早朝の散歩から
山人

 ひどいもので、昨晩午後七時過ぎに眠くなり、そのまま朝の三時頃まで眠ってしまった。読みかけの本はわずか一ページしか読まないうちに眠りの世界へと入っていったのである。当然、朝は早くなる。尿意で目覚め、時計を見ると二時四十五分。さすがにまだ起きるわけにはいかないがとりあえずトイレに立つ。トイレを終え、そのまま眠れることもあるが、だいたいは眠れない。着替えて、朝の散歩に出ることにした。朝の散歩はここのところ一カ月以上続けているが、まだ夜が明けないうちからは初めてである。
 小雨が降っている。否応なしに気持ちは沈んでいる。ずっとここ数カ月は沈みっぱなしで上昇が見込めない。でも、散歩は続ける。と決めた。闇の中でフクロウの鳴き声がする。ほ、ほほう。遠慮しがちな声が闇にまとわりつく。朝鳥はまだ鳴くことはない。するとどこからかヨタカの声がする。きっと不思議な形相でヨタカはキョキョキョと鳴いているのだ。すでに二シーズン営業を休んだスキー場のロッヂ前の急な車道を早足で登る。歩幅を大きくして一気に登ってしまおう。平らな場所に着いた時にはずいぶんと息が上がっていた。あとはだらだら下る。田植えを前にしたそれぞれの田は田打ちを終え平らにならされている。冬、膨大な雪の下敷きになっていた田の土が攪乱されてにおい立っている。土というよりも泥の香だ。この誘いこむような泥濘に若苗を埋め込むことで、稲は新たな生息地を獲得するのだ。
 折り返し地点を過ぎ、道路は下り勾配となり、大原橋を渡る。過去に水害で架けなおされたが、数えきれないほど渡った橋だ。右側を歩きながら河床を眺める。昨日の雨と昨晩の雨で水量はさほどではなかったが、川底を走るように流れている。
 
 一年経てば好転するのではないか?そう思っていた人は私だけではないだろう。昨年冬から始まったコロナ禍は最初は話のネタ程度だったが、徐々に各地へと侵入し、緊急事態宣言や自粛など、どんどん加速していった。人が病気になり、治療するために病院に行くことも憚られるのである。そして万が一、家族や自分が罹患すれば複数の人を巻き込む可能性が大きい。病気のみならず経済的な部分や人間関係などをも巻き込むこの疫病はいったい何のためにやってきたのだろうか。神が私たちに与えた試練なのだろうか。それがゆくゆく何かの足しになるというのだろうか。
 
 川は守門川と言い、破間川と合流し、魚の川と信濃川と破間川が一体となり、信濃川として日本海へと流れる。大海のなかに流れ込んだ水は、やがて蒸散され雨をもたらす。鬱積した雲から水滴が落ち始め、大きくせり出したブナの樹冠へと降り注ぐ。葉は基部から雨水を受け取り、葉先のとがった部分で雨を集め、樹幹へと流してゆく。樹幹から根元に流れた水は団粒構造状の土の中に蓄えられ、濾され、ちろちろと山麓へと流れだす。もしかしたら過去に出会ったことのある水同士が、再び同じ場所で出会ったりすることもあるかもしれない。しかし、水はそのことを特に意識するでもなく、下方へ下方へと流れていく。そこに彼らの意志があるわけではなく、沈黙の引力によって移動しているだけなのだ。はじまりは終わりを迎えるが、終わりは終わりではない。次のステージへ向かうプロローグでもある。そのために沈んでいたままではならない。そのことはわかっている。川の水に様に、また元に戻ってこれることを祈るのみだ。


散文(批評随筆小説等) 早朝の散歩から Copyright 山人 2021-05-18 06:14:09
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