春提灯と咳緋鯉
田中修子

 風のにおいがする、花の音がする。逃げてゆく春の背だ。
 だれかをこころの底から愛したことがあったかどうか、ふと、八重桜のうすひとひらに触れそうにして胸苦しくなるんです。あなたもです、私もです、お互いを鏡にし杖にし、道具にしてきたからこげなことになったんじゃなかろうかねェ。体に走る無数の春の夕闇の切り裂きから滲み出る。いつもなにかのせいにして、至らなさに目を伏せて、口元だけは笑わせてサ。いくつもいくつも大昔に投げて放ッたらかしにしておいた問いが、修正ペンでかすれた白をあちらこちらに引っ搔いたみたいな雲の浮かぶ薄うい水色の空から投げ返されてきた。八重桜の提灯が、昼間っから鮮やかに照らす。
 ひとのあしどりが遅くなっているという、日に日に空は澄み渡り冴え冴えとして散りゆく花びらに切れたって指触れたくって。
 乞う指さきの、届かないから伸ばす爪は洗剤のきらめきにひび割れて、ん、化けの皮剥がれとる。
 靴を履いている。濡れたような赤の布張りにつま先には、からの額縁にガラスビーズ彩ったような飾りがある美しい靴だ。そのかかとを、幾ら鳴らしたって願いは叶うことはない。ジュディ・ガーランドが薬で保ちながら虹の歌をうたったような偽りで満ちている吐息ですから--ね、いつのまにか、トレンチ・コートが似合うような年齢になっていたんだね。うん、おもちゃみたな緑色だけど。着たら跳ねたくなるみたいな。おててつなご。おてて、春・春・春のッ。
 
 咳が流行りはじめてからすこしずつ澄んできた空、幾度も幾度も、薄青い空が菫色に染まり月が白くでて星は光った。
 「なんだかこのごろ、故郷の空の色にすこうし、似てきたように思います。」
 そう、北からきたひとが言っていたの、光化学スモッグ警報のなるこの町にピンで刺されてずうっとひらりと暮らしていたわ。人が咳におののくことで澄んでいくものがあるのだ。
 「故郷では、秋になると山が燃え上がるようなんです、--都会は空が狭くて息苦しい、田舎ではこころの息がつまるのです、うまくいかないものですね。」


 そう、ね。

 いつだってここにいるよ
      いるのだから

 八重桜の濃いピンクの花びら踏みにじり公園の斜面をよじ登る。船にリボン投げる手みたく差し伸べてる枝に咲いているボンボリ、春提灯、幻は浮世で浮世は幻なんです、って、逃げたくってもサ。あのひとが眼鏡のそこから緋鯉をさみしく覗いている。転ばないようにと、手が。
 微笑むのが張り付いちゃった私のこれを剥がしたくッてはじめたんだ、はじまりはいつもこうで、おしまいもいつだってこうだった。
 売り場に鏡を置いた。そこにうつっている私の目はやっぱ血走ってるけど生気のないおニンギョさんです。
 --ッて、いつまで経ってもいつまで経っても呪っていたって、サ。
  にじ、虹、踏みにじられる花びらは、砕かれゆく春の積乱欠片、遠目にゃうららな乱反射だェ。

 満ちて 満ちて 滴っている あ
 さんずい さんずい さんずいの嵐やなァ
 飲まれていく春の水底に尾っぽ

 あなたは私を見ない、私もまたあなたを見ない、見ない見ないの枝が幾重にも交差して奥にいる鳥を隠すんだ。舌を絡ませあい喉の奥を愛撫し、脳を貫きあいたくッて、ね。
 乱れていいよ。

 呼吸がしづらい、熱い、肺がゼイゼイなっている。
 ひとの奥底には箱があるんだよ、光るくだのそこにあるんだ。その箱ね、あけられるんだけど、あけたほうもあけられたほうも壊れてしまうんだ。
 パンドラ?
 そう、そんなもの。きみ、もう、いっかい、壊れてるのに。
 最後に残ったのは希望だったけどそれももう捨てて、別のモン欲しい、ひとりではこの世にいられないし。あっはは、はは、いっくらいっくら持ってるよって言われたって--ないもんはない。
 
 からだを折りながら男たちに花冠を編んで投げていたことを私はさっき知ったのでした。


自由詩 春提灯と咳緋鯉 Copyright 田中修子 2021-04-04 00:23:52
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