表現と表現者の領域 -詩人たちの末裔 Ⅳ
アラガイs

 
 20数年も前になるだろうか。たまたま帰り道に寄った駅ビルの居酒屋で、長い木目調のカウンターに腰掛け、惣菜のつまみをちびちびと頬張りながら熱燗を吞んでいた初老の男性と話したことがある。最初は遠慮して二席離れて座っていたのだが、( ああ、疲れましたね…)ふと彼のほうを見て発した私の一言が彼との距離を一気に緩めた。
駅に到着する数時間まえ、街の中心を行き交う人々はプラカードを掲げ練り歩くデモ隊に遭遇していた。多くは隊列を整え、照れ笑いを浮かべながら覚束ない足もとで歩道を歩いていたのだが、後ろから下がるに連れ、その多くは歩道から逸れて道路の進行を妨げていた。そのため街には大勢の警官や見慣れない機動隊員が駆けつけていたのだろう。道路は塞がれ、渋滞にバスや電車は立ち止まり、中心街の交通機関は麻痺していた。街は完全に彼らに掌握されていたのだ。そんな状況の話しから入り、居酒屋という空間で二人の演技者は場面を展開していった、と思うのだが…
男の名は栗原といい、なんでも通信社の特派員としてベトナムに派遣されていたのだという。そのことを酒に交えながら二人の会話は盛り上がっていった。と書いておこう。
 (…あのね、ベトナム戦争、あのときはよくやられた、っていうんですよ。知り合いの元軍人が…… )。それは?  ( なんでもね、怪我をしたベトナム人の子供を助けてやろうと近づけば、いきなり手榴弾を手にした母親や男が出てきて爆発させるんだって。それで同じ仲間が何人もヤラレタってね。 )まだお銚子もひとつかふたつ、既に栗原の頬は紅く染まり、普段から酒量の多くない人だとは判断することができた。 ( …でね、沖縄でも、やっぱり少しはそんなことがあったのか、と調べてみれば、やっぱりあったんだな。 まあ、当然といえば当然ですよね、貴方…   )盲目の愛、人は愛するが故に殺すこともできる。(そういえば思春期を迎えた男の子をみつめる母親の眼差し、あれは初恋の男を眺める女の子の目線だな… )それから会話は今日のデモのことに移り、気がつけばお猪口は濁ったグラスに変わっていた。

わたしがなんでこのように過去を振り返るような創作話しを持ち出すのかといえば、私小説と詩の境界には同じ表現としての空白地帯が介在すると思えるからなのです。
私はあたまの中で演じていた。それはいまから買い物に行くコンビニの中でも同じく物語として振る舞うことができる。道を誤るかも知れないし、路を変えるかもしれない。思い描くままに行動するかも知れないが、いまの私にはそうあるべきだとは判断もできない。
一人称による独白はそのどちらにも属して境界もない。私小説はある物語を題材にして話しが進められる。私の中を巡る物語の主人公や脇役たちは存在はしないかも知れないが、私という人物を通して鏡面の中には存在もしている。私は物語の中で彼らと同じ時間を共有し同じ空間へと至る。実際に目の前に姿が現れることもなければ実のところ目の中には姿が表れているのだという、仮想空間を現実へ向かわせる認識の創造。ならば詩には物語る時間の経過は存在しないのか、といえば作者のあたまの中には必ず時間という流れが介在している。例えひとつの言葉を発しただけでも時間の経過を無視することはできないのです。
独白された私小説と詩との区別はむずかしい。仮に創造の最中に於いてあなたの思考は停止された。はじまりもなければ終わることも無い世界がある、と表現者は言葉にして書き停めることができる。しかし過去が未来をそのまま追い越せないように、言葉を発したその瞬間から、もう別なあなたの世界は始まり終わりを告げる。パラレルな世界観を意識するとき世界はあなたを中心に目覚め洞察されるのです。
私小説と詩の曖昧な時間の領域には現在という空間が介在してきます。私はいまこの時を言葉に置き換えながら既に未来を造り変えている。
そして優れた表現者とは、その停止不可能な時空の中で、言葉を用いて停止させ得ることができる間(読み手)を、自らに共有する、ということではないでしょうか。?


自由詩 表現と表現者の領域 -詩人たちの末裔 Ⅳ Copyright アラガイs 2021-04-04 13:13:24
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