おまえがアーメンとは言えないものを
ただのみきや

記憶の黒点だった
太陽の鏡の目蓋の中で
ある者は熱に歪み
ある者は乾いて燃え上り
誰もが己の影に憩いを求めては
その微かな流れの干上がる時を待っていた
わたしは 光を青く投げ返す黒蝶が
川面を舞うのを見た
ゆっくりと 何度も行き巡り
やがて水辺へおり羽根を立てたまま渇きをいやし
再び ゆらめく大気の中へ消えて行くのを
おそらくはそのようにわたしたちも
ひとつの滅び行く夢から
そっと旅立つのだ


図書館では鰐が放し飼いにされていた
少女たちの間では自分の靴下を脱いで
鰐のペニスに被せる遊びが流行っていた
鰐はとてもおとなしく事故はめったに起こらなかった
鰐の背には梔子くちなしが植えられていた
清楚だがあまりに甘く供養には不向きだと言いながら
通い詰める老人たちは合掌する時いつも
掌の汗に淫靡な電流を感じていた
時には意識下の欲求がたけのこみたいに突き出して
捻じれながらのたうって本棚を倒すこともあった
それでもなお老人たちは体裁をつくろい
新聞の中からある種のたくらみを読み出して
顔の皺をいっそう深くした
そんな彼らの足元を梔子鰐はゆっくりと散歩するのだ


勉強以外の理由でたむろしている学生もいた
特にある種の文学には依存性があって
周囲に退廃的なガスを発散し
多くの学生が詩人や小説家の夢に浸っていた
そんな学生たちは本棚の陰や本の中で活字に化けて
むつみ合い沢山の紙魚を生み落とした
すでに文字の数と紙魚の数は拮抗し
中には文字に擬態した紙魚ばかりの本もあった
内容は変わらないのに読む者の心に感応して
紙魚たちは身をよじり暗黙を膨らませる
「紙魚の仕業なのに記憶の誤謬だと勘違いする人もいます」
笑った司書の眼からはゴキブリ大の紙魚がこぼれていた


性が未分のままズッキーニのように成長したXは
真っ赤な鳩の卵をひとつ割ってコクっと飲んだ
瑞々しい歴史の睦言に頭皮の毛穴も開く思いがした
だが芽吹いたばかりの破壊衝動が実を結ぶには
まだまだ時間を要していた
Xは何年も本の森をさまよっていた
ある日通りかかった梔子鰐くちなしわにの頭の上に一通の
手紙があるのに気付いてこっそり拾って読んだ
するとそれはX宛ての恋文で
想いは切々と三十一音で歌われていた
Xは自分がガラス瓶で
冷たい体液が下方へ溜まって行くのを感じた
それは死んだ母親からの手紙であり
母の自分に対する愛欲の赤裸々な訴えだった
太陽の銀をした蛇が脳膜を滑る
(自分とは何か)振り向いた途端
Xは塩の柱になった
だが本当は塩の壺を骨壺みたいに愛撫する
一人の老年になっていた
老人は記憶を擦る
ロト6を擦るように毎日毎日擦っている


ヘリコプターの笑い声がする
( よ回帰せよ回帰せよ回帰せ )


鰐にからみついた蜘蛛の巣をていねいに取りのぞく
清掃夫の背後に 一人の少女が近づいて来る
少女の黒い靴下は片方なくすでに鰐のものだ
少女は清掃夫の首をそっと真綿で絞め始める
それはゆっくりとだが確実に酸欠をもたらし
清掃夫は朦朧と白い世界をさまよっていた
結晶したウユニ塩湖
かねてからの憧れの場所
気がつくと清掃夫の前にも後ろにも首のない死体が
延々と続いて行進していた
清掃夫はそっと自分の頭に触れて確認してみた
(大丈夫まだついている)
死者と共に行進すれば行きつくところは知れている
塩の上を行く一直線の行列から直角に
清掃夫は曲らない鉄砲玉のように飛び出した
激しい照り返しの中を必死に走ったが
ひどくゆっくりのようにも感じていた
やがて立ち止まり 振り返ると
首無しの行進はもう見えなかった
(――やった! )
先へ行こうと向き直った刹那
なにかが閃いて辺りが反転した


Yの半生は予行練習だった
五寸釘はいつもポケットに入っていたが
時計はいつも指してはいけない場所を示した
とっくに釘は錆びていてカラメルの匂いがした
Yは母親に猿ぐつわをはめたまま
冬の花壇に埋めていた
春には母親は無言のまま色とりどりの花となり
蝶や蜂で受粉して鉛色の種子を身ごもっていた
Yはそれを何粒も食べて幻の中
母親に抱かれて乳房を吸っている
Yの半生は予行練習のまま
紙の墓石の間ある
誰かの勝手な殴り書きになった


その女はアルコール依存症で
酒が切れるとうまくページが捲れなかった
それでも女はいつも図書館にいて
いつも同じ席で本を開いていたし
時折バッグから小さな酒瓶を出して飲んでもいた
女の足元ではよく鰐が昼寝をしていた
踵に踏まれてもまったく気にはしなかった
梔子の花をひとつ摘んで食べてみる
(口無し…… 朽ち無し…… クチナシ…… )
なぜ図書館に通うのか
女にも解らなかった
惰性から依存症へ
図書館は恋のような裏切りだった
女は左目を取って一冊の本に挟む
――雑貨屋のセールで太陽が小麦粉をまき散らす
アーモンドにダイアモンドにクルミにコルク抜き
ひどい電磁波の嵐でみんな泡を吹いて――
眼孔は夜
マンドリンとファドの歌声
下着の中で蜂が死んでいる


閉館開けの図書館で少女の死体が発見された
少女の胃からはゆでたまごと未消化の詩が発見された
犯人は図書館そのものだと主張して館長は首を括り
司書たちはみな本の中に身を潜めたが
梔子鰐だけが変わらず悠々と本棚の森を散歩していた
( Water  )
鰐の鼻先で羽根を休めていた黒い蝶が飛び立った
太陽が絶叫し
   脳が笑い出す
誰かの遠投した瞬間の缶詰が命中して飽和した
  くずおれる世界から
     瑠璃色に閃き返すもの
       虹色の原罪



                   《2021年8月1日》









自由詩 おまえがアーメンとは言えないものを Copyright ただのみきや 2021-08-01 15:09:33
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