詩の日めくり 二〇一七年十三月一日─三十一日
田中宏輔

二〇一七年十三月一日 「日付のないメモ」


 彼は作品のそこここに、過去の自分が遭遇した出来事や情景をはめ込んでいった。あたかもはじめからそれがそこにあって当然と思われるはめ絵のピースのように。さまざまな形や色や音を、いろいろな時間や場所や出来事を、たくさんのピースをはめ込んでいったのだった。そのはめ込まれたピースのなかには、はめ込まれてはじめてはまる類のものもあって、はめ込んだ前とまったく異なるものもあったのである。そういった類のピースが多くある作品には、作者にもつくれるとは思えなかった作品がいくつもあった。


二〇一七年十三月二日 「短詩」


暗闇の一千行
一千行の暗闇


二〇一七年十三月三日 「日付のあるメモ」


2011年1月18日

詩人の役目とは、まず第一に、
言葉自体がその言葉にあるとは思わなかった意味があったことを
その言葉に教えること。
つまり、眠っていた瞼を一つでも多くあけさせること。
数多くの瞼をあげさせ、しっかりと目をひらかせることが詩人の役目である。
言葉が瞼をあける前とは違った己の顔を鏡に見させること。


二〇一七年十三月四日 「THE GATES OF DELIRIUM。」


 詩人のメモのなかには、ぼくやほかの人間が詩人に語った話や、それについての考察や感想だけではなくて、語った人間自体について感じたことや考えたことが書かれたものもあった。つぎのメモは、ぼくのことについて書かれたものであった。

 この青年の自己愛の絶えざる持続ほど滑稽な見物はない。恋愛相手に対する印象が語るたびに変化していることに、本人はまったく気がついていないようである。彼が話してくれたことを、わたしが詩に書き、言葉にしていくと、彼は、その言葉によってつくられたイメージのなかに、かつての恋愛相手のイメージを些かも頓着せずに重ねてしまうのである。たしかに、わたしが詩に使った表現のなかには、彼が口にしなかった言葉はいっさいなかったはずである。わたしは、彼が使った言葉のなかから、ただ言葉を選択し、並べてみせただけだった。たとえ、わたしの作品が、彼の記憶のなかの現実の時間や場所や出来事に、彼がじっさいには体験しなかった文学作品からの引用や歴史的な事柄をまじえてつくった場合であっても、いっさい無頓着であったのだ。その頓着のなさは、この青年の感受性の幅の狭さを示している。感じとれるものの幅が狭いために、詩に使われた言葉がつくりだしたイメージだけに限定して、自分がかつて付き合っていた人間を拵えなおしていることに気がつかないのである。それは、ひとえに、この青年の自己愛の延長線上にしか、この青年の愛したと称している恋愛相手が存在していないからである。人間の存在は、その有り様は、いかなる言葉とも等価ではない。いかに巧みな言葉でも、人間をつくりだしえないのだ。言葉がつくりだせるものというものは、ただのイメージにしかすぎない。この青年は、そのイメージに振り回されていたのだった。もちろん、人間であるならば、だれひとり、自己愛からは逃れようがないものである。しかるに、人間にとって必要なのは、一刻もはやく、自分の自己愛の強さに気がついて、自分がそれに対してどれだけの代償を支払わされているのか、いたのかに気がつくことである。この青年の自己愛の絶えざる持続ほど滑稽な見物はない、と書いたが、もちろん、このことは、人間のひとりであるわたしについても言えることである。人間であるということ。言葉であること。イメージであること。確かなものにしては不確かなものにすること。不確かなものにして確かなものにすること。変化すること。変化させること。変化させ変化するもの。変化し変化させるもの。記憶の選択もまた、イメージによって呼び起こされたものであり、言葉を伴わない思考がないのと同様に、イメージの伴わない記憶の再生もありえず、イメージはつねに主観によって汚染されているからである。

 ぼくは、ぼくの記憶のなかにある恋人の声が、言葉が、恋人とのやりとりが、詩の言葉となって、ぼくに恋人のことを思い出させてくれているように思っていた。詩人が書いていたように、そうではなかった可能性があるということか。詩人が選び取った言葉によって、詩人に並べられた言葉によって、ぼくが、ぼくの恋人のことを、恋人と過ごした時間や場所や出来事をイメージして、ぼくの記憶であると思っているだけで、現実にはそのイメージとは異なるものがあるということか。そうか。たしかに、そうだろう。そうに違いない。しかし、だとしたら、現実を再現することなど、はじめからできないということではないだろうか。そうか。そうなのだ。詩人は、そのことを別の言葉で語っていたのであろう。恋人のイメージが自己愛の延長線上にあるというのは、よく聞くことであったが、詩人のメモによって、あらためて、そうなのだろうなと思われた。彼の声が、言葉が、彼とのことが、詩のなかで、風になり、木になり、流れる川の水となっていたと、そう考えればよいのであろうか。いや、詩のなかの風も木も流れる川の水も、彼の声ではなかった、彼の言葉ではなかった、彼とのことではなかった。なにひとつ? そうだ、そのままでは、なにひとつ、なにひとつも、そうではなかったのだ。では、現実はどこにあるのか。記憶のなかにも、作品のなかのイメージのなかにもないとしたら。いったいどこにあったのか。


二〇一七年十三月五日 「32年目のキッス。スプレンディッド・ホテル。アル・ディメオラ。」


きょうは、風邪をひいていたので
学校が終わったら、まっすぐ帰ろうと思ったのだけれど
職員室で本で読んでいたら、帰りに日知庵に寄るのに
ちょうどいい時間だったので
帰りに日知庵に寄った。
そのまえに、三条京阪のブックオフに行ったら
アル・ディメオラの『スプレンディッド・ホテル』があった。
1250円。
高校2年生のときに
國松毅くんちに行ったら
聴かせてくれたアルバムだった。
國松くんのお母さんが
ぼくを見て
國松くんに
「おまえの友だちに、こんなかわいい子がいたなんて。」
って、おっしゃって
恥ずかしかった。
でも、國松くんのお母さんの言葉があったからなんだろうけど
國松くんの部屋で
ふたりっきりになったときにキスをしたら
抱きしめてくれた。
ぼくはぽっちゃりぎみ
というか、おデブだったけど
体格は國松くんのほうがよかった。
翌日
学校で
國松くんに、こう言われた。
「これからは、ふたりっきりで会うのは、やめような。」
いったい、なにを怖れていたんだろう。
ぼくたちの幼いセックスは。


二〇一七年十三月六日 「わたしとは何か。」


人間が最初に問いかけをしたのは
何だったんだろう
いにしえのヘビにそそのかされたイヴの言葉になかったのだろうか
なかったとすれば
神がアダムに言った
「あなたはどこにいるのか」
という言葉が最初の問いかけになる
園の木の実を食べたアダムとイヴが
神の顔をさけて
園の木のあいだに隠れていたときのことだ
「園のなかであなたの歩まれる音を聞き
わたしは裸だったので
恐れて身を隠したのです」というアダムの言葉が
人間の最初の答えになる
最初の答えは言い訳だったのである
最初の問いかけは
神の言葉だったのか
それともイヴのいにしえのヘビに対するものだったのか
それはわからない
もしもイヴのものが最初の問いかけであったなら
最初の答えはいにしえのヘビによるものだということになる
人間同士のものが
最初の一対の問いかけと答えになっていないというところが面白い
外と中
外から来るもの
中から来るもの
外からくるものが問いかけであることもあるだろうし
外からくるものが答えであることもあるだろう
中からくるものが問いかけであることもあるだろうし
中からくるものが答えであることもあるだろう
いずれにしても
くるのだ
と思う
どこへ
わたしというところへ
わたしという場所に
ふいにやってくるのだ
ふとやってくることが多いのだ
学生時代でも
いまでもそうなのだが
わたしは
わからない数学の問題を
ほっておくことが多かった
答えを見ないでおくのだ
すると数日で
遅くても一週間くらいで
ふいに
解き方がわかるということがよくあったのだ
無意識部分のわたしが
つねに
別の無意識部分のわたしに問いかけているのだろう
無意識部分のわたしが
別の無意識部分のわたしに答えようとしているのだろう
いや
答えているのか
外と中
顕在意識と潜在意識とのあいだの応答も
問いかけと答えに近いところがあるかもしれない
応答といま書いたが
応答と
問いかけと答えでは
ちょっと違うか
ちょっと違うということは
やはり似ているところが
同じようなところがあるのかもしれない
ちょっと違うか
ちょっと違うのは
わたしのパジャマ姿だ
上と下と違うではないか
ちょっと違うどころやない
ぜんぜん違うではないか
ちゃんとそろえて着なきゃ


いま
ジミーちゃんと電話してわかったんだけれど
聖書のなかで
最初に見られる疑問文は
創世記の第三章・第一節の
「園にあるどの木からも取って食べるなと
 ほんとうに神が言われたのですか」という
いにしえのヘビの言葉であった
それに対するイヴの言葉が
最初の疑問文に対する
最初の答えである
「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが
 ただ園の中央にある木の実については
 これを取って食べるな
 これに触れるな
 死んではいけないからと
 神は言われました」
やはり
最初の問いかけと
その答えは
人間同士のものではなかった
ジミーちゃんに
「あなた
 ちゃんと聖書読んでんの?」
「あなた
 聖書ぜんぶ読んだって言ってたのに 
 あまりよくご理解なさってないようね」
と言われた
ああ
恥ずかしい
読んで調べて書いたのやけど
ジミーちゃんに
「一文ずつ読んで調べたって言ってたのに
 なぜ
 その箇所をとばしたのかな」
「まったく不思議」とまで言われて
さげすまれた
「バカ」とも言われた
「バカなの
 わたし?」
と言うと
「褒め言葉だけど」とのこと
「ほんとうに?
 なぜなぜ?」
と言うと
「バカって梵語のmohaからきてる
 無知という意味の言葉で
「僧侶」の隠語だったからね」
とのこと
ああ
ありがたや
ありがたや

だいぶ横に行ってる感じ
「バカは死ななきゃ治らない」
とまで電話で言われた

また横っとび
最初の問いかけが
いにしえのヘビのものだったのは
象徴的だ

何が象徴的かってのは
よくわからないんだけど

神の最初の問いかけに答えたのはアダムだった
悪魔の問いかけに答えたのがイヴであった
このことも何かを象徴しているはずだ
なんだろう
神の最初の問いかけがアダムになされたことと
悪魔の最初の問いかけがイヴになされたことが何かを象徴していると
そう受け取るのは
ぼくのこころがジェンダーにまみれているからかもしれない
いや
ただ単にジェンダーに原因を置くことは
文化史的な探求を途中で放棄することになる
ちゃんと把握しなければ
神というものを意識の象徴ととり
悪魔というものを無意識の象徴ととると
意識に働きかけるもの
感覚に働きかけるもの
目に見えるもの


手に触れるもの
耳に聞こえるもの
感じられるもの
これらのものが神の象徴するものだとしたら
それに応答する感覚
意識がアダムで
悪魔は
無意識領域の働きかけというふうにとると
イヴはそれに対応する無意識領域の反響あるいは共鳴ということになる
そういえば
聖書的には
男は拒絶する場面がいくつも見られるが
たとえば
カイン
ユダ
ペテロ
女は受け入れるという印象がある
イヴしかり
マリアしかり
じゃないかな
なんて思った
いままたジミーちゃんから電話があって
いま書いたところを読んで聞かせたら
「えっいまなんて言った?」
って訊かれて
「ジェンダー」と答えたら
「ぜんざいと聞こえた」と言われ
「それならぼくのこころがぜんざいにまみれた話になってしまうやんか」と答えた
ふたりで大笑いした

最後まで読んで聞かせて
「どう思う?」って訊いたら
「でも田中さんの場合
 よく読み落としがあるから
 うかうか鵜呑みにはできないな」
と言われて
「あぎゃ」と声をあげて笑った
信用ないのね
聖書の知識ではジミーちゃんに完全に負けちゃってるものね
でも
意識は拒絶し
無意識は受け入れるというのは興味深い
男を意識領域
女を無意識領域の象徴ととることは
聖書の記述にも合致する
創世記の第二章・第二十二節から第二十三節に
 主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り
 人のところへ連れてこられた
 そのとき
 人は言った
「これこそ
 ついにわたしの骨の骨
 わたしの肉の肉」
これは面白い
神はアダムが女を欲したので女を造り
アダムに与えたのだが
そのイヴが造られたのは
アダムのあばら骨という
心臓に近い
こころに近い骨からであるにもかかわらず
アダムのところへ連れてこられたというのだから
違った場所で
アダムのそばではないところで
イヴを形成したということになる
無意識領域が
意識領域のものからつくられたのにもかかわらず
つまり
材料は意識領域のものにもかかわらず
違った場所で
形成したというのだ
無意識領域は

意識は
無意識領域のものに出合って
これこそ
わたし自身であると言明したのだ
まあ
無意識領域のものと出合うというのがどういうことなのか
またほんとうに出合ったのが無意識領域のものとであるのかという問題は
そうだね
観照テオリアというものと関わっているような気がするので
この観照というものについても
考察しなければ
うううん
考えれば考えるほど
いっぱいいろんなことが関わっていて
面白いにゃあ
ユングのいう男性原理と女性原理だっけ
これも面白いね
さっきまで
男性原理と女性原理と書いてたけど
違ってた
ユングのはアニマとアニムスだった
男性が持っている無意識の女性性がアニマで
女性が持っている無意識の男性性がアニムスだった
アニマ(anima)自体はラテン語で

呼吸
精神
生命

の意味で
アニムス(animus)もラテン語で
生命

精神
記憶力
意識
意見
判断
の意味の言葉で
語彙的にいっても
アニムス(男性性)が「意識」を表わしているというのは面白い
ユングが言うところのアニマ(女性性)が集合的なことに対して
アニムス(男性性)が個別的であるというのも
アダム=意識
イヴ=無意識
という感じでとらえてもいいと思わせられる
しかし
これらはみなジェンダー的な用語の使用という
文化史的な背景をもとにした語彙の履歴を暴露するものであって
男性性とか女性性とかいった言葉遣いのなかに
ミスリードさせてしまうところがあるかもしれない
意識領域のもの
無意識領域のもの
という具合に言えばいいところのものを
男性性
女性性
という言葉でもって
それを意識領域
無意識領域というふうに
言語的に関係付けてしまうことは
文化史的には必然で
文脈を容易に語らしめるものとなるのだろうけれど
本質的なところで
誤解を生じる可能性があるかもしれない
ぼくが考察するとき
比較対照するものが聖書や文学や哲学の文献だったりするので
文化史的な点では
それを無視することはできないし
ましてや
それがなかったものとして語ることもできないのだが
知らず識らずのうちに
ジェンダーであることを忘れてしまわないように
気をつけながら
考察しなければならないと思った
さっき
意識は拒絶し
無意識は受け入れるというのは興味深い
と書いたけれど
逆に
意識が受け入れたかのように感じられ
無意識が拒絶しているというようなことも
ままあるような気がする。
意識としては受け入れなければならない
だから受け入れるぞと踏ん張ってみても
こころの奥底ではそれを拒絶しているので
体調を崩す
なんてことがあるような
あったような気がする
意識領域のものに
無意識領域の力が働きかけているのだろう。
言葉を換えると
意識領域の不具合が
無意識領域の場に影響を与えて
それで無意識領域の場が反応してるってことなのかもしれない
ところで
アニメーションが
一枚一枚断片的な画像によって
それがすばやく場所を移動させることによって
連続的なものに見えるというのも
面白いですね
ラテン語の辞書を引くと
animalには「動物・被造物・生きている物」という意味がありますが
animatioには「生きもの・被造物・存在」
animatusには「魂のある・生命のある・霊化された・定められた・考えを抱いている」
animoには「生命づける・活かす・蘇生さす・変える・ある気持ちにさせる」
と出ていました
語源って調べると楽しいですね
ハイデガーの気持ちがよくわかります
無意識領域を形成するのは
意識領域のものだけではなく
主体が知らないうちに感覚器官が受けた刺激や情報もあって
無意識領域という場を形成しているものが
意識領域のものが形成するロゴスとは異なる力の場であることは
無意識の力というものが存在するように思われるところから容易に想像できるのだが
無意識領域の場の基盤といったものを考えてみよう
タブラ・ラサ
赤ん坊の意識が形成されるまえの
赤ん坊の無意識領域と意識領域の場について考えると
意識領域はまっさらだと思われるので
無意識領域の場が
さきに形成されていくような気がする
あるいは
意識領域の核というのか
断片というのか
大洋になる前の水溜まりというのか
そういったものが形成されているのかもしれないが
無意識領域のものが
少なくとも
遅くとも
それらと同時には形成されているような気がする
なぜこんなことをくどくどと書いているのかというと
このことを文学作品の鑑賞の際に
また自分の作品の解析と
作成に利用できるのではないかと思われたからである
自然に起こる霊感の間歇的な励起に対して
人工的な励起状態をつくりだせないかということである
引用という手段
コラージュという手段については
経験もあり
実験もつづけてしていて
人工的な励起状態をつくる
もっとも有効な手段だと思われる
つねに刺激を受けることがだいじなんだね
本を読み
音楽を聴き
映画を見
そして
日々の生活の上で
他者のやりとりを
他者とのやりとりを
自分のやりとりを
観察すること
はじめて見たかのように
つまびらかに観察すること
しかし
観察という行為においては
自己同化という現象も同時に起こり
おそらく夢中で観察しているときには
自他の区別がなくなってしまうようなところがあって
結局は自我の問題に行き着くようなところがあって
他者を求めて自己に至るという
自己と他者の往還
同一化という
ぼくの好きなプロティノス的な見解に結びついて
面白いなって思う
相互作用
往還
という点で
観察という事象に目を向けて
考察してみたいなって思った
問いかけをやめないこと
より精緻な問いかけをすること
より深淵な問いかけをすること
しかし
それはけっして複雑なものではなく
きわめてシンプルなものであろう
文脈を精緻に
語りかける位置を深くすること
目に見えるもの
耳に聞こえるもの
手で触れられるもの
そういった具体的なものを通して
観察の位置を熟慮して
精緻な文脈で構築すること
具体的であればあるほど
抽象的になることを忘れずに
瑣末なことであればあるほど大切なことに
末端的なことであればあるほど中心的なことに
触れていることを忘れないこと
それを作品で現実化することが
芸術家の
詩人の役目なのでしょうね
体験はひとつ
ふたつ
みっつ
と数えられる
数えられるものは
自然数なのだ
小数の体験や
分数の体験などといったものはないのだ
しかし同時にまた
体験は
ひとつ
ふたつ
みっつと数えられるものものではないのだ
あのときのキス
あのときに抱きしめられた感触
あのときに触れた唇の先の肌のあたたかみ
それらはひとつ
ふたつ
みっつと数えられるものではないのだ
回数を数えれば
一度
二度
三度と
数えられるのだが
体験そのものは数えられるものではないのだ
あのときのキス
あのときに抱きしめられた感触
あのときに触れた唇の先の肌のあたたかみ
それそのものというものは数えられるものではないのだ
あえて数えてみせるとすれば
ただひとつ
ただひとつのもの
いや
ものでもない
ことでもない
それそのもの
ただひとつ
体験は自然数
それもただひとつの数である

凝固点降下
水などの
液体に溶解するものを入れると凝固点が下がるというのが
凝固点降下と呼ばれる現象であったが
以前に書いたことだが
凝固点効果という現象が
記憶が
あるいは想起が
真実だけで形成されることが難しいということ
芸術や他者の経験談や物語による類比によって
すなわち記憶を形成する者
想起する者にとっては
虚偽である事柄によって
確固たる記憶を形成したり
想起なさしめられるという
わたしの見解にアナロジックにつながるように思われる
不純物があると結晶化しやすいということ
化学的にみれば
結晶化する物質と不純物のあいだにエネルギー的な差異があるからなのだが
真実と虚偽のあいだの差異
これがあるために結晶化しやすいというふうに考えると
わたしたちが
芸術や文学や音楽に
たやすくこころ動かされ
感動することが容易に了解されよう
それが
わたしたちが
わたしたち自身の生をより充実したものと感じられる理由ともなっているのだ
引用とコラージュの詩学である
過冷却の液体に
物理的なショックを与えると
たちまち凝固してしまうこと
これもまた想起にたとえられるであろう
プルーストの『失われた時を求めて』の冒頭
マドレーヌと紅茶の話を思い出す
何かがきっかけになって
突発的な想起を生じさせるのだが
無意識領域で
その想起される内容が
十分にたくさん
ひしめきあって
意識領域に遷移しようと
待ち構えていたのであろう
意識領域ではそれを感知できなかったので
突発的な記憶の再生というふうに思えたのであろう
それというのも
マドレーヌと紅茶をいっしょに口にしていたことは
それまでにもたびたびあったのであろうから
なぜ、わたしたちの言述が連続するとあいまいになるのか
言明命題について考える
すべての型の言述について考察することは不可能である
またすべての言述が命題的な言述とはかぎらず
論理で扱える範囲には限界があり
命題的な言述以外のものについては
個々の例で差異がはなはだしく
まとめて語ることは不可能なので
ここでは命題的な言述に限ることにする
また話をもっともシンプルにするため
もっとも論理的な言明命題について考察する
しかも
その命題が真のときに限ることにする
現実の言述は真なるものばかりとは限らないのであるが
真でない命題は現実の会話では始終交わされるのであるが
真でない命題からは矛盾が噴出するので
論理展開には適さないため
ここでは除外する
さて
pならばqという命題が真なるとき
pはqであるための必要条件であり
pという条件を満たす集合をP
qという条件を満たす集合をQとすると
PはQに包含される
このとき
もとの命題の逆
qならばpも真の命題であるなら
P=Qで
PとQは同値なのだが
qならばpが真でないならば
pという条件から出発してqについて言述した場合
qの条件は満たすがpの条件を満たさない事柄について
述べてしまうことになる
例をあげよう
ソクラテスは人間である
この言明命題を連続的に行なうとどうなるか
ソクラテスは人間である
人間は生物である
この二つの命題を合わせると
また一つの真なる言明命題ができあがるのだが
わたしたちが言葉を重ねれば重ねるほど
言述があいまいになるような印象を受けるのは
論理的に当然のことであるのがわかる
精密に語れば語るほど
言述の対象があいまいになるというのは
したがって
ごくあたりまえのことなのである

わたしは
詩をつくるとき
それを利用する
わたしが
言明命題的な言述が
とても好きな理由は
それに尽きると言ってもよい


対偶
それらの否定



対偶
の否定の否定
ヴァリエーションは無限である
もちろん
言明命題的な言述のみに限らず
あらゆる言述の組合せは可能で
それの組合せが
芸術作品を成り立たせているのであるが
この記述は
もっともシンプルな系についてのみ語っている
なぜ
わたしたちの言述は
精密に語ろうとすると
あいまいになるのか
当然なのよ
ということ
言述にあいまいさを与えないでおくには
必要条件かつ十分条件になるように
言述すればいいのだけど
それは同一律を守りながら
ということになるので
結局のところ
同語反復にならざるを得ない
しかし
文学は同語反復でさえ
いや
文学に限らない
視覚芸術も
音楽も
反復が
さまざまな効果をもたらすことは
よく知られている
薔薇は薔薇であり薔薇であり薔薇であり薔薇であり
うううん
まあ
ぼくはいまのところ
ぼく自身を追いつめることにしか興味がないみたいだ
言語実験工房主宰で
京都に
詩人の Michael Farrell 氏を招いたとき
とても基本的なことを彼に訊いてみた
あなたはなぜ詩を書いているのですか
という質問に
詩人がとまどっていた
あるいは
John Mateer 氏だったかしら
あなたはなぜ詩を書いているのですか
という質問に
詩人がとまどっていた
わたしはつねになぜ自分が書いているのか考えて生きているので
とまどう詩人を見て驚いた
わたしとはいったい何か
何がわたしなのか
何がわたしとなるのか
何がわたしを構成しているのか
わたしはどこにいるのか
どこがわたしなのか
どこからわたしなのか
わたしはいつ存在しているのか
いつ存在がわたしになるのか
とても基本的なことを
つねに
わたし自身に問いかけている
絶対的に知りたいのだ
絶対的に知りえないことを
詩で
わたしは
わたし自身に問いかける
わたしはそれに答えることはできないのだけれど
つねに
わたしは
わたし自身に問いかける
わたしとはいったい何か
何がわたしなのか
何がわたしとなるのか
何がわたしを構成しているのか
わたしはどこにいるのか
どこがわたしなのか
どこからわたしなのか
わたしはいつ存在しているのか
いつ存在がわたしになるのか
とても基本的なことを
詩人がなぜ詩を書いているのか
たずねられてとまどう詩人の姿に
わたしのほうがとまどってしまった

二〇一七年十三月七日 「失われた突起を求めて」

クリストファー
フトシ
ムルム
守ってあげたい
マンドレ

ふさわしい
いまわしい


二〇一七年十三月八日 「ドクター」


後頭部を殴られる
気を失う
詩人の経験を経験する
詩人が橋の上から身を投げる
詩人は河川敷のベンチに坐りながら
自分が橋の上から身を投げるシーンを目にする
うつぶせになって自分の死体が上流から流れてくるのを見つめる
橋の上から身を投げる直前に
橋の上からベンチに坐った自分が自分を見つめる自分を見る
上流から流れてくる自分の死体を見る
冷たい水のなかで目をさます
それが詩人の詩の世界であることに気づく
詩人の目を通してものを見ていたことに気づく
橋の上からベンチを見下ろすと
自分自身がベンチの上で
寝かされているのを見る
「こんどは
 わたしが介抱してあげよう」
目をあけると以前助けたドクターが
自分の顔を見下ろしていた
「あいつらだよ
 きみも狙われたのだね」
後頭部に触れると濡れていた
血だろうか
「その傷の大きさだと縫わなければ
 消毒も必要だ
 わたしのところにきなさい」
ドクターに支えられて
河川敷の砂利道を歩いた


二〇一七年十三月九日 「詩」


言葉は
形象から形象へ
言葉は
形象から形象へ

詩は
個から個へ
詩は
個から個へ

という
感じだろうか
結局のところね
ほかの芸術はたとえば
舞台や
映画や
演奏会は
ただひとりのために
という感じじゃないけど
詩は
なぜだかしらん
個から個へ
って感じね
対象は
個じゃなくてもね


二〇一七年十三月十日 「父」


今年の4月に
わたしの父が死んだのだが
父は食道楽だった
食い意地がはっていたと言ってもよい
週に一度の外食は
四条河原町の「つくも」という
ニュー・キョートビルと言ったかな
いまはない店で
高島屋の向かいのビルの9階の和食の店や
京極の「キムラ」のすき焼き屋や
「かに道楽」など
そういった庶民的な店ばかりだったのだが
そこらで食事をしたことが思い出される
金魚に目がとまるわたしである

わたしの父親は一生のあいだ
道楽者だったのであるが
なかでも鯉には目がなかった
わたしは父親のことが大嫌いだったので
いかなる生きている動物も嫌いなのであるが
金魚には目がないのである
嫌なことだが遺伝であろうか


二〇一七年十三月十一日 「うんこたれのおじいちゃん」


ふん
また
いやな顔をしくさった
この嫁は
やっぱりあかんわ
わしが
わざとうんこをたれて
ためしてやったのに
やっぱり
あつすけは
カスつかみよったわ
「すまんなあ
 すまんなあ」
けっ
なんや
このブスが
返事ひとつ
でけへんのかいな
鼻の上にしわよせよってからに
ええい
しゃらくせいわい

いっぱつ
ひり出したろかい
ブッ
ブリブリ
ブッスーン
ブリブリ
けへっ
「すまんなあ
 すまんなあ」
けへっ


二〇一七年十三月十二日 「地球を削除する。」


対称変換その他の修正

水面を対称面にして
空と海を変換移動させる

そのとき
空中に存在している鳥だけは動かさない

そのとき
海中に存在している魚だけは動かさない

キルケゴールを対称の中心として
スピノザとニーチェを変換移動させる

『三四郎』を対称の中心ととして
『吾輩は猫である』と『明暗』を
変換移動させる

地上に存在する詩や小説や戯曲に書かれた
すべての形容詞・副詞の意味を反対語に置き換え
肯定文を否定文に書き換え
否定文を疑問文に書き換え
疑問文を肯定文に書き換え
そのほかの文は削除する

それがすべて終わったら
地球を削除する

そしたら
あとは

裸にされて

ほな
さいなら


二〇一七年十三月十三日 「苦痛を排除した世界」


こころのなかにあるわたしではないもの
わたしではないと感じられるもの
わたしではないと思いたいもの
さまざまなものが
わたしのなかにありますが
そのわたしではないと思わせるものが
ときには、わたしそのものであると思われるときがありますね。
苦痛は、もっともはっきりと
人間の意識を振り向かせるものですが
その苦痛の原因があるからこそ
わたしたちには
意識が発生したのではないか
と思われるときがあります。

苦痛を排除した世界は
もしかしたら
意識のない世界かもしれませんね。


二〇一七年十三月十四日 「きょうは、ニュースのカメラマンの方の肩をもんでいました、笑。」


きょうは、ニュースのカメラマンの方の肩をもんでいました、笑。
妻子餅で

妻子持ちで
しかも、友だちと
夜中まで遊びまくっているという
でも、バイでもゲイでもなく
ストレートの人ですが
なんか笑っちゃいます。
ぼくの感覚がおかしいのかなあ。
ぼくなんか
だれとでもできちゃう感覚持ってて
だれとでもいいんだけど、笑。
その人も、セックス抜きなら
だれといっしょにいても楽しいという肩でした。

方ね。
ぼくも、基本がそうね。
だれといても楽しいのね、笑。
これって、おかしいかなあ。
まあ、いいか。
太郎ちゃんのところに原稿送ったし
追い込まれたら、自我が最高度に働くので
いつも、締め切りぎりぎり。
綱渡りの人生だわ。
制御できてるのが不思議だけど。


二〇一七年十三月十五日 「えいちゃん」


画像は生まれたばかりの双子ちゃんと、ひとつきくらい前の画像かな。
かわいいっしょ?


二〇一七年十三月十六日 「雑感」


同じことを語ることで、同じことを頭に思い浮かべることによって
映像が、そのときの記憶よりも鮮明に見えるということを
だれかが書いていたように思います。
同じこと、同じ経験、同じ映像でも
そのときには、見落としていたこともあるでしょうし
いまの自分からみるとそのときの自分からは見えなかったものが
見えたりするということがあると思うのですが
意味の捉えなおし、修正ということもあると思います。

丹念に自分のひとつひとつの記憶をたどること。
これまた、若いとき以上にじっくりと取り組める事柄だと
ぼくなどは、同じ話を何度も語りなおすタイプなので
そう考えています。(我田引水気味でしょうが。)

そういうふうに同じことを語りなおすことによって
思い浮かべなおすことによって
いまの自分が、自分の気持ちが、生活が
新しい目で眺められるようになって
豊かになったような気がすることがあります。

齢をとって、いいことの一つですね。
そういう豊かさを持つことが出来るのは。
時間を隔てて眺める
その時間が必要なのですね。
その時間に自分も変わっていなくてはなりませんが。

自分自身へのご褒美、紙ジャケCD 2枚!
数日前に書いた原稿が2つとも、自分ではよい出来だと思えたので、笑。

あがた森魚ちゃんの『バンドネオンの豹と青猫』
アランパーソンズ・プロジェクトの『運命の切り札』
これまた、むかし、両方とも持ってたのね。
お金に困って売ったCDたちのなかに入ってて
いまもう手に入らないCDもたくさん売ったから
つらいけど
こうして復刻されるってことは
ボーナス・トラックもついてるしね、
いいことかもしれない。
リマスターだから音もいいしね。

しかし、カルメン・マキの
セカンドは、もとの音源に傷がついていて
「閉ざされた町」という傑作が、もうほんとにねえ
状態ですが
まあ、いつか、その傷も修正されたものが復刻されるでしょう。
いま
あがたちゃんのCDを聴いて癒されています。
組曲ね。
なつかしい
しんみり。
森魚ちゃん、天才!

ここで、マイミクの都市魚さんからコメントが。

カルメン・マキはファースト以外は紙ジャケ持ってます。ベースが代わったセカンドからの方が有名なファーストよりカッコいいですよね(笑)。
森魚さんは赤色エレジーが入ったのしかCD持ってないです。もちろん紙ではありません。

ぼくのお返事。

あがたちゃんのこれは、おされです。
カルメン・マキは
ぼくの青春時代の思い出です。
知り合いの方にライブのチケット
ゼロ番のものをもらったことがあります。
東山丸太町、熊野神社の前を東にむかって横断歩道を渡って
数十メートルのところにあるザック・バランでのライブね。
5Xのころかしら。
かっちよかったです。
みんながあまりのってなかったのかしら。
ジンをマキが口に含んで
それを観客の上に
「みんなもっとのれよ!」
といって
プハーッ
って吹き出したこと
いまでも鮮明に覚えています。


二〇一七年十三月十七日 「幸せの上に小幸せをのせたら」


幸せの上に小幸せをのせて
その小幸せの上に微小幸せをのせて
そのまた微小幸せの上に極微小幸せをのせたら
みなこけて、粉々に砕けて、ガラスの破片のように
ギザギザに先のとがった危ない怖い小さな幸せになりましたとさ。

おじさんの上に小さいおじさんをのせて
その小さいおじさんの上にさらに小さいおじさんをのせて
またまたさらにさらに小さいおじさんをのせても
サーカスの演技だったので、まったく普通の拍手ものだったわさ。

おばさんの上に大きいおばさんをのせて
その大きいおばさんの上にさらに大きいおばさんをのせたら
そのさらに大きなおばさんの上にもっともっと大きなおばさんがのる前に
おばさん同士の格闘技がはじまって、髪の毛ひっつかまえて振り回したり
張り倒して蹴り上げたり、壁に押し付けて頭ごんごんしたりしてさ。
血まみれのおばさんたちが大声で罵倒し合いながら喧嘩してたってさ。

ケーキの上に小さいケーキをのせて
その小さいケーキの上にさらに小さいケーキをのせて
そのさらに小さいケーキの上にもっと小さいケーキをのせたって
ふつうのウエディング・ケーキだべさ。
ちっとも面白くねえ。

真ん中の上に端っこをのせて
その端っこの上に小さい真ん中をのせて
その小さい端っこの上にさらに小さな真ん中をのせても
べつにバランスは崩さないかもしんないね。
上手にやればね、まあ、わかんないけど。

やさしさの上に小さいやさしさをのせて
その小さいやさしさの上にさらに小さいやさしさをのせて
そのさらに小さいやさしさの上にもっと小さいやさしさをのせても
だれも気づかないわさ、こんな世間だもの。
どいつもこいつも、感受性、かすれちまってるわさ。

お餅の上に小さいお餅をのせて
その小さいお餅の上にさらに小さいお餅をのせて
そのさらに小さいお餅の上にもっと小さいお餅をのせて
昆布と干し柿とミカンをのせれば正月だわさ。
わたしゃ、嫌でも、48歳になるわさ。
1月生まれだもの。
ああ、でも、ぼくの上にかわいいぼくがのって
そのかわいいぼくの上にさらにかわいいぼくがのって
そのさらにかわいいぼくの上にもっともっとかわいいぼくがのったら
重たくてたまらないでしょ、そんなの。
ぜったいイヤよ。イヤ~よ。
いくら、自分のことが好きなぼくでもさ。
おやちゅみ。
おやちゅみだけがチン生さ。
ブリブリ。
ピー。
スカスカ。


二〇一七年十三月十八日 「アポリネール」


お風呂につかりながら読むための源氏物語。 
上下巻 105円×2=210円
与謝野さんの訳ね。
風呂場でないと
たぶん一生
読まないと思うから、笑。
それと世界詩集
いろんな全集の世界詩集を集めてる
これまた持ってるのと重複しまくりだろうけれど
重複しないのもあるしね
これは200円やった。

偶然できたしみです。
いま、コーヒー・カップの下の
あ、テーブルの下のほうにメモ代わりにしていた
本から切り取ったもの(白いページをメモ代わりに
本から切り取るのです。)手にしたら
めっちゃきれいだったので
記念に写真を撮りました。
輪郭とか眺めても
とてもうつくしいので、びっくりしています。
作為のまったくないものの線
線のうつくしさに驚いています。

そうそう
きょう買った世界詩集の月報にあった
アポリネールの話は面白かった。
アポリネールが恋人と友だちと食事をしているときに
彼が恋人と口げんかをして
彼が部屋のなかに入って出てこなくなったことがあって
それで、友だちが食事をしていたら
彼が部屋から出てきて
テーブルの上を眺め渡してひとこと
「ぼくの豚のソーセージを食べたな!」
ですって。


二〇一七年十三月十九日 「新型エイリアン侵入」


これまでにも、人間そっくりのエイリアンが多数、人間社会に侵入していたが
今月になって、また別の種類のエイリアンが人間社会に侵入していることが判明した。
特徴は、人間そっくりであることで、他人に対する思いやりに欠け
平気で、人の話をさえぎる自分勝手さも持ち合わせており
猜疑心だけは、ものすごく発達させている、サイコチックなところのあるエイリアン。
人間との見分け方は、匂いにある。 エイリアンの身体は、オーデコロンのエゴイストの香りがする。


二〇一七年十三月二十日 「考えると、」


内部しかないものが存在するか。
いま、膝の痛みをやわらげるために
お風呂に入ってたんだけど
そんなこと考えちゃって
内部しかないもの
外部しかないもの
内部も外部もないもの
なんて考えてた

光量子
なんてものは、どうなんかな
概念もね
宇宙は閉じてるとして見ると
内部だけでできているのですね。
そうであろうか、と自分に問いかけて
答えに窮しています。
うううん。
境界についての議論もできますね。
また数学的には
集合ではなく領域の問題としても
境界について、議論できそうです。
全体集合の補集合が空集合になり
空集合の補集合が全体集合になるというところ
それはそう定義するしかないと思いますが
(そう定義すると、記号処理が簡単になりますから)
ぼくには大いに疑問です。
むかし、同人誌に
そのことについて書いたことがありますが
まだ自己解決しておりません。
膜には内部も外部もないですね。
表と裏
ですね。
しかし、
膜自体の物質性あるいは容積性に着目すると
内部と外部が存在するわけです。
無限に延長された膜を考えるとしても。
ただ無限という概念をつかって
外挿すると、さまざまなものの性質が
概念が、ですが
無限特有のパラドックスを生ぜしめるような気がします。
ううううん。
内部とが部に分けるときに
問題なのは
境界なのですが
境界が存在するかどうかも問題です。
厚みのない幕というものを
概念的に想像することはできます。
あるいは

光量子を幕にした場合
などなど
考えてみると
とても議論の尽きないところにまでいってしまうような気がします。
行ってもいいと思いますが
際限がなく
ああ
しかし
面白い。
つまり境界がなく
外部と内部が存在するか
などなどもですね。
面白い。
どなたか
さまざまな例を挙げて
お話ください。
たぶん
無限の概念を含むものとなるでしょうから
それは知の限界をも示す考察ともなるでしょう。
たぶん、笑。
大袈裟だけどね。
大風呂敷広げて議論するのも
たまにはいいんじゃない?


二〇一七年十三月二十一日 「バロウズ」


バロウズの個展用のカタログ集 PORTS OF ENTRY 到着しました。
きれい。
バロウズはポオが好きだったのね。
ぼくも好き。
あと
セゾン美術館から出てる画集を買えば、コレクション終わりね。
ぼくも
コラージュ絵画や、ふつうの絵を描いていこう。


二〇一七年十三月二十二日 「A・A・ミルン」


A・A・ミルンの『赤い館の秘密』 105円
クマのプーさんのミルンの推理小説。
ユリイカの『クマのプーさん』特集号に
コラージュ詩を書いたんだけど
プーさんをモチーフに
これから、コラージュ詩をたくさん集めて
詩集をつくりたいので
その材料に。

あんまりお目にかからない本なので
ついつい。

これから、インスタントの日清焼そばの晩ご飯を。
ししとうと、おくらを買ってあるので
どちらもサービス品コーナーで
ひとふくろ、20円と30円のものね
それを焼いて
玉子焼きを上にのっける予定。
おいしそう、笑。


二〇一七年十三月二十三日 「人間の基準」


人間の基準は100までなのね。
むかし
ユニクロでズボンを買おうと思って
買いに行ったら
「ヒップが100センチまでのものしかないです。」
と言われて
人間の基準って
ヒップ 100センチ
なのね
って思った。
って
ジミーちゃんに電話で
いま言ったら
「ユニクロの基準でしょ。」
って言われた。
たしかにぃ。
しかし
ズボンって言い方も
ジジイだわ。
アメリカでは
パンツ
でも
パンツって言ったら
アンダーウェアのパンツを思い浮かべちゃうんだけど
若い子が聞いたら
軽蔑されそう。
まっ
軽蔑されてもいいんだけどねえ、笑。


二〇一七年十三月二十四日 「バロウズ」


バロウズの『トルネイド・アレイ』読了しました。
バロウズの詩と、短篇がいくつか。
ときおり光る箇所があるていどの作品集。
しかし、訳者の後書きと
ものすごく長いくだらない解説文は不愉快きわまるものだった。
ゴミのような文章で
ゴミのような論を展開していた。
こんなクズが書き物をしていてもいいのかしら
と思うぐらいくだらなかった。
バロウズの作品だけでいいのよ
収録するのは。
と思った。


二〇一七年十三月二十五日 「浮気」


むかし読んだ詩誌月評かな、それの思い出を、ひとつ。
ある詩人が
名前は忘れちゃったけど
「嫁が家を出て行って
 悲しい~」
なんて書かれても、だったかな
それとも、ギターを爪弾きながら
叫ぶように歌われても
だったかな
そんなことには、ぜんぜん何も感じないけど
ってなこと書いてたことがあって
ぼくなら、そんな詩?
それとも歌かな
そんなの読んだり聴いたりしたら、めっちゃ喜ぶのに
と思ったことがある。
現実の生活のことが、ぼくには、とても脅威なのだ。
考えられないことが毎日のように起こっているのだ。
そう感じるぼくがいるのだ。
だから、退屈しない。
毎日が綱渡り
驚きの連続なのだ。
嫁が家を出て行く? 
なんて、すごいことなんだ。
ぼくは
自分の食べているご飯の米粒が
テーブルの下に落ちただけでも
ぎょええっ
って驚く人間なのだ。
毎日が脅威と奇跡の連続なのだ。
きょう
ぼくの小人の住んでるところがばれそうになった。
あ、小人と違って
恋人
いや、恋人と違って
浮気相手だから、愛人かな。
気をつけねば。

浮気っていえば
前に務めていた予備校で
浮気をしたことありますか
って女の子に訊かれて
ちょっと躊躇したけど
嘘言うのヤダから
あるよ
と言ったら、それまで
ぼくに好意を寄せてくれていたその子が
それから、ぼくを軽蔑するような目つきで見るようになって
口もきいてくれなくなって
びっくりしたことがある。


二〇一七年十三月二十六日 「ゆりの花のめしべ」


何度も書くけど
少年のものは
ゆりの花のめしべのような
おちんちんだった。
ゆりの花のめしべは
おちんちんのような形をしていて
なめたことがあった
ぬれていた
おんなじような味がした
タカヒロくん
愛人のほうね、笑。
大学院時代に付き合ってた20歳の恋人と同じ名前で
彼は34歳の野球青年だけど。
いやなたとえだけど
演歌歌手の山本譲二(次?)
に似てるんだよね。
男前と言うより
男っぽい感じ。
5年の付き合いになる恋人は
そうね
ぼくにはかわいいけど
出川哲夫みたいなの。
ぼくにはかわいいけど
出川哲夫
うふ~ん
なんだか、切ないわ~


二〇一七年十三月二十七日 「地獄」


これ、睡眠薬飲んで書いたみたい。
記憶にないフレーズが入ってる。
何度も書くけど
少年のものは
ゆりの花のめしべのような
おちんちんだった。
ってところ。

少年じゃなくて
青年ね。
豆タンクって呼ばれてることを
あとで知ったのだけれど
メガネをかけた小太りの
かわいい青年だった。
若いころの林家こぶ平そっくりだった。
いまのコブ平は、目がきつくなっちゃったね。
きっとイヤな目にあったんだろうと思う。
人間って、地獄を見ると、顔が変わるもの。


二〇一七年十三月二十八日 「過去のやりとり」


すると、frogriefさんから

あつすけ様

詩語が問題、ですか。

ぼくが40代に入って、ようやく気付いたのは、ぼくは、「シュールレアリスムの手法を
用いた抒情詩」が書きたい、それを書くことが、ぼくのライフワークなのだ、ということ
でした。
ぼくの詩の第1の読者はぼくなのですから、そのVIPのリクエスト、となれば仕方が
ありません。

詩語に溺れていない、「管理された詩語」を、用いて書いている、との自負はあるの
ですが、どうでしょう?

ぼくのお返事です。

frogrietさんへ
ぼくが、詩語という場合
なんだろうなあ

たぶん、こういう意味に使ってると思うんだけど
自分の経験なり、考えたり思ったり感じたりしたことを
言葉にしよとする際に
その経験や考えや感じを表わしてくれる言葉が見つかったとしましょう
その言葉が見つかったのです
しかし
じつは
その言葉は
たくさんの人間の、あなたに似た「経験」や「考え」や「感じ」を
すでに、表わしてきたものなのですね。
したがって
じつは
あなたが
さがしいていた、求めていた、出会いたがっていたその言葉は
あなたとの出会いが、はじめてのものではなかったのですね。
言葉のほうから見ますとね。
言葉のほうから見て
あなたの形成しようとしている言語世界は
はじめて出遭う言語世界ではなかったというわけなのです。
これが
詩語の問題と、ぼくは言っていると思います。

frogrietさん
あなたばかりではなく
ほとんどすべての書き手が
言語のほうから見て
新鮮な出会いをしていないと思います。
シュールレアリスムは
たしかに言語にとって豊穣なものであったでしょう。
過去においては
です。
しかし
シュールが、もはやシュールでなくなったいま
SF的な現実と、仮想社会(来年の6月に日本で発表されるそうです。
きょう、関係者の方に直接、聞きました。現実ともリンクしたもので
そのバーチャルの世界で儲けたお金を、現実世界で換金できるそうです。
日本地図が入っていて、京都にある地下鉄のように地下鉄があって
乗り物に乗ればお金がかかるし、だけど、そこで買った服を
現実世界でも発注できたりするそうです。
またそこでは、たとえば、現実世界では足の不自由なひとが、不自由でなくなって
その不自由さのない生活をして、という仮想社会だそうです。
イーガンの描くSFそのものですね。)
のもとでは
シュールレアリスムは
言語にとって、もはや、それほど新鮮な出遭いではなくなっていると思います。
ぼくも、ぼくのことをモダニストで、シュールレアリストであると思っていますが
同時に、古典主義者でもあり
さまざまな異なる範疇で、さまざまなものであり
さまざまなものでありたいとも思っています。
大事なのは
個人の経験でありますが
個人にとってはね
また人間世界全体としてもね
でも、わたしたちが詩人であるというのなら
個人の経験などは、じつは、どうでもよいのです。
書き手の考えたことや感じたことそのものには
言語自体は興味があるとは思いません。
言語が興味があるのは、個人が経験した経験とともに
それを語る語り方であり
考えたこととともに、それを語る語り方であり
感じたこととともに、それを語る語り方であると思います。
大事なことは、言語にとって
言語自体が目が覚めるような
驚くべき経験をさせることなのであって
そういう経験は
言語の側から見て
語と語が、どういう結びつき方をしているか
言葉たちがどういうふうに使われているか
文脈がどういうふうに形成されているか
作品として、どういうふうにパッケージされているか
によると思います。
(パッケージとは、詩集としてとか、同人誌としてとか、雑誌としてとかです。)
詩語が
拘束するのは
わたしたちの経験ではなくて
わたしたちの経験を語る語り方なのですから
わたしたちが詩人と言うのなら
そのことに気をつけないといけないと思います。
そのことについて十分に配慮できていないということにおいて
ほとんどの詩人は
詩語に拘束されていると言えるでしょう。

ぼくがすぐ右に書いたような内容のことは
象徴派の詩人や思想家が、すでに書いていることですが
たとえば
ポオ、マラルメ、エマソン、などなど
ぼくの詩論詩集にも、何度も繰り返していることですが
彼らの書いているように
言葉がすべてなのですから
いくら言葉に注意しても、し足りないのだと思っています。
それには
現実の経験もさることながら
言語世界での経験も勉強になりますね。
ぼくは
もうじき48歳になります。
頭がぼけるまで
あと数十年しか残されていません。
こんな作品を書いたぞ
っていう作品を
これからも書いていきたいと思っています。
と思って
いまからクスリをのんで寝ます。


二〇一七年十三月二十九日 「雨」


きょう、雨で
大事な本をぬらしてしまった。
リュックのなかにまで
雨がしみるって思ってなかったから。

奇想コレクション イーガンの「TAP」 買いました。かわいい。
表紙がかわいくて
いいね。
イーガンは
大好きなSF作家。
読むのが楽しみ。

きょう、大雨で
リュックに入ってた
バロウズの『ダッチ・シュルツ 最後のことば』が
ぬれてしまった。

リュックにいれてたのに
ずぶぬれ~。

まあ、よりよい状態のものを本棚に飾ってあるから
そんなにショックじゃないけど
いや
やっぱりショックか

まあ
本の物々交換に
悪い状態だけどって
いうことにして出しますわ。
くやしい。
雨め!


二〇一七年十三月三十日 「ガムラン奏者の方」


いつもの居酒屋さんで、きょうはガムラン奏者の方とおしゃべりを。
料理長の知り合いの方らしく
音楽の話をしていました。
そんなにディープな話ではなかったけれど
むかし
ぼくが付き合っていた作曲家のことを思い出していた。
タンタン
というあだ名を、ぼくがつけたのだけれど
パク・ヨンハそっくりでした、笑。
太った
パク・ヨンハかな、笑。


二〇一七年十三月三十一日 「記憶」


 映画を見たり、本を読んだりしているときに、まるで自分がほんとうに体験しているかのように感じることがある。ときには、その映画や本にこころから共感して、自分の生の実感をより強く感じたりすることがある。自分のじっさいの体験ではないのに、である。これは事実に反している。矛盾している。しかし、この矛盾こそが、意識領域のみならず無意識領域をも含めて、わたしたちの内部にあるさまざまな記憶を刺激し、その感覚や思考を促し、まるで自分がほんとうに体験しているかのように感じさせるほどに想像力を沸き立たせたり、生の実感をより強く感じさせるほどに強烈な感動を与えるものとなっているのであろう。イエス・キリストの言葉が、わたしたちにすさまじい影響力を持っているというのも、イエス・キリストによる復活やいくつもの奇跡が信じ難いことだからこそなのではないだろうか。


 まさに理解不能な世界こそ──その不合理な周縁ばかりでなく、おそらくその中心においても──意志が力を発揮すべき対象であり、成熟に至る力なのであった。
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

物がいつ物でなくなるのだろうか?
(R・ゼラズニイ&F・セイバーヘーゲン『コイルズ』10、岡部宏之訳)

人間と結びつくと人間になる。
(川端康成『たんぽぽ』)

物質ではあるが、いつか精神に昇華するもの。
(ウィリアム・ピーター・ブラッティ『エクソシスト』プロローグ、宇野利泰訳)

書きつけることによって、それが現実のものとなる
(エルヴェ・ギベール『ぼくの命を救ってくれなかった友へ』75、佐宗鈴夫訳)

 言葉ができると、言葉にともなつて、その言葉を形や話にあらはすものが、いろいろ生まれて來る
(川端康成『たんぽぽ』)

おかしいわ。
(ウィリアム・ピーター・ブラッティ『エクソシスト』プロローグ、宇野利泰訳)

どうしてこんなところに?
(コードウェイナー・スミス『西欧科学はすばらしい』伊藤典夫訳)

新しい石を手に入れる。
(R・A・ラファティ『つぎの岩につづく』浅倉久志訳)

それをならべかえる
(カール・ジャコビ『水槽』中村能三訳)









自由詩 詩の日めくり 二〇一七年十三月一日─三十一日 Copyright 田中宏輔 2021-10-11 05:25:25
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