野性よ、削ぎ落された地平を
ホロウ・シカエルボク



お前は煤色の赤ん坊を抱いて
焼け焦げたアスファルトを裸足で踏みしめる
サイレンだと思っていたのはいくつもの悲鳴で
雨雲に見えていたのはなにもかもが
無に還ろうと爆ぜる努力の証だった

ようやくたどり着いた川面は
器に注がれた汁物のそれのようにぬるりと輝いていて
飲んでみると鳥の油みたいだった
上流でたくさん人が死んでいたのだと聞いたのは
しばらく経ってからのことだった

どれほど歩いただろうか
赤ん坊は手の中で崩れた
灰になって風に散らばっていった
しばらくのあいだお前は
まだ抱いているかのように腕を丸めていたが
重さがないのでだらりと下ろしてしまった

夜は面接官のようにやってきた
河原に残されたボート小屋の中で
お前は朝を待つことにした
主が居るのなら多少の犠牲は仕方がないと考えていたが
入口のそばにひとがたの炭がひとつあり
住居はがらんどうだったので
遠慮することもないだろうと上がり込んだ
電気もガスも当然機能しなくなっていたが
冷蔵庫の中のものはまだ新鮮だった
日持ちのしそうなものも戸棚にたくさんあった
そういえば何度か見かけたここの主人は
ありえないくらい太っていたなとお前は思い出した
食べものがなくなるまではここに居るのもいいかもしれない
役に立たなくなった
自分の乳を飲むことも出来るな、と
その時初めて思い当たった

岸にあたる水の流れが終始聞こえるほどに
ほかにどんな音もしない夜だった
路面電車や
声を張り上げる酔っ払いたちや
道端で痴話喧嘩を始める恋人たち
アクセルを吹かすバイク
辺りが揺れるほどのボリュームで
カーステレオを鳴らす車
そいつらにマイクで呼びかけるパトカー
そんな一切の騒々しさは
すべて死体の下敷きになって沈黙していた

掃除したソファーに横になったものの
まるで眠ろうという気にはならなかった
初めて旦那のことを思い出した
携帯電話など使い物にならなかった
彼の仕事場は遠くにあるから
生きていても帰って来ることもなかなかままならないだろう
と、お前は考えた
川に掛けられた大橋の灯りは消えていて
月だけが世界を照らしていた
それは優しい歌のような明るさだった

眠ることを諦めてソファーに座り直し
お前は胸の中にあるものが悲しみでも恐怖でも
諦めでも狂気でもなく
安堵であることにようやく気が付いた
夜泣きに眠りを妨げられることもなく
夜中に戻って来る男のために
夕食の用意をする必要もなく
ご近所の付き合いなどに時間を取られることもない
この生活を守り続けることにはたしてどれほどの意味があるのかと
風呂上がりに髪をまとめながら考えることも要らなくなった

お前は外に出て河原に腰を下ろし
妙にはっきりと見える月と星の下で
「きらきら星」を口ずさんだ
子供のころに習ったきりで
いい加減な歌詞だったけれど
それを咎めるものもどこにも居なかった
それからうぅん、と
大きな声を上げながら背伸びをした
空を切り裂くように流れ星が駆け抜けた
その瞬間
お前は強い力で地面に組み伏せられた
髪を金色に染めた若い男が
おぞましい笑いを浮かべながらお前にのしかかっていた
なあ、仲良くしようぜ、と
男は酒に割れた声でそんなことを言った
お前はにっこり笑って下から両手を伸ばし
男の頬を触ると自分の方へ引き寄せた
男は戸惑ったのかバランスを崩し
お前の上に崩れてきた
お前は口を大きく開けて男の喉元に噛みつき
頸椎を覆う薄い筋肉をごっそり嚙みちぎった
男は悲鳴を上げながらお前から離れ
糞小便を漏らしながら四つ這いで逃げようとしたが
やがて血だまりの中に突っ伏して動かなくなった
お前は男の死体を小屋に持ち込み
包丁で捌いて
小屋の隅にあったガスコンロで
焼けるだけ焼いて食えるだけ食った
いつだったか
人の肉は不味くて食えたものじゃないという話を読んだことがあったけど
なかなかどうして悪くない味だった
保存することも出来ないので
余った部分は川に捨てた
どうせ死体塗れなのだ
タンスで見つけたルームウェアに着替えて
ゆっくりと伸びをするとそのまま眠っていた

翌朝眩しさで目を覚まし
川で顔を洗った
昨夜捨てた男の死体は
沈んだのか見当たらなかった
魚に食われたかもしれない
釣りをしてみるといいかもしれない
今ならよく肥えた魚をたくさん食べることが出来るだろう
それから今日一日の予定を立てることにした
ガスコンロのボンベがどれだけあるか
それは必ず確認しておかなければならない
それから周辺の掃除をして
ホームセンターに行って小屋を補強出来るようなものを探してみよう
それはきっと簡単なことではないだろうけど
考えれば考えるほどワクワクしてくるのだった
わたしは生き残り、そして生き続けるのだ
川の流れを見つめながら
お前はそんな歌を即興で歌った
それまでも生きていたことには違いがないはずなのに
お前はいま初めて生まれたみたいな気がしているのだった



自由詩 野性よ、削ぎ落された地平を Copyright ホロウ・シカエルボク 2021-11-03 15:50:02
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