ボロ布のようなマリア
ホロウ・シカエルボク


雨こそ降りはしなかったが、街はどんよりとした雲と湿気に満ちていた、人と擦れ違うのが煩わしくなり、小さな道へと逃げ込んだ、歩いているうちに、その先に昔、数十年は前に、死に絶えた通りがあることを思い出した、数十メートルの間を数軒の商店の廃墟が並び、最後は潰れた家屋で行き止まりになっている、どちらにせよ、家屋の向こうで厳重に封鎖されているのだけれどー確かこちら側の入口も封鎖されていたように記憶していたが、もう何年もそのあたりを歩いていなかったのでよく思い出せなかった、あちら側とこちら側の風景が混在しているのかもしれない、そしてそれはいまとなってはもう確かめようもない、向こう側の封鎖ゲートのその先は、大手車メーカーの工場が聳えている、昔はメインストリートだったが、街が広がり始めたときにあっさりと切り落とされた、たいした理由はない、持主の半分が死んでいたことと、街の一番端にあった通りだったということ、そんな程度の理由しか…なぜいままでそこに行ったことがなかったのだろう?これもたいした理由はなかった、思い出すことすらなかったせいだ、はした仕事の合間の休日に、たまたまそこを通りがかることがなければ、きっと思い出せないままでいただろう、といって、思い出したところでそこになにかがあるわけでもないのだがーただ、なにもないだけだ、そこには、徹底的になにもないだけなのだ、行ってみようと思った、そこには誰も居ない、もう三十年は前のことだ、このあたりを歩いている奴らは誰もそんな道のことは知らないのだ、道とすら認識されてすらいない…俺は行ってみることにした、どの道何の用事もありはしないのだー俺が子供の頃までは、そこは生きていた、駄菓子屋と、金物屋と、喫茶店と、本屋ーそんな並びだったはずだ、ドストエフスキーの初版本がたくさん置いてある妙な本屋だった、表に平積みにしてある週刊誌以外は古本より汚いものばかりだった、俺はドストエフスキーの名をあそこで覚えたのだ、なんというか、気になる語感だったからね…そう、あとはガソリンスタンドが一軒あるだけだった、一台分の給油スペースしかない、田舎でよく見るタイプのスタンドだ、座れる椅子があったら腰を下ろして少しのんびりしよう、建物がかたちを留めているかわからないけれどー四十分程度でそれは姿を現した、驚いたことにほとんど記憶にあるままだった、ただ人がおらず、ひどく汚れているだけだ、一軒一軒を覗いて回った、どれもこれも懐かしい光景ばかりだった、本屋の本はすべて朽ちていた、これが時の流れだよとその店の神のようなドストエフスキー全集が言っている気がした、店主の居住スペースまで入るのは気が引けたので、ガソリンスタンドの小さな従業員控室を借りようと思い、そこまで歩いたときに、敷地の奥にあるタンクの裏側に、ぼんやりと突っ立ってこちらを見ている黒い影に気付いた、「あ」とお互いが口にした、それでおそらく意思の疎通が出来るだろうと踏んで俺は話しかけた、「こんなところでなにをしているんだ?」はぐれたの、とその影は言った、「父さんと母さんと、はぐれたの、ずっと前、ここで」そう言いながら影は全身を覆っているごわごわした髪の毛を掻き分けた、見えづらく、話しづらかったのだろう、髪の毛の中に居たのは二十代後半くらいの女だった、「それはいつの時?」うーん、女は顔をしかめて唸り、「ずっと前、ちっちゃい時」と言った、捨てられたのか、と俺は思った、「それからずっとここに居たのか?」うん、と頷く、「ご飯とか、どうしてた?」女は駄菓子屋を指さした「飴とかね、なんか、硬い…クッキーみたいなのとか、たくさんあるの、その食べ物はあまり臭くならないの、だから食べられたの、でも、大きくなったからね、たくさん食べるようになって…下に降りると川があるの、そこで魚を捕まえたりね、水を飲んだり…」俺は頷いた、女の話し方は五才くらいの感じだった、怖くなかったのか、と俺は訊いた、女は首をぶんぶんと横に振った、「父さんと、母さんの方が、ずっと怖かったから」今度は俺が顔をしかめる番だった、座ろうか、と俺はスタンドの椅子を指さした、うん、と頷いて女は俺についてきた、それで俺たちはスタンドの椅子に座ってのんびりした、いろいろな話をした、名前はマリアだと言った、話しているうちに、俺はこの女になにかしてやりたいという気持ちになってきた、「うちに来るか?お風呂に入れて、美味いもん食わせてやるぞ」マリアはニコッと笑ったが首を横に振った、「じゃあ、施設に連れてってやろうか?お前のような人を保護してくれるところがある、部屋を与えてくれて、着替えも用意してくれる」マリアはやっぱり首を横に振った、「わたし、ここがいいの、ここがわたしの家」それは、愛着にも見えたし、怖れのようにも思えた、病気になったりしたらどうするんだ、と俺は訊いた、平気、とマリアは答えた、「わたし、丈夫だから、寝てたら治るの、ほんとよ」それに、と急に調子を変えてぽつりと言った、「わたし、ふつうの人じゃないから、ここに居る方がいいの、わたしが一緒に居ると、みんなが、いやな気持になるって」「それ、誰が言ったんだ?」「父さんと母さん」俺はなんだか悲しくなった、「普通の人じゃないなんて、そんなことはない…人間は、普通で居なきゃいけないなんて決まりのほうがおかしいんだ」マリアは困ったように笑った、きっと、俺の言っていることは難し過ぎるのだ…「それに」俺は構わず続けた、「普通じゃないわけじゃない、お前はまだなにも知らないだけなんだ」俺がそう言うとマリアはまた笑った、「うん、知らない…でも、知らないままでいい、わたし、ここに居るとわたしのままで居られるの」そうか、と俺はそれきり言葉を失くした、どうすればいいのかわからなかった、彼女がそう言う以上、俺に出来ることはないのだろう、ここから連れ出すことは、彼女にとっては幸せと言えないのかもしれない、けれど、ここに居るよりはずっといいかもしれない…「心配してくれて、ありがとう」マリアは最後に、少しだけ真面目な調子でそう言った、そして、眠いから寝るね、と言って駄菓子屋のほうへと走って行った、もしよかったらまた遊びに来てね、と言い残してー俺はそれから何度かマリアに会った、彼女はいつも同じ調子で迎えてくれた、そして、少しすると眠いからと言って駄菓子屋へと引っ込んで行った、そしてある夏の日、駄菓子屋の住居スペースで蝉のように死んでいた、黒い髪に包まれて、おそらく腐敗しているだろうそれは、一目では人間だとわからなかった、まるで、丸めて捨てられた毛足の長い絨毯のようだった。



自由詩 ボロ布のようなマリア Copyright ホロウ・シカエルボク 2021-06-20 21:30:14縦
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