そしておそらくはそれだけが在ることにより
ホロウ・シカエルボク


それは古いコンクリート建築で、ステージを取っ払ったライブハウスか、あるいは陳列棚を置き忘れたマーケットのように見えた。俺は入口付近にぼんやりと立っていて、手ぶらだった。左手側の壁面が俺の腰の高さ辺りから腕を頭上に掲げたその指先辺りの高さまで、少々の衝撃では破壊することは不可能だろうと思わせる厚く巨大なガラスがはめ込まれていたが、その向こうにあるはずの景色はうかがい知ることは出来なかった。オープンワールドゲームのバグ空間のような奇妙な色をした虚無が広がっているばかりで、従って今が朝なのか昼なのか夜なのかすら見当をつけることが出来なかった。俺はずっとその窓を見つめていたらしい。視線を逸らし、だだっ広いスペースを眺めてみると、ちょうど真ん中辺りに棺のようなものが置かれているのに気付いた。さっきまでそんなものは存在していなかった。誰が持ち込むでもなく、屋根を突き破って落ちてきたわけでもなく、それはある瞬間に突然そこに存在していたのだ。それは、今の俺にとってそれが必要なものだということかもしれなかったし、あるいはまるで何の関係もない、それこそ世界のバグか気まぐれによって在るはずのないものが在ることになったのかもしれなかった。俺はしばらくその棺らしきものを眺めていたが、突然蓋が開いて何かが現れるというような現象は起こらなかった。まあ、だからといって、中が空っぽかどうかは開けてみなければ分からない。棺を後回しにして、壁にそって一周してみた。入口から一番遠いところに手洗い場がひとつあるだけだった。蛇口を捻ってみたが水は流れ出さなかった。水が止められている、というよりは、形式的に存在しているというだけであって、水が流れるという概念がすっぽり抜け落ちているかのような手応えの無さだった。入口に戻り、再び物言わぬ棺と対峙した。開けるしかないような気がする。もしかしたらすでに釘で止められているかもしれない、それでも絶対に開けなければならないのだろう。いってみればフラグだ。この棺に関わってなんらかの結果を出さないことにはネクストが用意されない。そんな気がした。試しに入口の自動ドアらしきものが開くかどうかみてみたが、やはりそれは開くことはなかったし、ガラス戸の向こうの景色は割愛されていた。こんな外界に出ようなんてとても思えない。棺へと歩いていく。コンクリ打ちっぱなしの冷たい床でスニーカーのソールが歯ぎしりのような音を立てる。棺を開いて、そこに花に囲まれた自分自身が横たわっていたらどうする?安物のホラー映画みたいな妄想が頭を過る。けれど、それは本当かもしれないという渇きがその空間には確かに存在していた。蓋に手をかけ、縁を眺めてみた。釘が打たれた形跡はなかった。棺の目につく部分にはそれぞれ、趣向を凝らした彫物があった、作られてから随分な時間が経っているのだろうか、境界線があまりにも薄くなっていて確かにこんな場面だとにんしきするのはちょっと困難だった。蓋に手をかけ、静かに横に押し出す。白い布が敷き詰められた内部には誰も寝ていなかった。つまりそれは、俺がそこに横たわらなければいけないということなのだろうか?それとも、ここに横たわるためにまた新しい誰かがここに現れるのだろうか?棺が現れた時と同じように、唐突に、音もなく。けれど俺はもう悩まなかった。ハナから訳が分からないままでここに居るのだ、事態が動くのであればもう何でもやってやろうと覚悟を決めていた。白い布がなるべくずれないように気を使いながら、もしかしたらついさっきまで死体が眠っていたかもしれないその中に身を横たえる。天井には、電球を捻じ込む為の穴があった。けれどそれはあの蛇口と同じで、もしどこかから電球を探してきてそこに捻じ込んだとしても、そこに光が灯ることはないのではないかという気がした。一度目を閉じた。再び目を開けるとそこには暗闇が広がっていた。誰かが棺の蓋を閉めたのだ。音もなく、瞬時に。これは死だ、と俺は考えた。概念上の死なのだ。誰かが俺をここに連れてきたかったのだ。何のために?俺はこのままで居るとなにかしらの変化が自分に訪れるのだろうかと少しの間待ってみた。けれど、どれだけ待ってもどんなことも起こらなかった。長いことそうして限定された暗闇の中に横たわっていると、次第に恐怖が湧き上がり、そのうちに蓋を内側から持ち上げようとしていた、しかし、それは少しも動かなかった。釘を打たれたのかもしれない。瞬間的に存在する釘、と俺は考えた。人の心を葬るのにこれほどのものがあるだろうかと。そうしてムキになって蓋を蹴飛ばした。何度か蹴飛ばしていると次第に動くようになってきた。いいぞ、勢いづいて追い打ちをかけた。やがて蓋は横に落ち、音もなく消えた。おそらく消えたのだ、現れた時と同じように。コンクリの床に這い出し、たった一つの出入り口に向かって走った。床に点々と血が落ちていった。手のひらが切れているようだ。中々の裂傷のようで、実に鈍い痛みを立てた。確認は後にして、入口に体当たりした。何度目かに凄い音がして、ガラス戸の欠片とともに俺は外に投げ出された。そこは普通に人の流れがある歩道で、近くのコンビニから出てきた車の運転手が驚いた顔で俺を見た。俺は左手で顔を拭った。どろりとした感触が顔を襲った。手のひらを眺めてみると中指の下から小指の付根にかけて酷く切り裂かれていて、そこにだけはきちんと赤い血が存在していた。


自由詩 そしておそらくはそれだけが在ることにより Copyright ホロウ・シカエルボク 2021-07-11 21:55:52縦
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