ガラスの精進
ただのみきや
アンテナの上
カラスがめずらしく寒そうだ
度を越した愛撫
風だけがご満悦
抗いながらも抗えず
樹々もさんざん掻き毟られる
その有り様を見て見ぬふり
家々の窓はぬらっと景色を滑らせる
――カラスが屋根から千切れ飛んだ
「もうどうだっていいや 」
ガラスのこちらではガムランが
雨漏りみたいに続いている
*
小さな文字で手紙を書きました
あのモンシロチョウを捕まえて下さい
一年の中で
恋人みたいに寄り添ってくれるのは二人
初夏は初恋
初秋は別れの予感
あとの女神は冷酷無口か
陽気な鼻歌で生死を着飾るばかり
*
気づかずゆっくり壊れること
疑心を霧の中に置き忘れたまま
*
短くなった鉛筆がある
すでに多くを失った
残りわずかな鉛筆が
何文字書いたろう
あと何文字書ける
どれだけの言葉と
おまえは自分を置き換えたのか
古びた心臓よ
虚しく時を刻みながらも
なん度高らかに打ち鳴らされたことか
再び鳴り響くことはあるか
砂時計の砂のように
次第に質と量を見失い
炎に変わる一個の林檎
*脱人力
ブランコを漕ぐのは難しくない
いつからか記憶にないほどすぐに会得した
自転車を漕ぐのには練習が必要だった
それと少しの勇気も
ボートを漕ぐのはあまり上手くない
人生で十回も漕いだろうか
どれもこれももう何年も漕いでない
棺桶には帆を張ろう
サイコロを振るように
見つけられれば歌うだろう
見つけた者の言葉を通して
*
割れたガラスは尖っている
割れる前と同じで澄んだまま
太陽に影響され過ぎて
形も忘れて燃え上り
道端からギラギラねめつけるが
夜には素に戻る
暗闇と自分との境はどこだろう
自分はいったい何なのか
そんな問いがそのまま答えだと
感じ始めたころ
少し円みを帯びる
あるいは木端微塵
そんな微細な欠片の前で
蟻が触覚を整えている
鏡に映った己を複眼で捉えては
ガラスの向こうにある
形而上の光の迷宮
宇宙の時間を遡る
「原因とは結果である」
ガラスの太陽に焼かれながらそう思う
*
よく晴れた金魚鉢だ
視線に喘ぐ
魚たちの息は燃え
溶け混じる顔 顔
顔の中の螺旋を
金魚は球になる
わたしの心臓のよう
見開いたまま何も見ず
一点の死角へ
仰向けに身を投げる
花のような問いが
輪廻する
指先から虚空へ
震えながら逃げて行く
冷たい波動
*
雲雀たちに混ざって空の何処かで
蛙が鳴いている
そうした蛙の青い影だけが
植え込みの水仙に見下ろされ
ゆっくり泳ぎ出す
添えられたルビが
寒天質の渦を巻いた
神殿の周りは黒焦げで満ちていて
ヒマラヤのような頬骨から
火の付いた朝刊が配られていた
雲雀たちは雲にすっかり溶け
巨人たちの脳も雲に溶けている
神々の持っている物差しより
彼女の比喩は冗長だったから
わたしは胡桃を割って
欲望の雛を盗み出すしかなかった
それに手足が生えそろう頃
乾いた祈りを喉に詰め
菩薩のような顔で窒息した
蛙の声だけが
ピアスのように唇から離れなかった
天気雨に包まれて
稲光がノイズを呼び起こす
空の何処かで輪になって踊っていた
真っ赤なオタマジャクシの群れが
いまチューリップを食べ散らかす
日差しが歪んでいる
片えくぼの生贄のように
*
――見つけた
なんにも見てはいないけど
――辿り着いた
どこにも行ってはいないけど
一輪の花だ
花は大地
花は海で空
存在の真空にゆらめいて
共に消え果てる
宇宙の
実で質でもない様相こそが
*
口を縫い付けられた男の目配せの先
砂漠を渡る蝶がいた
青白い鬼火のように
箱の中の女から蜜を吸う
一冊の本から発芽した
肉体は火と水を合わせ持ち
目隠しのまま止めどなく揺らめいた
大きな腕時計が示す角度に
少女の頬のように熟れた惑星があった
脳天から真白に裂けて
雲の上の地獄から結婚が落ちて来ると
地面は白い粉に変わって抜け落ちた
厚みのない文字を
はじめて真横から見ていた
コールタールの闇が
どこまでも
落下のような静止が
続いていた
眼差しの奥から溶け出した夜が
男の口の中
羽化する夢を見た
ことばはたぶんわたしだ
女のアバラに編み上げられた蜘蛛の巣も
棘のある愛欲の蔓草も
すべてわたしだった
《2021年5月16日》