。

露天風呂のあるスーパー銭湯だったらいいかな。
ダメなのかな。

そういえば、20代は
高野のプールで
泳ぎもせずに
ずっと身体を焼きながら
本を読んでたなあ。


二〇一八年十二月十二日 「松田悦子さん」


 松田悦子さんから、詩集『Ti amor━君 愛しています』を送っていただいた。詩句を読点ではなく、一行空白にてほぼ分節化してある、独特のフォルムだ。また、その個所で体言止めになっている個所が多く、そのことも独特の雰囲気を詩句にもたせることになっているのだと思われる。


二〇一八年十二月十三日 「108円」


ブックオフで、108円で
買いそびれて、あとで後悔すること、しばしばです、笑。
もう何度、貴重な本を買いそこねたことでしょう。
最近も、3冊
あとで考えたら、読みたい本だったのですね。
きのうも、ドレの挿絵のドン・キホーテ
買うの惜しみました。
いまから、オフに自転車で行ってみます。
もうないかなあ。
ドレの絵のドン・キホーテ、値段が変わってた。
きのう、レジで
あ、これやめますね、と言って渡した本が
108円から300円に値段が変わっていた。
えぐいなあ、と思ったけれど
店員にそういうと
「そういう値段になりました。」とのこと。
ふうん。
やっぱ、迷ったら、買うべきね。
で、
持ってる本のカヴァーが傷んでいたので
買いなおしと
エルトンのアルバムで持っていないものを買いました。
これから、読書のつづきを。
明日、あさって
太郎ちゃんのところの原稿の見直しを。
来週末には送れるように。
もちろん、買いませんでした。
また108円になったらね。
チュッ


二〇一八年十二月十四日 「妻を帽子とまちがえた男」


サックスの『妻を帽子とまちがえた男』、古本市場、108円。
タイトル・エッセーを読むと
視覚の失認症について書かれてあった。
抽象思考の集中のために、具体的な事物の視覚認識が不可能になった男の話。

そういえば
ぼくにも、聴覚異常があって
キライなひとの声が聞こえなくなったことがあって
パパりんの声が聞こえなくなって
京大病院に検査をしてもらった記憶がある。
聴覚能力には問題はなかった。
精神的なものだということだった。
東京駅で
何年も前のこと
30年以上も前かなあ
詩人で歌人の早坂 類さんと会ったとき
目の前から彼女の姿が消えたのだけれど
彼女にポンと肩をたたかれると
彼女の姿がパッと現われたことがあって
これもかな。
彼女のこと
天才だと思ってたんだけど
会った瞬間に
ぼくに瓜二つのパーソナリティーをしてると思って
気持ち悪くなって
そしたら
彼女の姿が見えなくなって声も聞こえなくなったの
駅の待ち合わせ場所で。
ドッペルゲンガーを見たり
UFOを見たり
幽霊を見たり
幽体離脱したり
幻覚や幻聴があるのも
おそらく脳の機能の一部に異常があるからなのだろうけれど
(それとも、欠損かな)
詩人としては
お得かも、笑。
ちょっとくらい、頭の機能がおかしいほうが
人生は豊かかも。
いろんなところで
ふつうのひとが感じないことを感じられるから。
その分、苦しみもより多く味わうけれど。


二〇一八年十二月十五日 「ぼくは泣きながら目が覚めた。」


ぼくは泣きながら目が覚めた。
ぼくは父親と継母が許せない。
父親は去年死んだから、もういい。
できれば、もっと早く死んで欲しかったけれど。
継母は悲惨な死に方をして死んで欲しい。
たとえ、そう願うことで、ぼくにいろんな病気がやってこようと。
継母はいま喘息で苦しんでいるけれど
叔母のようにアルツハイマーにでもなればいいのだ。
たとえ、そう願うことで、
アルツハイマーよりももっとひどい病気にぼくがなってもいい。
弟たちは、弟の友だちと船の上で暮らしていたのだ。
ぼくの夢のなかだけれど。
どんなに、かわいそうだったか。
ぼくの父親も継母も好きなことをして暮らした。
ぼくたちを十分にまともな人間にすることはしないで
ぼくたちを甘やかし
好き勝手放題に振る舞う傲慢な人間に仕立て上げ
とんでもない非常識な人間に育て上げたのだ。
ぜったいに許せない。
ぼくの人生をめちゃめちゃにし
弟たちの人生をめちゃめちゃにしたあの二人はぜったい許せない。
ぼくは泣きながら目が覚めた。
ふだんは弟たちのことをこころにかけることはないのだけれど
夢を見たのだ。
船の上で暮らしている、貧しい弟たちを。
その姿は、まだほんの子供だったのだ。
指がキーボードをたたきながら
ぼくはいまも泣いている。
ぜったい許せない。
ぼくは何もしてやれなかった、ぼくも呪わしい。
ぼくは泣きながら目が覚めた。
どうして、こんな夢を見るんだろう。
どうして、こんな苦しみ方をするんだろう。
キーボードの文字盤がにじんでいる。
悲惨な夢だ。
たぶん、19世紀のイギリスかアメリカって感じの
暗いトンネルのような感じの
大きな橋の下
テムズ川という名前が思い浮かんだのだけれど
テムズ川というのは、じっさいには知らないのだけれど
その暗い水の上に浮かんだ小さな船のなか。
洗濯物を干している弟たちに出会ったのだった。
ぼくは走り寄って
まだ幼い一番下の弟の頭をかき抱いて
泣いたのだ。
声を上げて、ぼくは泣いたのだ。
すぐ下の弟も子供だった。
すぐ下の弟は、洗濯物を干したあと、身体を拭いていた。
船には、風呂がなかったのだ。
ぼくは父親と継母が許せない。
まともな死に方はして欲しくない。
父親は盲目で、度重なる癌で苦しんで死んだから、もういい。
こんどは、継母の番だ。
たとえ、そう願うことで、どんな不幸が、ぼくを迎えてもいい。
ぼくは泣きながら、目が覚めた。
声を上げて泣いた。
その声に自分の目を覚まされたのだ。
ふだん気にもしていない弟たちのことを夢に見て。


二〇一八年十二月十六日 「トイレのなかで、ご飯を炊く人。」


壁のペンキのはげかかったビルの二階のトイレ。
そこでは、いろいろな人がいろいろなことをしている。
ご飯を炊いて、それをコンビニで買ったおかずで食べてたり
その横で、男女のカップルがセックスしてたり
ゲイのカップルがセックスしてたり
天使が大便をしている神父の目の前に顕現したり
オバサンが愛人の首を絞めて殺していたり
オジサンが、隣の便器で大便をしている男の姿を
のぞき見しながらオナニーしてたり
男が女になったり
女が男になったり
鳥が魚になったり
魚が獣になったり
床のタイルの間が割れて
熱帯植物のつるがするすると延びて
トイレのなかを覆っていって
トイレのなかを熱帯ジャングルにしていたり
かと思えば
トイレの個室の窓の外から凍った空気が
垂直に突き刺さって
バラバラと砕けて
トイレのなかを北極のような情景に一変させる。
男も
女も
男でもなく女でもない者も
男でもあり女でもある者も
何かであるものも
何でもないものも
何かであり何でもないものでもあるものも
ないものも
みんな直立した氷柱になって固まる。
でも、ジャーって音がすると
TOTOの便器の中にみんな吸い込まれて
だれもいなくなる。
なにもかも元のままに戻るのだ。
すると、また
トイレのなかで、ご飯を炊く人が現われる。


二〇一八年十二月十七日 「神曲 煉獄篇 1」


ぼくは、角の店のポリバケツのゴミ箱の横に倒れていた。
ぼくの右腕だろう。
離れたところに落ちていた。
指先は動いた。
ぼくが思うとおりに動いていた。
ぼくは自分の右腕のあったはずの場所を見た。
血まみれの肉の間から骨が見えていた。
痛みはなかった。
目の前に影が立ちふさがった。
見上げるとよく知っている顔があった。
彼は微笑んでいた。
直感で、微笑みにいっさいの嘘がないことがわかった。
トマス・M・ディッシュだった。
写真で見たとおりのマッチョなハゲだった。
両腕には派手な刺青が施されていた。
「わたしが来た。」
ぼくには、彼の言葉がわかった。
英語は、あまりできなかったはずだけれど。
すると、ディッシュは口を開けて笑った。
そうだ、さっき、ディッシュは口を閉じてしゃべっていたのだ。
「すまなかった。
 おまえの魂に、じかに話しかけたのだ。
 しかし、おまえはまだ、肉体を離れて間もないから、とまどうだろう。
 口を開けてしゃべってやろう。
 ところで、おまえのことを、おまえと呼んでいいね。」
ぼくは、尊敬している作家のディッシュに、おまえと呼ばれることは
とてもうれしいことだと思うと述べた。
「エドガー・ポオと話し合って
 わたしが、おまえを迎えに行くことに決めたのだ。
 おまえの死は微妙なところだった。
 おまえの死は自殺だと認定されたのだ。
 おまえは無意識に死を願っていたのだ。
 ふだんから自殺を考えてもいただろう。
 だから、そんなにも不注意に歩いていられたのだろう。
 車が、お前を撥ね飛ばすような危険な道を。」
「それで、なぜ、ぼくを迎えに来られたのですか?」
「天国に行くためだ。」
「自殺した者は、天国に行くことはできないと聞かされていましたが?」
「いや、違う。
 自殺した者だけが天国に召されるのだ。
 地上の生活で苦しみ
 自ら命を絶った者だけが天国に行くのだ。
 自然死をした連中はふたたび生を授けられるのだ。
 来世で自殺するまで。」
ぼくは、なにがなんだかわからなかった。
わからなかったけれど、このことだけは確かめておきたかった。
「それでは、あなたは天使なのですか?」
「そういうものかな。
 御使いの一人だ。
 お前が生前に推測していたように
 天国は神の一部であり
 神もまた天国の一部なのだ。
 わたしも神の一部であり
 天国の一部であり
 天国そのもの
 神そのものなのだ。」
ディッシュは、ぼくの千切れた右腕を拾い上げて
ぼくの右腕のあった場所に、それをくっつけた。
すると、ぼくの腕は元通りになった。
膝の破けた服も元通りになった。
「さあ、行こうか。
 ここ、煉獄を尽き抜けて、地獄を経めぐり
 最後には、天国へといたるのだ。
 真の詩人たる、おまえの目で
 あらゆるすべての実相を眺めるがいい。
 さあ、急ごう。
 煉獄の道行きがもっとも長くかかるのだ。」
ぼくの足は、ディッシュの後にしたがって
狭いけれど、車が頻繁に通る道を歩いた。


二〇一八年十二月十八日 「Your Song。」


「波のように打ち寄せる。」という言葉を
「彼のように打ち寄せる。」と読んでしまった。
寄せては返し、返しては寄せる彼。
目を開けているからといって、見えているとは限らない。
むしろ、目を開けているからこそ、見えなくなっていたのだ。
彼はまだ、わたしのこころのなかに
喜びとして存在し、悲しみとして存在している。
いや、むしろ、わたしの喜びと悲しみが、彼として存在しているのだ。
しかし、だれが、わたしの自我などに云々するだろうか。
他人の自我などに。
ましてや、本人にさえ、あるのかどうかも、わからないものなどに。
あらゆる瞬間が永遠になろうとしている。
ある一つの夜が、わたしのすべての夜になろうとしている。
その夜の出来事を、わたしの自我の根が、たっぷり吸い込んでいたのだ。
わたしの自我自体が、その夜の出来事そのものになるほどに。
言葉ではないのだ。
言葉じゃないやろ。
好きやったら、抱けや。
その通り。
言葉ではなかったのだ。
ぼくは、何もせず
彼の横で眠ったふりをしていた。
彼もまた背中を向けて眠ったふりをしていた。
ああ、しかし、その出来事も
その喜びや悲しみも
ぼくのこころがつくりだしたものではなかったのか。
ぼくのこころがつくりだしたものなら
ぼくのこころがなかったことにすることもできるはずだ。
はずなのに。
起きたであろうことも
起きなかったことも
起きたことを知ることができた。
起きたことを否定することができるものは何一つない。
喜びと悲しみ。
それは、ぼくにとって、けっして、ほんとうには
感じ取ることができないものだった。
さまざまな才能があるのだ。
喜びもまた、悲しみもまた。
藪のなかに潜んでいるものではなく
藪そのものが、ぼくのこころのなかで動き出すのが感じられた。
わたしは、わたしの思い出を食べ
わたしの両親を食べ
わたしの住んでいる街の人を食べ
わたしと出会ったすべての人間を食べ
わたしが通った学校を食べ
わたしが家族と行った海を食べ
わたしが友人と行った湖を食べ
わたしが河川敷で坐ったベンチを食べ
ベンチに坐って眺めた川を食べ
川の上空を飛んでいた鳥を食べ
空に浮かんだ雲を食べ
わたしの見た
聞いた
感じた
あらゆるすべてのものを食べた。
すべてのものは、まったく同じ一つの光でできていた。
射精すると、チンポコをしまって、またふらふらと別の席に移って
ほかの男にしゃぶらせた。
ぼくたちの川のなかで、ぼくたちの夜に、ぼくたちの鳥が、
ぼくたちの水のなかに、ぼくたちのくちばしを突っ込んで
ぼくたちの餌になるぼくたちの魚を探していた。
だけど、もうぼくの目には見えない。
喜びと悲しみのほかには、なにも。
音には映像を膨らませる力がある。
映像もまた
喜びを膨らませる音楽を奏で
悲しみを膨らませる音楽を奏でていた。
ぼくは彼のことを愛していた。
ぼくは彼のことを愛していた。
悪いことに、ぼくはそのことに気がついていた。
よく知っていたのだ。
けっきょく、だれであってもよかった、ぼくたちであったのだけれど。
けっきょく、だれにもなれなかった、ぼくたちであったのだけれど。


二〇一八年十二月十九日 「ヤフオクでのお買い物」


きょうのヤフオクでのお買い物。本と画集。
これで、日本で出てるバロウズの個人的な本はすべて揃いました。
今後は原著を集めていきます。

SFは、オールディスの作品が入っていたから買ったアンソロジー。
これ、近所の古本マーケットで108円のときに買いそびれて
つぎの日に行ったらなくなってたもの。
300円で落札。
ああ、腹が立つ。
まあ、仕方ないけどね。

ジョン・クロウリーは、はじめて買ったのだけれど
エンジン・サマーの方が評判はよいみたいね。
まあ、どんなものか、読んでみましょう。
これは、短篇集みたい。
カヴァーがきれいなので、いい感じ。
カヴァーがいいので、ほかに欲しい本がいま数冊。
思案中です。

しかし、バロウズの絵は美しい。
あ、ショットガン・ペインティングの画集、持ってなかった。
上記の、日本で出たものぜんぶって、嘘だ。
それが残ってた。
このあいだ、5000円くらいで売ってたのだけれど
いま探してもないんだよねえ。
21000円で出してるところがあるけど
それはちと問題外。


二〇一八年十二月二十日 「ジミーちゃん」


これからジミーちゃん来室とのこと。
韓国人俳優のDVDを見ることに。
歌手らしい。
名前忘れちゃった。
自分が興味ないものは、ぜんぜん覚えられないんだよねえ。

きのう買ったDVDと、本と、到着した本。
カンフー・ハッスルは、以前に借りて、見まくったものだけれど
500円だったので、三条のブックオフで買った。
ふつう1000円くらいね。
で、いつもの居酒屋さんで
会社社長二人にはさまれて、飲んでいました。
どちらも理系の方で
話題は
有機化学や粉体工学や数学に。
なんちゅう、居酒屋さんなんやろか、とお二人もおっしゃってました。
そこに、ぼくがシェイクスピアにおける道化の役割ですとか
ラテン語の成句をまじえて哲学のお話などを入れるものですから
お一人の方は感激されて、「わたしもシェイクスピアを読みますわ。」
とのこと。
ところで
ニーチェもシェイクスピアも、持っていて読んだものなのだけれど
いま部屋の本棚にないので、だれかにあげたか、貸したままで戻ってこないもの。
もう人に本は貸さないようにしているけどね。
戻ってこないから。

ジョン・クロウリーのは、とってもカヴァーがきれいで
もう、それだけで、この本がすばらしいことがわかる。
本の状態もとてもよいし、いい感じ。
実物、きれいよ。
薄いし、それがまた魅力を増す原因ね。
部厚いものもいいけれど
薄い本って、独特の魅力がある。
岩波のチョー薄い本なんて
ほんと、美しいじゃん。
シェイクスピア
第二部がないけれど
これ、いま岩波から出てなくて
そのうち、ブックオフで。
ヤフオクでは、岩波、結構、高くって
入札する気がおこらん。
ゆっくり待てば、ブックオフで、108円だもんね。
読んだやつだし、あわてることないしね。

しかし、だれが持ってるんやろう。
ぼくのシェイクスピア。

追記

おひとりの社長は
化粧品開発メーカーの社長で、きょうは、京都の嵯峨野高校で
理系の生徒を前に講演なさってるはずで
その方とは
写真雑誌のデジャヴについて
また、写真家のキャシー・アッカーマンだったかしら
彼女の写真についても話が出て
ぼくは写真にも興味があって
デジャヴは創刊号から買っていた人なので
とかとか
いろんなところに話が飛んで
きのうは、とても面白かったです。
ああ、これで
恋人が、きょうでもメールくれたらなあ。

会いたい!
今晩6時に、京都の方と、本の交換を。
無料登録で、読書家の人間が
本の交換をできるシステムがありまして
その方と。
ぼくがいただくはずのものは、『ルイーズの肉体』と
『燃える家』の2冊。
ぼくが差し上げる予定のものは
『ベスト・オブ・バラード』と
『風の十二方位』と
『塔のなかの姫君』
京都の方なので
じかに交換できるのでいいですね。
でも、ナイフとか持ってて
異常者だったら、どうしよう。
直接、ぼくの部屋に訪れるということだけれど。
もしも、ぼくになんかあったら
これ、証拠にしてね。

いまから、部屋を片付けなきゃだわ。
コーヒー飲み飲み。
ルンル、ルンル、ル~ン。


二〇一八年十二月二十一日 「苦痛こそ神である。」


バロウズの画集(京都書院)が届きました。
とってもきれい。
でも、みてたら、きゅうに、うんこがしたくなりました。
してこようっと。
ブリブリ。

書物交換しました。

『ルイーズの肉体』は、耳に記憶があったので
楽しみ。
田中倫郎さんの訳なので
日本語も美しいはず。

『燃える家』
タイトルがいいと思った。
読んでみたくなるタイトルね。

こちらは
リンダ・ナガタの『ボーア・メイカー』
ル・グインの『風の十二方位』
バラードの『ベスト・オブ・バラード』
そして
ぼくの詩集を3冊
タイプだったから、つい、笑。
ハグハグしてしまった。

彼がHPの作り方も
これから教えてくれるそうなので
ちかぢか
ぼくのHPを。
そこに「詩人の役目」や
過去の未発表の作品なんかを入れていきますね。

さてさて
これからお風呂に入って
ひざをあたためて
いたみをやわらげます。
ひざの痛み止めの種類を変えました。
しかし、「苦痛こそ神である。」という思想こそ
ぼくの経験と思索の結果、たどり着いたものなので
なんともいえない満足をも感じています。
マゾヒストかしら、笑。
わたしはあなたとともにいる、という神さまの声が聞こえてくるのですね。
あとどれぐらいの長さ、どれくらいの程度
神さまは、わたしを苦しめてくれるのか、ということですね。


二〇一八年十二月二十二日 「薩摩の語部」


新しい「数式の庭」のモチーフが浮かんで、
うれしくなって、近所のスーパー「お多福」に。
このあいだ飲んだおいしい芋焼酎「薩摩の語部」を、
いまロックで飲んでる。
うううん。
ひとりで飲むひとじゃなかったんだけど、
いい詩の構想ができたっていっても
いっしょに喜んでくれる恋人もいないし、笑。
あしたもヨッパだろうけどね。
あとで、もっとヨッパになって
入力します。
おぼえてたらね~、笑。


二〇一八年十二月二十三日 「短詩」


ささいなことがささいなことでなくなる瞬間。みかんの数を数え直す。


二〇一八年十二月二十四日 「柴田 望さん」


 柴田 望さんから、同人詩誌『フラジゃイル』第4号を送っていただいた。柴田さんの作品「粉」、吉増剛造さんの初期の詩を思い起こさせるような詩句の繰り出し方で、びっくりした。いま初期の吉増剛造だなんて、新鮮な感じがした。


二〇一八年十二月二十五日 「廿楽順治さん」


 廿楽順治さんから、同人詩誌『Down Beat』第13号を送っていただいた。廿楽さんの作品「中華料理上海桜」に出てくる「ふるい耳」に、ぼくの耳が反応した。この短い詩句に、ぼくの耳が、自分の思い出を思い出させられていた。


二〇一八年十二月二十六日 「アザー・エデン」


 ここ数週間、体調が悪くて、あまり読書もできずにいたが、きょうは、なんだか気分がいい。きのうまでに、イギリスSF短篇の傑作集『アザー・エデン』を半分ちょっと読んだ。今晩は、マイケル・ムアコックの「凍てついた枢機卿」を読んで寝よう。『この人を見よ』の作者である。おやすみ、グッジョブ!


二〇一八年十二月二十七日 「藤井晴美さん」


 藤井晴美さんから、詩集『量子車両』を送っていただいた。一気に読ませていただいた。言葉を自由自在に駆使して、言葉のコラージュをつくっておられるような気がした。ぼくの詩集『The Wasteless Land.IV』を思い出したりもした。


二〇一八年十二月二十八日 「葉山美玖さん」


 葉山美玖さんから、個人詩誌『composition』の第3号を送っていただいた。「父」と「天井大嵐」と題された詩篇にこころの目がとまる。詩を読みながら現実を求めている自分を強く意識した。


二〇一八年十二月二十九日 「ロバート・フロスト」


ググって見つけた、フロストの「行かなかった道」の三つの訳、コピペ。


『行かなかった道』

黄葉の森の中で 道は二つに分かれていた
残念だが二つの道を行くことはできなかった
身一つの旅人ゆえ,しばらく立ち止まり
一方の道を 目の届くかぎり遠く
下生えの茂みに曲がっていくところまで見渡した.

それからもう一方の道を眺めた,同じように美しい,
あるいはもっとよい道なのだろう,
それは草深く まだ踏みつけられていなかったから.
だがそのことについていえば,実際は
どちらも同じ程に踏みならされていた,
しかもその朝は いずれもおなじように
黒く踏みあらされない木の葉でおおわれていた.
おお,わたしは はじめの道を,またの日のためにとっておいた!
だが 一つの道が次々に続くことを思い,
再びもどってくることがあるだろうかと疑った.

わたしは 幾年かの後 溜息ながらに
どこかで これを語るだろう,
森の中で 道が二つに分かれていた,そして わたしは——
わたしは 人跡の少ない道を選んだ,
それが 全てを違ったものにしたのだと.

安藤千代子「ロバート・フロスト詩集—愛と問い—」(近代文芸社、1992年)


行かなかった道     ロバート・フロスト  

黄ばんだ森の中で道がふたつに分かれていた。
口惜しいが、私はひとりの旅人、
両方の道を行くことはできない。長く立ち止って
目のとどく限り見渡すと、ひとつの道は
下生えの中に曲がりこんでいた。

そこで私はもう一方の道を選んだ。同じように美しく、
草が深くて、踏みごたえがあるので
ずっとましだと思われたのだ。
もっともその点は、そこにも通った跡があり
実際は同じ程度に踏みならされていたが。

そして、あの朝は、両方とも同じように
まだ踏みしだかれぬ落ち葉の中に埋まっていたのだ。
そうだ、最初眺めた道はまたの日のためにと取っておいたのだ!
だが、道が道にと通じることは分かってはいても、
再び戻ってくるかどうかは心許なかった。

今から何年も何年もあと、どこかで
ため息まじりに私はこう話すだろう。
森の中で道が二つに分かれていて、私は―
私は通る人の少ない道を選んだのだったが、
それがすべてを変えてしまったのだ、と。

           駒村利夫訳


The Road Not Taken

Two roads diverged in a yellow wood,
And sorry I could not travel both
And be one traveler, long I stood
And looked down one as far as I could
To where it bent in the undergrowth;

Then took the other, as just as fair,
And having perhaps the better claim,
Because it was grassy and wanted wear;
Though as for that the passing there
Had worn them really about the same,

And both that morning equally lay
In leaves no step had trodden black.
Oh, I kept the first for another day!
Yet knowing how way leads on to way,
I doubted if I should ever come back.

I shall be telling this with a sigh
Somewhere ages and ages hence:
Two roads diverged in a wood, and I-
I took the one less traveled by,
And that has made all the difference.
(Robert Frost, 1916)


「選ばれざる道」(MM総合研究所 訳)

黄色い森の中で道が二つに分かれていた
残念だが両方の道を進むわけにはいかない
一人で旅する私は、長い間そこにたたずみ
一方の道の先を見透かそうとした
その先は折れ、草むらの中に消えている

それから、もう一方の道を歩み始めた
一見同じようだがこちらの方がよさそうだ
なぜならこちらは草ぼうぼうで
誰かが通るのを待っていたから
本当は二つとも同じようなものだったけれど

あの朝、二つの道は同じように見えた
枯葉の上には足跡一つ見えなかった
あっちの道はまたの機会にしよう!
でも、道が先へ先へとつながることを知る私は
再び同じ道に戻ってくることはないだろうと思っていた

いま深いためいきとともに私はこれを告げる
ずっとずっと昔
森の中で道が二つに分かれていた。そして私は・・・
そして私は人があまり通っていない道を選んだ
そのためにどんなに大きな違いができたことか


二〇一八年十二月三十日 「考察」


ひとと触れる
ひとに触れると
人間は、こころが晴れ晴れとするところがあるようです。


二〇一八年十二月三十一日 「ロバート・フロストの「火と氷」」


このあいだ、ぼくが感心した
Fire and Ice

詩集 New Hampshire
に入ってるからね。


Fire and Ice

Some say the world will end in fire,
Some say in ice.
From what I've tasted of desire
I hold with those who favour fire.
But if it had to perish twice,
I think I know enough of hate
To say that for destruction ice
Is also great
And would suffice.


火と氷

ある人々は世界の終りは火になるだろうと言う、
ある人々は氷になるだろうと言う。
自分が欲望を味わい知ったところから判断して
わたしは火になるという人々に同意する。
だが、もし世界の滅亡が二度あるものとすれば、
わたしは憎しみも十分に知っていると思うから
滅亡のためには
氷もまた偉大で
それもまたよいだろうと言いたい。

                安藤一郎訳


この詩のアイロニーと滑稽さは秀逸である。
このような詩を書く高みに、自分も身を置いてみたいと思う。
けれど、ぼくのようなタイプの書き手は
高みにある偉大な詩人たちを見上げながら
彼ら彼女らが築いた人間考察の幅の広さとその深さに
ただただ感心するしかないのだろうとも思う。



自由詩 詩の日めくり 二〇一八年十二月一日─三十一日 Copyright 田中宏輔 2021-12-27 11:27:02縦
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