山の中の孤独
山人

 八月十五日、登山道の除草を開始した。四カ所の登山道コースを一人で受け持っている。トータル十日以上はかかるだろう。
 人は「大変ですね」と言う。しかし、大変なことなど何一つない。思い悩むことはないし、他者に頭を下げる必要もない。上司の顔色をうかがう必要もない。重い荷を背負い、所定位置から草を刈り始めるだけで良いし、ゴールまで刈ればよいだけだ。
 何が厭かと言えば、孤独の中にいると言うことだろう。朝、車に乗り込む瞬間から孤独は始まる。現場に着き、それぞれの道具ですらも孤独であり、孤独一式を一個のザックに詰め込んで歩きはじめる。スパイク長靴のザリッという摩擦音ですら孤独を演出してくれる。
 単調な作業は、頭の中に様々な思考を呼ぶ。脳とは勝手なものだ。何か特定のものについて、思考しようとしなくても、勝手に次から次へ出てくる。掛け流し温泉のように次から次へと湧き出てくる。思考は止まることがない。脳とは誰なのか?ろくな機能しかないのに、こんな時だけせっせと働く、ふざけた脳だ。私の孤独を慰めるために、脳は何かをわざわざ思考させるというのか。ご苦労なことだがいい加減うんざりしてくる。
 さっきからどれだけ働いているのだろう。単調なエンジン音と背中のザックの重みが脳内を粘る。腕時計を見る。未だ一時間半しか作業していない。あと三〇分頑張る。二時間。刈り払い機とベルト、ザックを投げ下ろし、濁音の入った声で息を吐く。ヘルメット、虫除けおよび防塵ネットを取り、薄くなった頭髪を掻き上げる。防水手帳に作業記録を書く。喉を鳴らしながら水を飲む。
 こんな貴重なくつろぎの瞬間に害虫は吸血しに来る。一匹のアブを仕留める。ブチッと頭部の破壊を知らせる音とともに、アブは絶命する。自らの生命を顧みず、害虫は玉砕覚悟で吸血しにやってきている。生命の危機と言うよりも、本能。それはどうしようもない勝手な思考を増産する私の脳にも似ている。少なくとも私はアブに産まれてこなかっただけましなのだろうか?それと引き換えに孤独を味わえというのだろうか。
 私の作業を監督する者も、指示する者もいない。しかし、休憩を済ませた私には、再び作業を行えと私が指令する。装備を整え、またはじめるか、と私に言う。
 作業を終え、道具とガタガタな体を運転席に投げ出し、車を運転するときに、私の孤独は解放される。唇からゆるい吐露が流れ出て、それが疲れ切った私の全身をマッサージする。


散文(批評随筆小説等) 山の中の孤独 Copyright 山人 2021-08-17 21:27:37
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