未詩集1
道草次郎

「にげる」

なにものからも逃げたものが
なに食わぬ顔でなにもしないでいる
すると
なにものをもにがしたものが現れて
なに食わぬ顔でいるものの所在を
不明瞭にしてしまう
なに食わぬ顔でいるものはおもう
なにものからも逃げたつもりでも
こうしてあやしくなる
ならば
なにものからももはや逃げることは能わない
何食わぬ顔でもいられない

ただなにかの状態というのが認められ
認めているだけでは済まされない
なにかがあり
意識の兆すところに遍く
離反して立つ同淵の顔がそぞろあるばかりだ

なんらかのなにかは
いつまでもそう口を閉ざしている
そういう話も
特段新しいわけではない
のであるが
人は人の辿る道をふたたび辿るべく人であることをなかなかよさない
そのことをすっかり認めた人のことを
なんと呼べば良いのだろう
それが分からないから
索して
見つからず
また索し
日々の丘陵をこうして
また
またいでここまで来ている
こうやって
ほら
覆いかぶさるように覗き込んでいるのが
じつは
他でもないなにものかなのだ


「湾岸戦争」

湾岸戦争が怖くて廊下でじっと時が過ぎるのを待っていた。一匹の蛾が仄闇から羽根をばたつかせやって来る。ずいぶん乱雑な飛び方でだ。まるで狂ったかのように薄暗い電灯へぶつかり、何度も体当たりするのが視える。中性子のまわりを廻転する傲岸な電子のようだ。黄色い人口灯の下、色褪せた歯磨き猫のシールを剥がす指先。右手の人差し指の爪の間にはいつも黒い汚れが溜まっている。そうするより他に手立ては無いと、どこかで子供ながらにさとっていたのだ。ステンレスの流しに立てかけられた青い洗面器。緑青のふいた裏戸の蝶番。軋む三枚目の床板。ドクダミと黴とが混ざった独特の臭気。塵埃の舞わない脳の滅菌箇所に八歳の記憶はこうして保管されているのだ。強風が吹きその身体がなぎ倒されたとしても、八歳のあの瞬間は揺るぎはしない。繰り返し再生され、繰り返し再生され、また繰り返し再生されるだけの話である。湾岸戦争は終息の気配さえ見せない。全てはあの時のまま、固定点は暗い森の何処かにその位置を占め続けているのである。


「おくります」

しずかな雨を
おくります
おかねのかわりで
なんですが

そらとぶ夢を
いのります
あえない身のうえ
だからこそ

ちいさなお花の
くびかざり
いつか野はらで
あみましょう


「お月見」

ひとりはふたり
なぜって
ひとりの自分がいるんだし

ふたりはひとり
なぜって
ふたりのひとりはよりひとり

どちらも
あんまりさびしくて
人恋しさに
月を見る


「予感」

雨がふりそうだ
風がつよい
匂いがする
つむじ風が起こり
オオイヌノフグリも
小刻みにぷるぷると震える
どこかとおくと
こここの胸に
二つの
波がうねりださんとする時
どうしてか
心は
いつもおちついている


「そらは」

こころはふるえる
とうめいにはなれない
のぎくのようにはなれない
しおれたはなをみて
とめどなくあふれてしまう
おろかにも
このこころはふためく
そらがいたいという
そらは
じぶんがはれていることをしらない
わたくしもだ


「雑貨屋の店先で」

ひきのばされれば
何だってすきまができてしまう
そこに沈められるもののことを
あるいは悲哀とするならば
さくら貝などは一体どうしたものだろう
しばしあごを支えて上目遣い
だってこんなにうつくしく
人の気持ちを素敵にさせるものは
そうはあんまり無い
あれはやっぱりあのままがいい
春海の舌で
うっそりと濡れているのがいい
そう思い
さくら貝のペンダントを戻した


自由詩 未詩集1 Copyright 道草次郎 2021-04-03 22:34:34
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