かみさま、わたしは海を汚してしまった
ホロウ・シカエルボク



あぶくは、空襲の記録フィルムを、逆回転させているみたいに
なだらかな曲線を描きながら、届かない水面へとのぼっていきました
遮断された現実の世界の中で、わたしは
眩しくない光というのはこんなにも美しいのだということをはじめて知りました
永遠にも思える落下、その途中で、迷子になってしまうのではないかと思えるほどの、緩慢な
魚たちの態度はあまりにも素っ気なく、もしかしたらこの子たちはこういうことにはすっかり慣れっこになってしまっているのではないかとわたしは考えて
それはそれでなんだか世知辛い印象だ、などと、自分のしていることも忘れて
ずっとなにか、目を覚ましなさいと身体を揺さぶられているみたいな感触があり
それでもわたしは意固地になってにやにや笑っているのでした
あれはいつのことだったか、ひとりで暮らすようになって間もないころだったように思います
溶けたアイスクリームを、浴槽に満たしたことがありました、甘い匂いを感じながら、わたしは
裸になってその中に浸かりました、剃刀で手首を切り裂くとどうなるのだろうか、確かそんなことを試したくなったのだったと思います
一見、そこでは何事も起こっていないように見えました、けれど、ひとたび切り裂いたほうの腕を持ち上げると、乳白色の海の中から真っ赤な塊が現れて、わたしは、ひどくびっくりして、同時にものすごく可笑しくなって
長いこと長いこと、そこで笑い続けていたことを覚えています、思えばあの時、どうして助かったのか、いくら思い出そうとしても思い出せないのです
きっと、あの瞬間の記憶に比べればそれは、まるで取るに足らない下らない記憶だったということなのでしょう
人生を堅実に生きることが美徳だと言われます、特に最近は、神経症的にそんなことが囁かれている気がします、だからといって
道行く人の誰もが、まるでそんな風に生きているように見えないのはどうしてなのでしょうか
人間は記憶の砂地の上にどうにか立っているだけの生きものです、確かなものなどこの世の中にはなにひとつないのです、確信はただの自己満足です、それが理解出来ないのであれば、それはとても悲しいことのようにわたしには思えます
わたしは頭を下へと入れ替えて、もっと沈んでいく感じにします、そう、なんというか、落ちていく感覚を強くしたかったのです
ぼんやりと見つめながら、ああ、どうして、こんなになにもかもが口を閉ざしている世界で生きていくことが出来なかったのかと、そんなことを思います
そうだね、思えばあなたは、と、わたしは鮫の背中に映った自分自身に話しかけます、あなたはいつでも自分の心で遊んでいるだけだったよね、と
喜びも悲しみも厭世観も焦燥も、すべて、笑いごとにして遊んでいるだけだったよね、と、それから、いいわけをしようとしましたが、鮫が行ってしまったせいで、わたしはなにも言い返すことが出来ませんでした、それは後悔といえばいえるものでしたが、でも、ほどなくどこかへ消え失せてしまう程度のものなのだと思います
なにもすることがない日には、いつも、忘れられた公園の隅の公衆電話の中で受話器を耳に当てていました、お金も入れず、ダイヤルも押さず
そもそも、それが生きているものなのかどうかすらもわたしは知りませんでした
ただただ、冷たくて固い受話器の感触が心地よかっただけなのです、そんなものを気にする人がわたし以外に居るなんて思えませんでしたし
わたしは次第にそれをするために用事を作らないようになりました、だからとてもとても退屈になって、そして公園に出かけるのでした
ところがあるときその電話はわたしに話しかけてきたのでした、あなたはいったいなにをやっているのか、と、あなたのしていることが少しも理解出来ない、と
わたしは必死になって説明をしましたが、到底わかってはもらえませんでした、当然のことです、だって、わたしにもそれがどういうことなのかはまるで理解出来ていませんでしたから
わたしが公衆電話を離れて公園のベンチでうなだれていると表通りからサラリーマンがやってきました、高い香水の匂いをさせ、髪を妙な色に染めた、少し小太りの中年でした、どうしたのかい、と彼は優しい声で聞いてきましたが、目的は明らかでした
こんな日向に居てはいけない、と、彼はわたしの手を引いて木陰へ連れて行こうとしました、わたしは大人しく従うふりをしながら、カバンの中から個人的に研げるだけ研いだペーパーナイフを取り出し、後ろから男の喉を切りました、ふっ、という声を出して男はよたよたと木にもたれ、そのまま座り込んで動かなくなりました、わたしは思っていたより上手く出来たことに嬉しくなりました、ペーパーナイフを鞘に戻し、カバンに入れました、それを持っていた右手にも血のあとがなかったので安心して公園をあとにしました
サラリーマンはそれから三日ぐらい見つけてもらえなかったと記憶しています
この世界はきっとつまらないんだ
わたしはそれを悟りました
マンボウがわたしを見つめながら死んでいきました、わたしは思わず吹き出してしまい…



自由詩 かみさま、わたしは海を汚してしまった Copyright ホロウ・シカエルボク 2021-04-24 15:07:14縦
notebook Home 戻る  過去 未来