4.23メモ
道草次郎



生きていることを楽しもうと、生きてみる。
すると呼吸がよそ行きの顔をする。夕飯が腸のなかで踊りをおどる。心臓がメトロノームになる。
段々、生きているだけで満たされていく自分が浮き彫りになる。だけど、生きていることを楽しみすぎると、死ぬのがとてもこわくなる。
こういう原初的な感覚を、ふだん、忘れていたことに、あらためて驚いてしまう自分がいる。



木のことがすこしわかる。
ひとりさみしく低い山を登って下りて来た。 木の堂々は、動けない反応だ。我々の運動は、木の静態に輪郭を与える何がしか。
それはあながち嘘ではないだろう。木に飼われているのだ、我々は。
足取りのおぼつかなさは、だから、間違ってはいない。
汗の塩味がなぜかいつも風と等価なのは、動的なものの一種の快楽に相違ない。



かんがえも物質も宇宙の子供だとしたら、そして、宇宙が膨張をしているのが事実なら、時を巻き戻せばすべてはかつて一点にあったということになる。
超高密度の一点において、あなたやわたし、それだけではない、あなたのかんがえやわたしのかんがえも非常に近くにあった。
砂粒ほどのその一点にあっては、隣合うもの同士はもはや同一といっても差し支えないのかも知れない。
時のながれによって拡散されたそれら宇宙の子供らの距離は、これから、さらに拡がるらしい。

原因と結果でさえ時間に引き離された双生児で、因果関係というものは存在しないのかもしれない。
すべてはかつて一点にあったということは、だから、今もある意味ではすべては一点にあるのであり、ものとものとの隔絶は幻だともいえる。

自然やポエジー、生の認識のさなかに立たされた時、人は、分かち難いものの謳を聴く。
その謳は、拡散とともに引き離されていくものが、一点においてもすでに引き離されていたことをうたうだろう。

前触れなく風か吹く。
そして、人は感動する。


散文(批評随筆小説等) 4.23メモ Copyright 道草次郎 2021-04-23 03:07:33
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