詩の日めくり 二〇一八年四月一日─三十一日
田中宏輔


二〇一八年四月一日 「孤独の円盤」


 きょうから河出書房新社の奇想コレクションシリーズの第2弾、シオドア・スタージョンの『不思議のひと触れ』憶えているのは、異色作家短篇集の『一角獣・多角獣』にも入ってた「孤独の円盤」くらいかな。

 いま日知庵から帰ってきた。あしたはホラティウスにちなんだ詩を書こうと思う。詩作についての詩にしようと思う。ホラティウスは詩法についてたくさん詩を書いたからね。でも、ふつうの詩論になっちゃいけないなと思う。思い切り遊んでつくるつもり。きょうはもう寝る。夕方に起きたのだけれど。


二〇一八年四月二日 「ホラティウス」


 ホラティウスに寄せた詩を書いたけど、ちょっと平凡かな。「詩法。」ってタイトルの詩にしたのだけれど、現代ってことで、書いたのだけれど、考え方がオーソドックスのような気がする。書きかえると思うけれど、出来が悪かった。きょうは調子が悪い。

 ずっと詩を推敲しているのだけれど、つぎつぎ詩句を取り替えていくから、原型とは違うものになっている。でも、この方向でいいのだという確信めいたものも芽生えてきた。しかし、レトリックの塊のようなものを書いているような気がする。これはいいことなのかな。それともダメな方向なのかな。どだろ。

 矛盾律を主軸に展開しているから、詩論じみた詩なのだけど、なにごとかを書いていて、書いてないといった感じのものになっている。その反対でもある。自分でも、もっと楽しみたい気持ちがあるから、最初から最後まで矛盾律で押し通すけど。あまり推敲し過ぎて、原型が半分以下になっている感じがする。

 まだ手を入れている。詩論詩としては及第点を超えていると思うのだけど、どこか平凡なシロモノのような印象がある。不遜な書き方だけど、ぼく以外の詩人が書いたとも言えるような叙述になっている。ホラティウスに寄せ過ぎたためかもしれない。ホラティウス自身は非凡な才能の持ち主だったのだけれど。

 いま、きみやから帰ってきた。阪急の改札近くで、えいちゃんと遭遇。あしたから、日知庵でバイトする。これから毎週、火曜日、木曜日、土曜日に入ることになっている。あした、ひさしぶりなので緊張する。詩の推敲はあしたするつもりだけど、まったく新しくつくりかえたいような気もしている。どかな。


二〇一八年四月三日 「不思議のひと触れ」


 お昼につくっていたホラティウスに寄せた詩を読み直した。2か所に手を入れた。今回は、これでいいかな。平凡な詩になってしまったような気がする。だれでもつくれそうな詩のような気がする。ぼくらしさなど微塵もない感じだ。しかし、そんな詩もあっていいような気もする。ぼくらしくもない平凡な詩。

 しかし、つぎには狂ったような詩をつくる。あしたから2行ずつつくっていく。それらを無作為につないでいくことにする。これで、ゴールデンウィークまでに、1作できるはず。きょう寝るまえの読書は、シオドア・スタージョンの短篇集『不思議のひと触れ』の「もうひとりのシーリア」から。

 いま杉中昌樹さんに、ホラティウスに寄せた詩をお送りした。きょうは夕方から日知庵でバイトだけど、それまでは、つぎの詩の材料をいじってすごそうかと思う。シオドア・スタージョンの短篇集『不思議のひと触れ』案外、読むのが楽しくない。好きな作家なのだけど。詩句をいじっているほうが楽しい。

これから保険料を払ってくる。およそ200000円。高いわ。

 いま30分くらいでつくった詩の方がおもしろい。ホラティウスのしばりは、ぼくにはきつかったようだ。まあ、いまつくったものは推敲していないから、またつぎつぎと詩句がかわっていくだろうけれど。現実の思い出が2つ入っている。ひとつはドライブの、もうひとつは日知庵のバーベキューの思い出だ。

 いま見直して、また手を入れた。詩句をいじるのは、ほんとうに楽しい。ホラティウスに寄せた詩でも、手を入れているときはドキドキしていたのだ。よりよい詩句に変化していくさまは、自分でも見ていて気持ちがいい。ああ、そうだ。杉中昌樹さんの詩誌では行数制限があった。縮めなければならない。

 いっきょに20行ほど削ったら、ちょうどよい感じになった。53行の詩だ。まだ手を入れるだろうから多少、行数がかわるかもしれないけれど、これ以上には増やさないつもりだ。こんな短い詩は数十年ぶりに書く。字数や行数の指定があっても書ける自分がいて、笑ってしまう。現実生活は不器用なのにね。

 気まぐれなので、タイトルを変更することにした。ジェネシスの曲名で『IT'S GONNA GET BETTER。』にしようと思う。詩の内容とまったく関係がないけど、まったく関係がなくても、人間の脳は関係づけてしまうので、それなりに意味合いが出てくるような気がする。まあ、何にでも合う無難なタイトルだしね。


二〇一八年四月四日 「FOR YEARS AND YEARS。」


 きょうも、いま1時間ほどで、50行ほどの詩を書いた。タイトルは、フランスのプログレで、タイフォンの曲名から、『FOR YEARS AND YEARS。』にした。今回も2つの事実を入れている。ひとつは糖尿病の話で、もうひとつは、よく飲みに行ったタコジャズの話だ。嘘も入れている。嘘というか架空の話だ。


二〇一八年四月五日 「糸ちゃん」


 いま日知庵から帰ってきた。20年来の友だちの糸ちゃんとしゃべくってた。きょうも、いい気分で寝るわ。おやすみ、グッジョブ!

えいちゃんにもらったシップを腰に貼って寝ようっと。


二〇一八年四月六日 「Still Falls The Rain。」


 Amazon で、ぼくの新しい詩集を予約下さった方がいらっしゃった。うれしい。Amazon では、5月10日が発売日ですが、発行所の書肆ブンでは、すでに発刊していますので、直接、書肆ブンにお問い合わせください。

 さっき、郵便局からヤリタミサコさんに、ぼくの新しい詩集『Still Falls The Rain。』をお送りした。この詩集はヤリタミサコさんの朗読に感激してつくった詩がメインの詩集だったのだ。詩集の表紙は、もちろん、ヤリタミサコさん。

 5月に文学極道の詩投稿掲示板に投稿する作品を決めておこう。詩論詩をまとめて本にしたいので、詩論詩つづきだけど、詩論詩にしようと思う。BGMはプリンス。

 BGMはいつの間にか、ジェネシスに。で、いま作業が終わった。未発表原稿にはすべて300番の番号をつけていて、はやく並んでいる詩論詩のほうから2つ選んで、タイトルを変更して、文学極道の詩投稿掲示板用に仕様を改めた。心配なのは、囲い込み文字が無数にあって、それらがどうなるのかだな。

 ツイッターのツイートで試したら、囲い込みだけがなくなっていた。文字はぶじだった。

 杉中昌樹さんから、『ポスト戦後詩ノート 第12号』「笠井嗣夫 特集」号を送っていただいた。執筆陣の多さ、多彩さに驚かされ、さらに杉中昌樹さんのご記憶力の強靭さにも驚かされた。ぼくも一文を寄稿させていただいた。杉中昌樹さんのお目にとまることができて、ほんとうによかったと思う。


二〇一八年四月七日 「おやすみ、グッジョブ!」


いま日知庵から帰った。寝る。おやすみ、グッジョブ!


二〇一八年四月八日 「ありがたいことです。」


ありがたいことです。


二〇一八年四月九日 「Sat In Your Lap。」


文学極道の詩投稿掲示板に、作品『Sat In Your Lap。』を投稿しました。

 きのうから右下の奥歯が痛くて、けさ歯科医院に行ったら、歯槽膿漏だと言われて抜歯された。麻酔を何本も打たれて歯を抜かれたのだけれど、抜歯って、めちゃくちゃ原始的な方法で抜くんだね。びっくりした。ペンチみたいなので、ぐいぐい抜いちゃうんだね。痛かった。怖かった。


二〇一八年四月十日 「ふたりジャネット」


 きょうから寝るまえの読書は、河出書房新社の奇想コレクション・第3弾の、テリー・ビッスンの短篇集『ふたりジャネット』の再読をする。おやすみ、グッジョブ!


二〇一八年四月十一日 「推敲」


 ユリイカの5月号に掲載される詩のゲラが届いたので、2か所、訂正させていただくことにした。つぎのような個所である。「会社を出たときに→会社を出たときには」、 「急いでいるかどうか→急いでいるのかどうか」 ひとつめの訂正は意味のための、ふたつめの訂正は音のためのものであった。

 ユリイカの5月号の作品、いま起きて天啓がひらめいて、メールで、タイトルの変更をお願いした。まだ間に合えばいいのだけれど。きょう電話をして、確認してみる。

朝ご飯を食べに行く。西院かな。ぽちぽちと歩いて。

 わ~い! いまユリイカの明石陽介さんに電話でご連絡して、ユリイカの5月号に掲載される詩のタイトルの訂正がしていただけることになった。ばんざ~い。これで完璧な詩篇になった。きょうは読書か、新しい詩の制作か、どっちにしよう。

 きのうから徹夜だ。少し横になっただけだ。クスリをのんでも眠くならない。脳機能が覚醒しているのかもしれない。よし、詩をつくろう。つぎの詩の材料はぐちゃぐちゃだから、おもしろい。そのまま並べてもいいくらいだが、ベストの配置をさぐるのが詩作だと思っている。選択された言葉が適切ならばだ。

 3分の2はつくってあった。あとの3分の1をいまつくった。なんの意味もない詩だ。それでも、ぼくにだけ意味がわかる部分がある。これまたじっさいの記憶を2つ入れている。あとは適当に嘘、笑。きょうは夕方まで、これをいじくりまわそう。いま、53行。短い詩だ。短い詩も、それなりにおもしろい。

 何十回も見直しているのに、まだあった。いま、ユリイカの明石陽介さんに訂正のお電話をかけさせていただいたのだけれど、「たわごとと言うなら」→「たわごとと言うのなら」の変更である。音的には後者のほうがすぐれている。なぜ、気がつかなかったのだろう? そして十回以上の訂正とは申し訳ない。

 やっぱり12年ぶりのユリイカで緊張しているのだろうな。それにしてもなぜ、音に気がつかなかったのだろう。まあ、「たわごとと言うなら」でも音的にそんなにおかしくなかったためだろうけれど、さらに音的にいいのは、やはり「たわごとと言うのなら」であろう。詰めが甘かったということだろう。

 さいきんつくり出している短い詩でも詩句をいじくりまわしているのだけれど、見るたびに詩句をいじるので、もう見ないで、どんどん新しいのをつくっていこうかなって感じだ。そして、じっさい、そのほうが自分のためにもいいかもしれない。あと数個つくったら、また、詩のつくり方を変えようと思っている。


二〇一八年四月十二日 「特集=アーシュラ・K・ル=グウィンの世界」


 いま日知庵から帰ってきた。きょうは客で。あした、しあさっては、日知庵でバイトしています。よろしくお願いします。毎週、火曜日、木曜日、土曜日にバイトしています。

 ユリイカ2018年5月号 「特集=アーシュラ・K・ル=グウィンの世界 」だそうです。SFマニアのぼくとしても、その号に自分の詩が掲載されるのは、ほんとうに、うれしい。ぼくの詩は、SFというよりも、マジック・リアリズムのほうだけれど。

 そいえば、ぼく、ユリイカの1991年1月号「特集=フィリップ・K・ディックの世界」で、ユリイカの新人に選ばれて、3つの詩を掲載していただいた記憶がある。縁なのかなあ、SFとは。

 テリー・ビッスンの短篇集『ふたりジャネット』のつづきを読みながら寝る。おやすみ、グッジョブ!


二〇一八年四月十三日 「フェッセンデンの宇宙」


 いまさっき、日知庵から帰ってきた。きょうはバイト。寝るまえの読書はテリー・ビッスンの短篇集『ふたりジャネット』のつづき。いま半分ちょっと読み終わったところ。といっても、短篇「穴のなかの穴」の途中だけど。

 テリー・ビッスンの短篇集、読み終わった。まあまあって感じ。車について詳しく書き過ぎなところが退屈だった。きょうから河出書房新社の奇想コレクションの再読は、エドモンド・ハミルトンの短篇集『フェッセンデンの宇宙』タイトル作品は記憶している。ほかはまったくどんな話だったか覚えていない。


二〇一八年四月十四日 「願い星、叶い星」


 ハミルトン、いちばん短い短篇「追放者」がいちばんおもしろかった。きょうから再読する河出書房新社の奇想コレクションは、アルフレッド・ベスターの短篇集『願い星、叶い星』、2作品、覚えてる。めずらしい。「ごきげん目盛り」と「昔を今になすよしもがな」タイトル作も、記憶通りのものなら3作。

 学校から帰ってきたら、郵便受けに、「詩の練習 第32号」の『鮎川信夫特集(2)』が送られてきていた。杉中昌樹さんからだ。ぼくも詩を寄稿しているからであろうが、今回も、杉中昌樹さんのご交友の多彩さに驚かされた。また、当然のことながら、杉中昌樹さんの知識の広さ、深さにも驚かされた。

 ブックオフの108円のコーナーに、買ってなかった時間SFのアンソロジー『時を生きる種族』(創元SF文庫)があったので、買っておいた。いま、アルフレッド・ベスターの短篇集の読み直しをしているので、いつ読むかわからないけれど。お風呂場で読もうかと思ったけれど、思わぬ傑作が入ってたら、あとで、ぜったい後悔して、また、Amazon で買い直すハメになると思うので、お風呂場で読むのはやめておこうと思う。お風呂場で読んだら、水、じゃないや、お湯びたしになっちゃうからね。

きょうは早めに寝ようと思いながら、淹れたてのコーヒー飲んでる。

 回転寿司の皿の上に猿がいる。種類の異なる何匹もの猿が回転している。色とりどりの、やわらかくて、おいしそうな猿たち。

 回転寿司の皿の上におじさんがいる。種類の異なる何人ものおじさんたちが回転している。色とりどりの、やわらかくて、おいしそうなおじさんたち。

 回転寿司の皿の上に皿がある。種類の異なる幾枚もの皿たちが回転している。色とりどりの、やわらかくて、おいしそうな皿たち。

 これからお風呂に。上がったら横になって、本を読みながら寝ます。おやすみ、グッジョブ!


二〇一八年四月十五日 「ダブル仕事の日」


 本を手に持って寝ていた。睡眠薬が強烈なんだろうな。3時ころに目が覚めて、それから暗い部屋でまどろんでいた。きょうは、ダブル仕事の日。がんばらなくては。これからコンビニに朝ご飯のパンを買ってくる。コーヒーを淹れて眠気を吹っ飛ばそう。

 いま学校から帰ってきて、コーヒーを淹れたところ。きょうは夕方から日知庵でバイト。がんばらなくっちゃ。


二〇一八年四月十六日 「輝く断片」


 ベスターの短篇集、おもしろかった。きょうから再読する奇想コレクションは、シオドア・スタージョンの短篇集『輝く断片』タイトルを眺めても、ひとつも物語を思い出せず。アルツかいなと、ふと思ったり。塾に行くまで、読んでみよう。塾のあとは日知庵に飲みに行きます。

 むかし、伊藤芳博さんに評していただいた私家版詩集『ふわおちよおれしあ』という詩集があって、それは、ぼくも持っていない詩集で、すべての「陽の埋葬」を収録している。これからも公開する予定のないものも含めてだ。わりと整然としている詩集だったように記憶している。


二〇一八年四月十七日 「日知庵」


スタージョンの短篇集のつづきを読みながら寝る。おやすみ、グッジョブ!

 いまさっき日知庵から帰ってきた。きょうはお客。あしたは店員で入っています。よろしくお願いいたします。


二〇一八年四月十八日 「本の虫」


 ぼくはやっぱり本の虫なんだな、日知庵から帰って、スタージョンの短篇集にかじりついている。未読の本は2、30冊ばかり。バラ色の人生なのか。無数の詩集の読み直しもしたい。ことしじゅうに、ぜび。

ひゃ~、もうこんな時間。クスリのんで寝ます。おやすみ。グッジョブ!

 とにかく本が好きなのですね。ほしい本はすべて手に入れたし、人生、にっこりして終われるような気がします。貧乏でも悔いなしです。

 いま目が覚めて仕事だと思って部屋を出たら、雰囲気が違うので、部屋に戻って時計を見た。朝の5時過ぎだった。通りで、目が覚めても眠気がまだあったから。さいきん、ときどきする失敗である。


二〇一八年四月十九日 「どんがらがん」


 いまスタージョンの短篇集を読み終わった。きょうから再読する奇想コレクションは、アヴラム・デイヴィッドスンの短篇集『どんがらがん』記憶してる短篇は2篇だけ。とびっきり変わってるもので、「ゴーレム」と「さもなくば海は牡蠣でいっぱいに」再読、とても楽しみ。ほんと変な発想する作家だもの。

 きょうは昼まで寝ていて、そのあとはずっと本を読んでた。これからお風呂に入って寝る。おやすみ、グッジョブ!


二〇一八年四月二十日 「西元直子さん」


 西元直子さんから、詩集『くりかえしあらわれる火』(書肆山田)を送っていただいた。そのほとんどが散文詩で、言葉がていねいに織り込まれている。文節のつなぎ方が、ぼくの好みだ。ブレスとブレスのあいだで、ちゃんと息がつける。息をつけさせないところはまったくない。ごく稀なごく自然な文体だ。

 デイヴィッドスンの短篇集『どんがらがん』の読み直しも、さいごの短篇「どんがらがん」で終わりだ。それを読み終わったら、つぎの奇想コレクションの読み直しは、ゼナ・ヘンダースンの短篇集『ページをめくれば』にする。収録作で憶えているのは、1作のみ。ああ、情けない記憶力。すさまじい忘却力。

「どんがらがん」を読み終わった。自由の女神の残骸が出てくるところは『猿の惑星』の映画のラストシーンを思い出させる。原作の『猿の惑星』の本には出てこないんだけどね。これからお風呂に。あがったら、ヘンダースンの短篇集『ページをめくれば』を読む。あした早いので、読むのは解説くらいかもしれないけど。


二〇一八年四月二十一日 「シラバス」


 昼から夕方にかけて、ひとつの単語がまったく思い出せずに、なんか狂気に陥ったように、その言葉を求めて考え込んでいた。夜になって、日知庵にバイトに行って、そのとき、こられてたお客さんに尋ねたら教えてくださった。女子大生の子に「授業のカリキュラムとか書いてあるもの、なんていいました?」と尋ねたのだけれど、あした一限目からなのよとか話をされてたので、教えてもらえるかもしれないと思って尋ねたのだけれど、その単語って、「シラバスですか?」と言ってくださったので、ようやく自分のさがしていた言葉に辿り着くことができたのだった。こんど、シラバスを書くことになったのだった。


二〇一八年四月二十二日 「ページをめくれば」


 ゼナ・ヘンダースンの短篇集『ページをめくれば』のつづきを読みながら寝る。といっても、まだ冒頭の作品のさいしょしか読んでいない。


二〇一八年四月二十三日 「猿」


 猿がブランコをこぎながら、うんこをしている。いや、違うかな。猿がうんこをしながら、ブランコをこいでいる。これも違うかな。ブランコが揺れながら、猿とうんこを、ぼろぼろと落っことしている。これかな。ヴィジョンが浮かんだかな。やっぱ、こういうのはヴィジョンが大事なのよね、ヴィジョンが。


二〇一八年四月二十四日 「ぼく」


 ぼくはブランコをこぎながら、うんこをしている。いや、違う。ぼくはうんこをしながら、ブランコをこいでいる。これも違う。ブランコが揺れながら、ぼくとうんこを、ぼとぼとと落っことしている。これかな。ヴィジョンが浮かぶ。やっぱ、こういうのはヴィジョンが大事なのよね、ヴィジョンが。


二〇一八年四月二十五日 「不遜」


 さいきん、自分がなにごとかを書くことが、とても不遜なことに思えてきた。やっぱり、大詩人や大作家のものばかり読んでいると、そうなるのかもしれない。いま日知庵から帰った。おやすみ、グッジョブ!


二〇一八年四月二十六日 「アーシュラ・K・ル=グウィンの世界」


 ユリイカの5月号「アーシュラ・K・ル=グウィンの世界」特集号を送っていただいた。ぼくが書いた詩「いま一度、いま千度、」が掲載されている。1991年の1月号が「P・K・ディックの世界」で、大岡 信さんに、ぼくをユリイカの新人に選んでいただいたので、SF好きのぼくは、とてもうれしい。


二〇一八年四月二十七日 「教材研究」


 きょうは5時まで読書しよう。それから日知庵にバイト。月曜日は休みだけど、5月1日の火曜日は授業があるので、その教材研究で月曜日の休日はつぶれるだろうな。ことしは教材研究に時間がかかっている。1枚のプリントをつくるのに1時間以上かかっている。ひさしぶりの違う教科だからかもしれない。


二〇一八年四月二十八日 「先生、知ってる?」


 いま日知庵から帰ってきた。寝るまえの読書は、ゼナ・ヘンダースンの短篇集『ページをめくれば』のさいごの短篇「鏡にて見るごとく━━おぼろげに」。でも、5分の2くらいのところに収められてる「先生、知ってる?」を、きょう読み直したら、すっごい名作だったことに気づいたので、これを読むかも。

 人間がなぜ詩を読んだり書いたりするのかは知らないけれど、ぼくが詩を読んだり書いたりするのは、頭がすっきりするからだ。こころの目の視力がよくなるからであると言ってもよい。まあ、ぼくがそういう詩を求めているだけで、ほかのひとはこころの平安を得たいと思ってたりするのだろうなあと思う。ぼくの場合は平安ではなく、むしろ不安を求めているのかもしれない。こころの目がよく見えるようになればなるほど、人間についての知見がますますわからなくなっていくからである。

 ひとりの人間について100通りの解釈をするほうが、100人の人間について、ひと通りの解釈をするよりもずっと意味のあることだと思う。もしかしたら、これが、ぼくが詩を読んだり書いたりする理由なのかもしれない、と、ふと思った。

クスリのんで寝ます。おやすみ、グッジョブ!

 ゼナ・ヘンダースンの短篇集『ページをめくれば』再読終了。おもしろかった。やっぱり奇想コレクションのほうがよい。きょうから再読する奇想コレクションは、ウィル・セルフの『元気なぼくらの元気なおもちゃ』これまた、あれまた物語をひとつも憶えていない。まるで新刊を読むようなものだな、ぼく。

これからお風呂に。それから日知庵に行く。きょうは、客としてね。


二〇一八年四月二十九日 「しんさん」


 いま日知庵→きみやの梯子から帰った。帰りに、阪急電車の河原町駅の階段のところで、しんさんと出会った。「また日知庵で。」とおっしゃったので、「はい。」と返事した。あいかわらず、かわいい笑顔だった。かわいいひとは、変わらず、ずっと、かわいいんだね。と思ったのであった。きょうのいい思い出。


二〇一八年四月三十日 「ウィル・セルフ」


 ウィル・セルフの短篇集を読んでいるのだが、世界観が不気味で、なかなか読み進められない。不気味系は好きなほうだと自分では思っていたのだけれど、エンターテインメントとして不気味なものが好きだっただけのようだ。生理的に不気味なものには生理的な拒否感が起こるようだ。まあ、わからないけど。


二〇一八年四月三十一日 「断章」


――詩人はよく、こう言っていた。詩人にできるのは、ただ言葉を並び替えることだけだ、と。

 人間は実際造ることができないんです。すでにあるものを並び替えるだけでしてね。神のみが創造できるのですよ
(ロジャー・ゼラズニイ『わが名はレジオン』第三部、中俣真知子訳)




自由詩 詩の日めくり 二〇一八年四月一日─三十一日 Copyright 田中宏輔 2021-11-08 00:09:24縦
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