適切な靴を履いて歩いている薄汚い夜の現象
ホロウ・シカエルボク


ねじられ、路肩の排水溝のそばに横たわった煙草の空箱が、人類はもう賢くなることはないのだと告げている、六月の夜は湿気のヴェールをまとって、レオス・カラックスの映画みたいな色をしている、そしてこの街に、ジュリエット・ビノシュなど居ないのだ…あえて言葉にして語ろうとするならそんな気分だった、そしてもうご存じの通り、それは言葉にするほどのものでもなかった、同じ夜、もの心ついたときから幾度となく繰り返してきた、同じ夜、同じ風景、俺は年端も行かぬうちから疲れ果てていて、ウンザリしていた、ウォホールの未整理のフィルムを延々と見せられているような気分だった、そしてそこにウォホールの目線など存在しやしないのだ…駄目だ、妙な遊びが始まってしまっている、安物の靴は軽くて丈夫で、おまけに歩き疲れなかった、そしてどれだけ強く踏みしめても、葉を撫でるみたいな足音しかしなかった、それだけでも気分は少しだけマシだった、そもそも俺は靴を買わな過ぎるのだ、こいつにしたって、散歩中に突然、それまで履いていた靴のソールがパカッと外れたせいで慌てて買ったものだった、そういえばーいま身に着けている服はいつ買ったものだったろう?もう二年か、三年は前に買ったものに違いなかった、服もそうだった、買わな過ぎるのだ…だからなんだ?別に困ることもない、ハナから流行など関係ないようなものしか持っていない、洋服などあれこれ凝ったところでなんになるというのだ?「俺は服を着ている」ただそれだけのことだー外灯の光が湿気のせいで丸く膨らんでいる、二十三時にそんなものを眺めていると、地球の内部の図解を思い出す、地殻とマントルと核…だったっけ?「地球の中には別の文明がある」って話のほうが俺は好きだけどねー近頃は感染を恐れて、うろついて飲むぐらいしかやることのない連中も流石にちらほらとしか見かけない、誰とつるむこともなく、黙って、そんな通りを歩いていると、これはとことんシンプルに表現された俺の人生だという気がした、でももう、そんな考えに一喜一憂するような時間は過ぎた、なるほどね、と適当に納得しておけばそれでいい、なにもかも落ち着くところに落ち着く…生きて、何かを見て、何かを感じて、そこに自分なりの見解というものがあればそれでいい、世間にばら撒かれているものを鵜呑みにするほどに馬鹿には生まれなかった、それだけでも良しとするべきだ、ふと、友達がピアノで弾いてたビリー・ジョエルのナンバーが頭の中で鳴る、あれ、なんて曲だっけな?そんなことを気にしていると信号をひとつ無視した、けたたましいホーンを鳴らしながら悪趣味な装飾を施した軽が背中を通り過ぎる、テールライトをギザギザにして、タイヤを少しハの字にするという美意識、多分一生理解出来ることはないだろう、あれはボンタンと同じ美学だ、下品な魚が好んで食べるおぞましい生きものみたいなものだ…だけどさ、そんなものばかり食ってるやつらのほうが多ければ、そいつらが正しいみたいな空気が自然に出来ちまう、群れて騒げば何とかなる、愚者の思想はいつだって同じところに行き着くのさ、それが正しいか間違ってるかなんてことはどうでもいいんだー真夜中の駅に辿り着く、最終便はもう出てしまって、ほとんどの灯りが落ちている、良かった、と俺はひとりごちる、こんな夜にまだ、どこかに行ける便が残っていたとしたら、俺は衝動的に乗り込んでしまっていたかもしれない、そういう感情は説明がつかないものだ、人間はおそらく、自分の本質の為に生まれ、生かされる、選択するかどうかは自由だ、もの凄く分厚い本を見せられて、それを読むかどうか問われるのだ、面倒臭いと読まない方を選択したら、そこからの人生は実質空っぽだ、ただひたすら自己満足を追いかけるだけの人生だ、読み始めたところで、それはすんなりとは進みはしない、文章として整理されておらず、字も小さく、表現としても難解で読み辛い、けれどー読み進めれば必ず何かは得ることが出来る、そして、何かを考えることが出来る、面倒臭い方へ、難解な方へと踏み込んでいかなければ、本当に身になるものを掴むことは出来ない、即決は避けることだ、ひとつの事象に、三つ以上の見解を必ず持つべきだ、バリエーションの中から一番しっくりくるものを見つけ出す、その繰り返しが居心地のいい場所へと自分自身を連れていく、そうーこんな薄汚い通りを歩きながらでもね…捨てられたのか盗まれたのか、それとも忘れられたのか、歩道の真ん中に自転車が横倒しになっていた、そいつを起こして、道の端に寄せる、そんなことをしている俺を見て、二人の若い女が馬鹿にしたように笑いながら去っていく、それが彼女たちの美学なのだ、俺は首を横に振る、彼女らも誰かから生まれてきて、百年近い人生を与えられたものたちの二人なのだ。



自由詩 適切な靴を履いて歩いている薄汚い夜の現象 Copyright ホロウ・シカエルボク 2021-06-06 22:09:03
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