対話篇
やまうちあつし

残業で
すっかり遅くなってしまった
疲れた身体を引きずって
車のドアを開け乗り込むと
助手席にいる
随分大きくなった
初めて出会ったときは
小さな子猫ほどだったのに
ある日突然
姿を現したこいつは
いつの間にか車に乗り込み
毎日の帰路を
ともにするようになっていた
日を重ねるごとに成長し
どうも猫ではないらしい
と感づいたときには
言葉さえ話すようになっていた
「長いことかかったな」
黒ヒョウが言う
繁忙期だからね
仕方がないんだ、この時期は
「残業のことじゃない」
そう言って黒ヒョウは
器用にシートベルトを締める
ネコ科の猛獣とはいえ
物理法則には逆らえない
私は黙って車を出した
バイパスは今頃
ちょうど渋滞の時間
家につくまで
一時間ほどはかかるだろう
「いったい何が残っただろう、
 なんて考えているんだろう?」
冷房が効き始めた車内で
黒ヒョウが口を開く
いつだってこちらの
心中をお見通しなのだ
いや、べつに
残らなくたってかまわない
「無理しなくていい
 だけど拙速な判断は禁物だぞ
 何が残るか、なんていうのは
 人類史を貫く根源的な問いだよ」
少しもたつきながら車線を変更し
渋滞の列に割り込む
黒ヒョウは言う
「最初の覚悟や決意など
 何の足しにもならないということさ
 人間はそれほど
 賢くはできていない」
知るかよ、そんなこと!
遅々として進まぬ渋滞への苛立ちを
クラクションに込める
今日日
あまりに乱暴な煽りはご法度である
「そもそも間違いでないことが
 これまでに一度でもあっただろうか?
 間違いのなかから
 どうにかやりくりした結果が
 今なのではないのか?」
 アクセルを踏む足に力がこもる
「赤だぞ」
車が急停車する
ガクン、と衝撃を受ける
一人と一匹
確かに間違いだったかもしれない
こうしてお前を
車の助手席に乗せるようになったことも
黒ヒョウはフフン、と鼻を鳴らす
「気分を害したなら
 謝ろう
 この牙と爪にかけて」
思えばこんな間違いはない
何といっても相手は
ネコ科の猛獣だ
分別があるように見えても
黒い毛並みの内側には
野生の血脈が滾々と息づいている
平和ボケした人間の喉元を
食い破ることなど朝飯前だ
「心配するな
 襲いかかったりはしないよ」
黒ヒョウは静かに言い放つ
「今はまだな
 しかし考えてもみろよ
 今回のことでわかっただろうが
 世界は可能性ではなく
 不可能性で成り立っているとは思わないか?
 ニンゲンも黒ヒョウも同じさ
 できそうなことではなくて
 できそうもないことによって 
 我々の歩みは力強く
 導かれてゆくのだよ」
妙な汗をかいてしまった
明日からこいつを
助手席に乗せるのも避けなくてはならない
しかし
そんなことできるだろうか
それこそ可能性ではなく
不可能性によって
定められたとおりのことなのでは
ふと脳裏に浮かぶのは 
信号待ちで停車した
自分の車のフロントガラス
運転席には
だらりと力なくシートに体を預けた
私自身の姿
首から胸にかけて
真っ赤な地で染まり
生気があるようには見えない
そして助手席には
黒ヒョウがいる
血で染まった口元を
べろり、と舌なめずり
とても穏やかな表情で前を見据える
そしてこちらに気づいたようにつぶやく
「青だぞ」
   
   



自由詩 対話篇 Copyright やまうちあつし 2021-11-29 19:09:38縦
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