詩の日めくり 二〇一五年十二月一日─三十一日
田中宏輔

二〇一五年十二月一日 「毛布」


 きのうのうちに終えるべき仕事をいま終えて、これからイーオンに毛布を買いに行く。クローゼットに毛布が1枚もないのだ。捨ててしまったらしい。これまた記憶にないのだが、ないのだから衝動的に捨ててしまったのだろうと思う。

 あったかそうな毛布を買ってきた。3200円ちょっとかな。こんなものか。お弁当を買ってきたので、これを食べたら、お風呂に入って塾に行く。

 きょう買った毛布、めっちゃぬくい。寝るまえの読書は、シャーリイ・ジャクスンの短篇集『なんでもない一日』のつづきを。塾の帰りに、ブックオフに寄った。日本人のSF作家の短篇のアンソロジーが108円なので買おうかどうか、ちょっと迷ったけれど、さいしょの短篇を読んで、買うのをやめた。


二〇一五年十二月二日 「極光星群」

 これから西院のブレッズ・プラスでモーニング食べながら、数学の問題を解く。ランチもブレッズ・プラスで食べようと思う。全部解ければいいんだろうけど、半分くらいかな。

 仕事、半分終わった。ちょっと休憩して、塾に行くまでに、もう半分しよう。できるかな。がんばろう。

 少しずつ、やらなければならない仕事をこなしてる。塾に行くまで、あと3時間、どれだけやれるか。塾から帰ったら、お風呂に入ってすぐに床に就くつもり。時間との闘いだ。

 これから塾へ。塾へ行くまえに、ラーメンを食べよう。数か月ぶりにラーメンを食べる。

 塾の帰りに、きのう文句を言って買わなかった年刊日本SF傑作選『極光星群』を、五条堀川のブックオフで108円で買った。日本のSFを読むのは、20年ぶりくらいかも。あ、数年前に、山田正紀さんの『チョウたちの時間』を読んだか。ぼくも、来年、思潮社オンデマンドから、長篇のSF詩集を出す。『図書館の掟。』というタイトルだけど、それには、『舞姫。』も同時収録する予定。あと、詩論集『理系の詩学』と、『詩の日めくり』と、『カラカラ帝。』 できれば、4冊を同時に刊行したいと思っている。『カラカラ帝。』をのぞく、3冊になるかもしれないけれど。

 きょうするべき仕事をすべて終わった。あした、あさってが超ハードなスケジュールなので、お風呂に入って寝る。あしたの朝は、お風呂に入る時間もとれなさそうなので、寝るまえに入っておく。

 あるいは、『理系の詩学』をのぞく3冊になるかもしれないけど。『詩の日めくり』は一年ごとに出したい。何百ページになるかわからないけれど。いまはこわいので考えない。来年の3月に原稿を書き直す(翻訳は権利関係の対応に時間がかかるのではずす)ときに考える。


二〇一五年十二月三日 「マイノリティ・リポート」


 これから仕事に。夢を見た。悪い夢じゃなかったような気がする。左腕がまだ痛みで不自由だが、かなりましである。あと二日、もってくれればいい。新しく買った毛布が、ほんとにここちよい。行ってきまする。

 これから、仕事帰りにコンビニで買ったサラダを食べたら、お風呂に入って、それから塾に行く。きょうと、あした、超ハード・スケジュールだけど、あさってから、ゆっくり読書する時間がもてそうだ。それも、塾の冬期講習までだと思うけど。

 きょうからお風呂場では、ディックの『マイノリティ・リポート』を読む。古いカヴァーのほうの本体が傷んでいるので、古いほうのものをお風呂場で読んで捨てることに。お風呂、ゆっくり浸かろう。

あしたもめっちゃ早いから、クスリのんで寝る。おやすみ、グッジョブ!


二〇一五年十二月四日 「少年の頃の友達」


 完全に目を覚ました。着替えたら、仕事に行く。きょうと、あしたがすめば、ことしは、あとは塾だけだ。きのう、きょうと、かなりのストレスだった。きょうがすめば、あした、あと一日。がんばろう。

 結崎 剛さんから、氏の第一歌集『少年の頃の友達』を送っていただいた。とてもかわいらしい、きれいなご本で、氏の短歌にふさわしい、矩形の、はじめて目にする特殊な直方体で、また表紙のデザインもキュートなご本である。きょうから読書と数学ざんまいな日々を送る予定だった。タイミングばつぐん!

 ニコニコキングオブコメディ、やってたんだ。きのうは恐ろしくハードなスケジュールだったから知らなかった。これから見る。

 ぼく、妊娠したの。えっ。ぼく、妊娠したんだ。さっきまで読んでいた本を見た。本が言ったのか? さっき、テーブルのうえに置いたままだ。変わったところはなかった。ぼく、妊娠したんだよ。またその本から声がした。指の先で、本の真ん中に触れると、かすかに膨れていた。指の腹に鼓動が感じられた。


二〇一五年十二月五日 「ヴェルレーヌ」


 ストレスで身体がボロボロだけど、まえに付き合ってた子が、これから部屋に遊びにくると電話が。うれしいし、顔をみたいので、おいでよと言ったが、左腕が動かせないほど痛いのだった。ストレスって怖いね。部屋も片付けてないし、最悪。でも、くるまでに1時間ほどあるから、ちょっと片付けようかな。

 晩年のヴェルレーヌの生き方を読んでて、憧れをもってたけれど、才能の話ではなくて、身体がボロボロになっているところまでは自分でも体験していて、ちっとも、よいものではない。ストレスと加齢による身体の痛みが激しすぎて、憧れの「あ」の字にもあたらない感じである。現実とは、そういうものか。

 おデブの友だちが帰った。筋肉痛と関節痛でめっちゃつらいぼくに、「リハビリにマッサージさせてあげる。」というので、彼の足や腰をマッサージさせられまくった。「これ、いい曲やろ?」と言って聴かせた曲に、「ふつうかな。」という返事だったので、「ぼくら、感性が違うんやろうなあ。」と言った。

 いろんなもの、途中でほっぽって、きょうは、通勤のときに、ディックの短篇集『マイノリティ・リポート』を読んでいた。なんか、これくらいのが、ぼくの頭には、ちょうどいいかな。いまのぼくの頭の状態にはってことだけど。でも、そのうち、ペソア、ミエヴィル、ジーン・ウルフ、ラファティにも戻る。

きょうは、ディック読みながら寝る。おやすみ、グッジョブ!


二〇一五年十二月六日 「辛ラーメン」


 朝とお昼兼用のご飯を買いに行く。きょう一日の食事にしよう。やっぱフランスパンかな。肩こりを解消する塗り薬でも買おう。死ぬレベルの肩こりだ。

 むかし売りとばしたCDの買い直しをした。2枚。ジェネシス。後期のジェネシスは、ときどき捨てたくなる。しかも売り飛ばした記憶がなくなっているし。

 簡単に生えるカツラ。簡単に生えたって、カツラじゃねえ、笑。ぼく自身が坊主頭だから、ハゲには偏見がないけれど、おとついラーメン横綱に行ってラーメン食べてたら、かわいらしいおデブの髪の毛がまばらにすけた二十歳すぎくらいの男の子が思いっきり唐辛子をラーメンに入れてた。そら、ハゲるわな。

 バケット半分259円とスライスチーズとヨーグルトとレタスサラダだけでは我慢できないので、これからコンビニに夜食を買いに行く。きのうカップヌードル食べたし、辛ラーメンひさしぶりに食べようかな。あったまりたいし。Brown Eyed Soul いい感じ。CD買うかどうか迷っている。

 辛ラーメン、売り切れてた。人間って、考えることがいっしょなのかな。寒いし、あったまろうって。かっぱえびせんと、サラダ買ってきた。

 ジャズやボサノバを聴きながら、ディックを読んでいる。違和感がない。むかしはプログレやハードロックがメインやったのだが、さいきん、プログレもハードロックも聴いておらん。あした、ひさびさに聴くか。いや、聴かないやろな。どだろ。齢をとってこころと身体がボロボロになること。大切なことだ。

 辛ラーメンがどうしても食べたいので、これからスーパーに買いに行く。ひじょうに寒いのだが、かっぱえびせんで、おなかもふくれたのじゃが、辛ラーメンがどうしても食べたくなったのじゃ。買いに行く。

これから辛ラーメンつくって食べる。

 笹原玉子さんから、オラクル用の作品が送られてきた。そうだった。うっかり、ぼくもオラクルのこと、忘れてた。きょう、あしたじゅうにアップしよう。

 短篇集『マイノリティ・リポート』のさいごに載ってる『追憶売ります』を読み直した。2回のどんでん返し。さいごのシーンになるまで思い出せなかった。笑えるシチュエーションだったが、これが映画になると、あの『トータル・リコール』のようなものになってしまうのだな。さいしょだけが原作通りだ。

シャーリイ・ジャクスンの短篇集『なんでもない一日』のつづきを読もう。


二〇一五年十二月七日 「なんでもない一日」


 シャーリイ・ジャクスンの短篇集『なんでもない一日』の241ページ3行目に脱字を見つけた。「だった違いない。」→「だったに違いない。」有名な作家の作品に誤字や脱字があるのは、ほんとに腹立たしい。創元推理文庫の編集長は、この『なんでもない一日』を担当した校正係をクビにするべきである。

昼ご飯を食べにイーオンに行こう。

 ありゃ~、GはGスポット、FはFuck、Aはキッスでしょうか。そうなると、ほとんどすべてのアルファベットが、笑。そうでもないかもしれませんが、妄想がどんどん。Jはすぐには思いつきませんね。形はそれっぽいのですが。

 お昼に、イーオンでラーメンと小さい焼き飯を食べた。これからセブイレにサラダを買いに行こう。きょうの夜食も、サラダと辛ラーメンだな。食べ終わったら、シャーリイ・ジャクスンの短篇集『なんでもない一日』のつづきを読もう。

 友だちが遊びにきてくれてたんだけど、クスリの時間だからって言ってクスリのんだら、帰ってった。あと1時間くらい起きてると思う。1時間でできることって、やっぱり読書かな。シャーリイ・ジャクスンの短篇集『なんでもない一日』のつづきを読みながら寝よう。


二〇一五年十二月八日 「サンドキングズ」


 きょうから、お風呂場では、ジョージ・R・R・マーティンの短篇集『サンドキングズ』を読む。古いほうのカヴァーのほうがよいので、新しいカヴァーのヴァージョンを読む。中身はいっしょかなと思って、いま調べたら、新装版の方が文字が大きくて、ページ数で言うと、40~50ページくらい増えてた。

 塾の帰りにブックオフに寄って、岩波文庫の『20世紀アメリカ短篇選』上巻を108円で買った。むかし読んだけど、まったく憶えていなかったのと、お風呂場で読むつぎの本の候補にと思って買った。開けたページ、258ページに栞が挟んであって、「あなた、なにがいやなの?」というセリフがあった。

 2週間ほどまえに目をつけていて、ぱら読みして、「あなた、なにがいやなの?」というセリフが引用詩に使えるかなって思って、違うページに挟んであった栞を、そのページに挟み直しておいたのだった。だから、偶然ではないけれど、偶然のように、おもしろかった。それは、自分が2週間まえに、どういった言葉を使おうとして挟んでおいたのかを忘れていたからだし、それよりもっと偶然なのは、だれもその本に挟んであった栞をほかのページに移動させなかったことを思い出させてくれたからであった。ほら、こんなつまらないことにもこころは動かされるって知るのは、楽しいことだし、こんなつまらないことを書きつけて喜ぶことができる自分自身を、なにか、とてもバカな生きもののようにも思えてきて、また、人間というものの、そのはかない存在について考えさせられて、感動すら覚えるのであった。

 帰りに、スーパー「マツモト」で買った巻きずし半額140円を食べよう。フィリピン産のバナナも4本で88円だった。「も」は、おかしいな。「は」だ。これから食べて寝よう。ダイエットはしばらく中止しよう。仕事のストレス+ダイエットのストレスで、身体がボロボロになるより食べる方がましだよ。

 少なくとも、こういった感慨を催させるのに、2週間という日にちが必要であったのだろうとも思われるし、時間というものに挟み込まれた偶然というか、偶然というものが挟み込んでいる時間というものについても、なにか考えさせられるところがあったのだった。2週間。

 メモ代わりに、あしたしなきゃいけないこと書いておこう。Genesis の Three Sides Live の代金を郵便局に払いに行かなきゃ。ヤフオクの件。おやすみ。寝るまえは、きょう買った岩波文庫の解説を読んで寝る。それでもまだ起きてたら、シャーリイ・ジャクスンの『なんでもない一日』を読んで寝る。

 数日まえに、通勤の帰りの電車のなかで、知らないうちに、人間でも食べてそうな感じのひとが隣に坐っていて、悲鳴をあげそうになった。という嘘を思いついた。ただ、人間でも食べてそうなひとというのは、さっきFB見てて、画像に写ってる、FBフレンドじゃないひとの顔を見て、思いついたのだった。うううん。でも、よく考えたら、ふだんから、人間は人間を食べているような気がする。人間に食べられている人間もよく目にするし、人間を食べている人間もよく目にするもの。ぼくだって、しじゅう食べているような気がするし、しじゅう食べられているような気もする。

 あ、解説を読んで寝るんだった。おやすみ、グッジョブ! 歯を磨くのも忘れてた~。


二〇一五年十二月九日 「オムライスとビビンバ」


 きのう、寝るまえに読んだ、シャーリイ・ジャクスンの『なんでもない一日』の「インディアンはテントで暮らす」をまったく憶えてなかった。そのまえに収録されてた「喫煙室」がとてもおもしろかったので、忘れたのか、寝ぼけてて、忘れてたのだと思うけれど、「喫煙室」から読み直して寝ることにする。

 いま起きた。高校の仕事がことしはもうないので、塾だけだから、こんな時間に起きれる。お昼に、大谷良太くんとミスタードーナッツでコーヒー飲みながらくっちゃべる。ぼくはちょこっとルーズリーフ作業をするかな。シャーリイ・ジャクスンの短篇集『なんでもない一日』のつづきも読もう。

塾へ。

 きのう寝るまえに読んだシャーリイ・ジャクスンの『なんでもない一日』所収の「インディアンはテントで暮らす」の内容がさっぱりわからなかった。読み返してもわからないような気がするので、つぎのを読む。読んで意味がわからないものは、ひさしぶり、というか、もしかしたら、はじめてかもしれない。

 お昼にオムライスとビビンバを食べたので、晩ご飯はサラダとかっぱえびせんだけにしておこう。お昼からずっとポール・マッカートニーのアルバムを聴いている。天才だけど、芸術家である。天才なのに芸術家でないひととか、芸術家なのに天才でないひととかが多いのに、ひとりポールは、天才で芸術家だ。


二〇一五年十二月十日 「O・ヘンリーのOって?」


 シャーリイ・ジャクスンの短篇集『なんでもない一日』を読み終わった。自伝的なエッセーのようなものがいくつか入っていて、そのこまやかな観察力と、ユーモアには、さすがだわと思わせられた。ほかお気に入りの短篇は2作。どちらもユーモアのあるもの。ぼくはユーモアのあるものが好きなようである。

 これからセブイレに行って、サラダとかっぱえびせんを買ってこよう。きょうの夜の読書は、ペソアの『不安の書』のつづきを。いま、350ページを過ぎたとこらへん。塾の冬期講習に入るまでに読み終わりたい。ナボコフの全短篇集もできたら、冬休み中に読みたいんだけど、それはぜったい無理っぽいな。

 記憶が違っていた。ペソアの『不安の書』350ページあたりだと思っていたのだが、444ページだった。

 ほとんど同じものと思われるほどにそっくりに似たものが遠く離れたところにあることもあれば、まったく似ていないものがすぐそばにあることもある。目のそばには耳があるが、目と耳とはまったく異なるものである。手の指の爪と足の指の爪は離れているところにあるものだが、よく似ているものである。

 つまらない風景なのに、忘れられないものがある。峠の茶屋で、甘酒を飲んでいる恋人たちの風景。冬だったのだろう。ふたりの息が白く煙っていた。井戸水で冷やした白玉を黒蜜で出す老婆の手。井戸水だったのだろうか。湧き出て零れ落ちていく水玉の輝き。このふたつの風景が二十年以上も木魂している。

 お風呂につかりながら本を読むのが趣味のひとつになっているのだが、きょうは、マーティンの短篇集『サンドキングズ』のつづきを読もう。きのう読んだ「龍と十字架の道」は、つまらなかった。表紙がすばらしいので旧装版は手放さないが、タイトル作しか記憶にない。そのタイトル作もおぼろげな記憶だ。

 1時間近く入ってたのか。『サンドキングズ』収録2作目の「ビターブルーム」を読んだ。SF(サイエンス・ファンタジー)だった。レズビアンものという点では、ジャネット・A・リンの「アラン史略」三部作(4分冊)と趣向が同じ。ただし、リンの作品の方が描写は細かい。きょうのも及第点に届かず。

 寝るまえの読書は、あまり神経を使わなくてすみそうな岩波文庫の『20世紀アメリカ短篇選』上巻を読もう。さいしょの作品は、O・ヘンリーの『平安の衣』 さて、O・ヘンリーのOって、54歳になるまで調べなかったけれど、調べたら、これはペンネームで、Oがなにの略か諸説あるらしい。ふううむ。


二〇一五年十二月十一日 「〈蛆の館〉にてって」


 セブイレで朝ご飯にサラダとかっぱえびせんを買ってこよう。きのう、ペソアを55ページ読んでた。きょうもそれくらい、いや、それ以上読みたい。ルーズリーフ作業がすごそうだけど。そしたら、ナボコフの全短篇集のつづきに移れる。ジーン・ウルフやラファティやジャック・ヴァンスも読みたいけれど。

 寝るまえにお風呂に入りながら、マーティンの『サンドキングズ』収録3作目の「〈蛆の館〉にて」を読んだ。これまた、SF(サイエンス・ファンタジー)であった。むかし読んだ記憶がよみがえった。ウェルズの『タイムマシン』のモーロック族とエロイ族の話をモロにヒントにした気持ち悪い作品だった。


二〇一五年十二月十二日 「開き癖」


 ペソアの『不安の書』のページを開けたまま眠っていたら、開き癖がついてしまっていた。朝は、パスタのスープのはねを表紙につけてしまった。きょうは呪われているのかもしれない。どこにも出かけず、読書していよう。きのうは友だちと会って話をしてた。お父さんが脳卒中で入院なさり、毎日、病院に行って、父親の動かなくなった指をもんでいるということだ。丸く固まってしまうからだという。指を伸ばすようにしてもんでいるらしい。ぼくには父親がもういないけれど、動かなくなった父親の指を毎日もむだろうか。考えさせられた。

これからパスタを食べる。朝はペペロンチーノだった。お昼はナポリタン。

晩ご飯はペペロンチーノ。

サラダとかっぱえびせんも買ってきた。

 マーティンの短篇集『サンドキングズ』に入っている4作目以降、まったく読むに耐えないものだったので、さいごに収録されてるタイトル作品を読んで、『サンドキングズ』を読むのは終わりにしよう。読み終わったら、ペソアの『不安の書』のつづきを読もう。

「サンドキングズ」読み終わった。「<蛆の館>にて」と同様、えげつない話だった。「フィーヴァードリーム」上下巻は傑作だった記憶があるのだけど、再読するのがためらわれるくらいに、ジョージ・R・R・マーティンの評価が、ぼくのなかで落ちた。『翼人の掟』を高い値段で買って、まだ読んでない。

 これからペソアの『不安の書』のつづきを読む。生前に発表した作品は少ないのだが、未発表のものの方がよいような気がする。生前に発表したもののうち、2作品をきのう読んだが、レトリカルなだけで、ぼくが学べることはなにもなかった。新プラトン主義が厭世観と結びついたらそうなるのかもしれない。

 きょう見た夢は、大きな塾のCMで、見たことのない人物たちが出ていて、塾長だというおじさんが管楽器を吹くシーンで終わったのだが、笛を口から離すとよだれが落ちて、「汚い」とかいう子どもの声が聞こえたのだが、「仕方ないんじゃない?」とかいう別の子どもの声もした。そこで夢から覚めたのだ。夢は、ぼくの潜在意識がつくっているものだが、これは、ぼくになにを教えようとしたのか、わからない。あるいは、ただ、潜在意識は、こんな夢をつくってみただけで、意識領域のぼくには、なにも伝える気はなかったのかもしれないけれど。それでも、夢がなにを意味しているのかは興味深い。ぼくの不安だろうか。不安を投影させることはよくあると思う。仕事の不安。仕事の内容の困難さもある。3学期は幾何を教えるのだが、代数に比べて幾何は教えるのが難しい分野である。万全の準備をしておくつもりだが不安がないわけではない。物語を物語るように、プリントをつくっておこうと思う。論理を物語る。これは、ぼくが、詩で実践してきたことなので、詩を書くつもりで、プリントをつくろう。もしかしたら、ぼくの幾何のプリントが、ぼくの書いたもっともうつくしい詩になったりして、笑。

 思考とイマージュ。比較することでしか思考は生まれないのだが、イマージュは比較対象する複数の事物を必要とはしない。なにものかとべつのなにものか、だれかとべつのだれかを比較検討することで思考は開始され進行される。イマージュは、ただそれそのもの自体を対象として想起すればよいだけである。図形だと補助線をいくつか描き入れるだけで容易に解ける問題が、人間が対象だと容易に補助線が書き込めないために解くことができない。あるいは、不要な補助線だらけで、解けなくなってしまっている。その不要な補助線を取り除いていくと、最後には、思考の対象とするその人間自身も消え去ってしまう。

 長く使っていると、自分がその道具のように考えていることに気がつかなくなってしまう。言葉も道具である。思考の幅が狭いのは、同じような言葉の組み合わせ方しかしないで思考しているのだ。それを避けるためには、異なる道具を使うこと。あるいは、異なる道具を扱うように、いつもの道具を扱うこと。

あしたは病院。クスリのんで寝る。おやすみ、グッジョブ!


二〇一五年十二月十三日 「不安の書」


 これから病院に。待ち時間にペソアの『不安の書』を読み終えられるような気がする。

 神経科に行って、そのあと、大谷良太くんたちとお鍋をして、おしゃべりしてた。病院では、お昼の2時まで待合室で、ペソアの『不安の書』を読んでいた。さいごまで読み切って、読み終わって、20分くらい、待合室に置いてある写真雑誌を見ていた。きょうから、クスリが一錠、増えた。これで眠れる。

 きょうから寝るまえの読書は、ケリー・リンクの短篇集『プリティ・モンスターズ』。前作『マジック・フォー・ビギナーズ』が大傑作だったので、楽しみ。ジーン・ウルフ、ラファティ、ミエヴィル、ジャック・ヴァンスらの未読の本を退けて、ケリー・リンクにしたのだけど、どうかな。おもしろいかな。


二〇一五年十二月十四日 「貧乏詩人」


 ようやく起きた。詩集制作代金を支払いに銀行に行ってくる。これでまた文無しになるわけである。貧乏な詩人は貧乏なまま一生を終えるというわけである。まあ、それでいいのだけれど。詩人とか芸術家というものは、生きているうちに、その芸術で報われてはいけないと思う派だから。自分のこころのため以外に。編集部の方に、電話で、詩集代の振込完了のお知らせをして、また、来年も思潮社オンデマンドから3冊の詩集を出させていただこうと思っていますと話した。銀行の帰りに、イーオンに寄って、バケット半分、セブイレで、ミルクとサラダを買ってきた。ギャオで、『ウィルス』を見ながら食べよう。

マクドナルドに寄ってコーヒー飲んだら、塾へ。

 塾の帰りに、スーパー「マツモト」で、半額になった塩サバのお弁当を買った。寝るまえの読書は、ケリー・リンクの『プリティ・モンスターズ』。まださいしょの作品だが、切ない。お墓に行って、一年前に死んだ恋人のお墓を掘って、自分が彼女に捧げた詩篇の束を取り戻そうとした青年の話である。間違った墓をあばいて、違う女性の死体が、「あなた、間違ってるわよ」と言うくだりから、笑えるシチュエーションに移行するのだけれど、まあ、詩を書いて彼女に捧げる男子高校生というのも、いまの日本では考えられないシチュエーションである。寝るまえの読書が楽しみ。楽しみといえば、あさって、塾の忘年会がある。禁酒をやめたので、お酒を飲むけれど、焼酎にしておこう。きのう、お鍋を食べているときに、左手で持った小さなビアグラスを何度か、こかしそうになった。筋肉の状態がかなり悪いみたいだ。

お弁当を食べよう。おやすみ、グッジョブ!


二〇一五年十二月十五日 「負の光輪」


サラダとかっぱえびせんを買いに、セブイレに。

 これから、髪の毛を刈る。それからお風呂に。お風呂場では、日本人SF作家の傑作短篇集『極光星群』を読む。

 日本人SF作家の傑作短篇集『極光星群』、けっこうおもしろいので、塾に行くまで読む。

 ふと思いついて、検索してみたら、20年以上もむかしに、ぼくがはじめて書いたSF小説『負の光輪』が、ネット上に存在していた。引用癖は、ぼくが詩や小説を書きはじめたときからのものであることがわかる。

 soul II soul のアルバムをすべて売っちゃって、また買い戻したけれど、ぼくの詩作と連動しているのかもしれない。それぞれのメロディはしっかりしているのだけれど、ゆるいつくりをしているかのように見せる曲の配列の仕方に共感する。いま、売っちゃったDVDを買い直そうとしている。

 レンタル落ちしかなかった。たぶん、ないだろうけれど、自分が売ったブックオフに、あした行ってみよう。

 おなかがすいて気が狂いそうなので、セブイレにサラダを買いに行く。こんなにも食欲というものは、ぼくを支配していたのかと、あらためて振り返る。きょう、すでに、サラダ4袋食べてるんだけど。非現実の情報が脳を通過すると満足するように、非現実の食べ物が咽喉を通過すると満足できればいいのに。

 ぼくは、食べ物に殺されるような気がする。とりあえず、サラダを買いにコンビニに行こう。


二〇一五年十二月十六日 「中身が入れ替わる」


田中宏輔さんは体操して半袖で走りだし少女とぶつかり事故にあう中身が入れ換わる
https://shindanmaker.com/585407


二〇一五年十二月十七日 「リンゴから木が落ちる。」


『プリティ・モンスターズ』のさいしょの作品「墓違い」は、ケリー・リンクにしては、めずらしく落ちがあった。いま、2つめの「パーフィルの魔法使い」を読んでいるのだが、マジック・リアリズムのパロディのような感じだ。残念なことだが、たくさん本を読んでいると、驚きが少なくなっていくものだ。

 場所を替えて読書しよう。マクドナルドでホットコーヒーでも飲みながら、短篇集『プリティ・モンスターズ』のつづきを読もう。

 頭のなかでは、リンゴから木が落ちてもよいのである。そして、理論的には、この表現が誤りではないことが、よく考えてみればわかるのである。

 玄関におじいちゃんが落ちていた。身体を丸めて震えていた。ぼくは、おじいちゃんを拾うと、玄関のうえを見上げた。たくさんのおじいちゃんたちが巣のそとに顔を突き出して、ぼくの顔を見下ろしていた。おじいちゃんたちは、よく玄関に巣をつくる。ぼくは手をのばして、おじいちゃんを巣に投げ入れた。

 目がふたつあるのは、どうして? 見えるものと見えないものを同時に見るため。耳がふたつあるのは、どうして? 聞こえるものと聞こえないものを同時に聞くため。じゃあ、どうして、口はひとつしかないの? 息を吸うことと、息を吐くことが同時にできないようにだよ。

 偶然があるというのはおもしろい。2015年11月22日のメモを見る。日知庵で皿洗いのバイトをしていると、ツイッターに書いていたのだが、それを竹上さんが見て、お客さんとして来てくれたのだった。9時半にあがるから、それから、どっかでパフェでも食べない? と言うと、行きましょう、ということになって、10時前にあがって、ふたりでカラフネ屋に行って、くっちゃべりながらパフェを食べたのだが、パフェの代金を支払うときにレシートを見てびっくりした。税込みで、合わせて、1700円だったのだ。竹上さんが日知庵で支払った金額といっしょだった。

 2015年11月24日のメモ。きのう、京都詩人会の合評のとき、ぼくの作品を読んでくれた感想のなかで、大谷くんが「雑踏って簡単に書いてあるけど」と言うので、あらためて考えると、そうだね、簡単に書いてあるね、と思った。大谷くんはつづけて「足が‥‥」と言っていたのだが、ぼくの耳は、もう大谷くんの言葉をちゃんと聞くことができずにいて、ぼくの耳と独立して存在しているかのような、ぼくのこころのなかで、ぼくは、「雑踏」という言葉の意味を考えていた。靴の音と靴の音が行き交っていた。スカートをはいた足とズボンをはいた足が行き交っていた。ぼくとケイちゃんは坐っていたからね。そう、坐ってたからね。足が印象的だったのだ。しかし、これもまた、あとから思い出した情景に付け加えた贋の記憶の可能性がある。混じり合う靴の音も、はっきりと何をしゃべっているのかわからない声たちも、贋の記憶である可能性がある。思い出した映像に付け加えた効果音であるかもしれないのだ。思い出した映像すら、それが頭のなかで想起された時点で、贋の記憶である可能性もあるのだ。現実の映像の記憶がいくらかはあるのだろうけれど。大谷くんに、もしも、この考察のあとで、「雑踏って簡単に書いてあるけれど」と言われたら、どう答えるだろうか。ぼくとケイちゃんは坐っていたのだった。足と足の風景。人間が通り過ぎて行く風景。音。リズム。これくらいにしか表現できない。じっさいの四条河原町の風景といっても、むかしのことだしね。

 書くということ。記憶を書くということ。記憶していることを書くのではなく、記憶していると思っていることを書くこと。記憶というものは、想起した時点で、そのときにおけるこころの状態や、それまでに獲得した体験や知識によって、あらたに再構築されるものである。

 文字に表現する→2次元化 文字から想起する→3次元化 頭のなかでは、もっと多層的な感じで再構築されているような気がする。書くまえのイマージュと、書いたあとのイマージュとの違いもある。


二〇一五年十二月十八日 「塾の忘年会」


 2015年11月24日メモ。その日は、雨が降っていなかったので、地面は濡れていなかったし、道のところどころには、水がたまったりもせずに、雨粒を地面が弾き返すこともなかったし、行き交う足たちはその水たまりを避けることもなかったし、地面に弾き返される雨粒のことを考えることもなかった。

きょうは塾の忘年会。楽しみ。

 いま帰ってきた。食べた。飲んだ。しゃべった。楽しかった。寝るまえの読書は、きょうは、なし。クスリのんで寝る。寝られるかな。おやすみ、グッジョブ!

 あっ、そいえば、思潮社海外文庫の『ボルヘス詩集』ぜんぜん読んでないや。これ読みながら寝よう。二度目のおやすみ、グッジョブ!


二〇一五年十二月十九日 「エイジくん」


 Brown Eyed Soul の、ちょっとふくよかな方、むかし付き合ってた恋人に似ていて、チューブで見て、ますます似てると思ったのだけれど、そうだ。もう、自分には、よいときの思い出しかないのだと思うのだけれど、眠っている時間にまた会えるかもしれないのだから、なんてこと思ってる。ぼくは作品にして、その子との思い出をミニチュアのようにして、手で触れることができる。いろんな角度から眺めることができる。もしも、ぼくが詩人でなかったら? それでも、ぼくはその子との思い出を何か作品にしておくと思う。音楽かもしれない。絵かもしれない。

FBで、シェアした。とってもすてき。夢で逢えたらいいなあ。

 ぼくに似ていないから好きなんだろうけれど、似ていない顔はいくらでもある。どうして、その顔でなければならないのか。文房具店で定規を選ぶとき、自分にいちばんしっくりくる定規を選ぶ。そんな感じなのかな。文房具といっしょにしたら、ダメかな。

 その子といっしょだった時間のことは、ほとんどすべて憶えている。その子とのことは、ずいぶん作品にして書いてきた。でも、書いていないこともあった。そのうち、書こうかな。ああ、でも、あのアパートの玄関のドアを押し合いへし合いしたときの、こころのときめきは言葉にはできないような気がする。でも、それでいいのだ。言葉にできないから、ぼくはこころのなかで思い浮かべることができる。ぼくとその子がいっしょにいたときのことを。そのとき、ぼくがどう思ったのか。その子がどう思っていてくれたのかと想像しながら。図書館で偶然に会った。カレーをつくった。9本のSMビデオを見せられた。アパートのしたでいっしょにした雪合戦。玄関の靴箱のうえに置き忘れられた手袋。玄関の靴箱のうえに置き忘れられた帽子。きみがわざと忘れたふりをして置いていったものたちだよ。ゴアテックスの紫色の上下のジャージ。蟹座だった。B型だった。ほら、いっぱい憶えているよ。おやすみ、グッジョブ!

 どんなにうつくしい作品を書いても、きみといたどの瞬間のきらめきにも劣る。それが生なんだと思う。それでいいのだとも思う。どんなによい作品を書いても、きみには劣る。それが生なんだと思う。それでいいのだとも思う。というか、それでなければ、ぼくらが人間であるわけはないのだから。


二〇一五年十二月二十日 「違う人生」


 これからイーオンのミスタードーナッツに行って、ルーズリーフ作業をしよう。ペソアの『不安の書』の引用と、その引用した言葉に対する感想と批判、その引用文から得たインスピレーションを書き出すのだけれど、読書と同様に、孤独だが、ぼくのしている文学行為でもっとも重要なものだと思っている。

 コンビニに、サラダと、かっぱえびせんを買いに行くときに、道路でタクシー待ちをしている青年がとってもカッコよかったのだ。同じ人間でも、カッコよく見える人間と、そうでない人間では、たとえ見かけのことだとわかってはいても、違う人生があるんだろうなあと、ブサイクなぼくは思ったのであった。


二〇一五年十二月二十一日 「月長石」


 きょうからお風呂場で読むのは、ウィルキー・コリンズの『月長石』。T・S・エリオットが激賞した推理小説である。どういう意味で激賞したのかは忘れたけれど、数年前に、ブックオフで105円か108円で買ったもの。ものすごく分厚い。750ページ以上もある。びっくり。

 コリンズの『月長石』をお風呂につかりながら流し読みした。ひさしぶりに推理小説を読んだ。P・D・ジェイムズのような洗練されたものを読みなれた目からすると、スマートじゃないし、退屈さがおもしろさをはるかに上回っている点で、この作品を、ぼくならだれにもすすめないだろう。

 きょうは、これから寝るまで、ペソアの『不安の書』のルーズリーフ作業をしよう。

なにが時間をつくり、場所をつくり、出来事をつくるのだろう?

 子どものときから一生懸命にがんばるというのがみっともないことだと思って斜に構えてきたけど、その自分が意外とものごとに一生懸命だったり、熱中していたりすることを自覚するときほど恥ずかしい瞬間はない。未読の本を少しでも少なくしようとして、いま、一日に1冊、お風呂場で読んで捨てている。

 けさ見た夢が象徴的だ。ぼくの現実の部屋ではない部屋にぼくが住んでいて、本棚の隙間に横にして本のうえに本を押し込んでいたのだ。自分の現実の部屋ではないと気がつくと、間もなく目覚めたのだが、その夢が強迫的な感じだったので、きょう、本棚を整理した。

 一生懸命と書くとよい意味に思えるけれど、ぼくの場合は病的になるという感じなので、本との闘いは、これからなのだと思う。いまもペソアの『不安の書』のルーズリーフ作業をしているけど、これは悪魔祓いなのだ。本を読むことによって、ぼく自身が呼び込んだ悪魔の。

 これから、ちょっと距離のあるスーパー「ライフ」に行って、30パーセント引きの弁当でも買ってこよう。きょうは本棚の夢を見ないように、寝るまえの読書はやめよう。クスリをのんで眠くなるまで、ペソアの『不安の書』のルーズリーフ作業をしよう。30パーセント引き弁当、残ってるかな?

 自分のなかに見知らぬ他人が存在しているのと同様に、見知らぬ他人のなかに自分も存在している。

 ばかであることもできるばかもいれば、ばかであることしかできないばかもいるし、ばかであることも、ばかでないこともできないばかもいる。ぼく自身は、この三様のばかのあいだをあっちに行ったり、こっちに来たりしている。


二〇一五年十二月二十二日 「いつだって視界に自分の鼻の頭が見えてるはずだろ。」


 繰り返し何度も何度も同じような事物や事象に欺かれてきたが、いったいなにが、そういった事物や事象に、そのような特性をもたらしたのだろうか。

 あと200ピースほどの引用とメモが残っているが、きょうは、これでクスリをのんで寝る。おやすみ、グッジョブ! あしたから冬期講習だけど、あした、あさっては、夕方からだけだから、まだ余裕。朝とお昼は、ペソアのルーズリーフ作業に専念しようっと。

 セブイレでサラダとかっぱえびせんを買ってきた。これが朝食。お昼はまっとうなものを食べよう。

 夢を見るときは、いつでも、夢をつくるときでもある。詩と同じだ。その詩が、ぼくのものであっても、ぼくのものではなくっても。

 むかし付き合った子といるときや、友だちといるときや、居酒屋さんや焼き鳥屋さんで飲んでいるときや、生徒といるときや同僚の先生方といるときも、ぼくはみんなと同じ永遠や無限のなかにいる。と同時に、みんなと同じ永遠や無限のなかにいるわけではない。それぞれ個々の永遠や無限があって、その個々の永遠や無限の交わりのなかに、ぼくらがいるだけなのである。こう言い換えてもよいだろう。無数の永遠や無限という紐があって、ぼくたちは、それらの結び目にすぎないと。その結び目は、少しでも紐を引っ張ると、たやすくほどけるものでもあると。

 溺れる者がわらでもつかむように、詩に溺れた愚かな者は、しばしば詩語にしがみつく。日常使う言葉をつかんでいれば、溺れることなどなかったであろうに。

 自分が歩かないときは、道に歩かせればよい。自分で考えないときは、言葉に考えさせればよい。

聴覚や嗅覚でとらえたものもたちまち視覚化される。記憶とは映像の再構成なのだ。

 つまずくたびに賢くなるわけではない。愚かなときにだけつまずくものではないからだ。

 私小説批判をけさ読んだが、なにを言ってるのかわからない。私という場所のほかに、どこに文学があるというのだろうか。

 二十歳のとき、高知の叔父の養子にならないかという話があった。もしもなっていたら、平日は公務員で、土日は田畑を耕していただろう。詩を書くなどということは思いもしなかったろう。詩は暇があるから書けるのである。暇がなければ書けないものでもないが、ぼくの詩は、確実に暇が書いたものなのだ。

 以前に詩に書いたことなのだが、つねに自分の鼻の頭が視界に入っているのに、意識しないと見えないのは、なぜなのだろうか。

 じっさいにそうしていなかったことにより、もしもそうしていたならという夢想を生じせしめる。じっさいにそうしていたときよりも、おそらくはここちよい夢想によって。なぜなら、それはその夢想を台無しにする要素が入り込む相手の、彼の意志が入り込む余地がないからである。それは相手の、彼の意志がいっさい介在しないからである。ぼくが思い描くとおりの理想の(これが罠だとぼくは知っているのだが)夢想であるのだから。

 ぼくはもう詩を書こうとは思わない。ぼくが書くものがすべて詩になるのだから。


二〇一五年十二月二十三日 「別の現実」


 ひぃえ~、ヤクザに頭割られて、それが治ったら、薔薇の束を抱えさせられて殺される夢を見た。なんちゅう夢。家族全員が殺される夢だった。なんで、こんな夢を見たのだろう?

 作品論を読んでいて、作品論なのに、存在する作品について具体的に論じないで、存在していない作品について論じているものがある。現実の風景について述べないで、風景というものは、と述べているものを読ませられているかのような気がするものがある。それがおもしろくない作品論ではないこともある。

 リンゴが赤いのは、赤いと言われているからだ。赤いともっと言ってやると、リンゴはいっそう赤くなるだろう。この表現に神経をとがらせるひとには、こう言ってやればよい。リンゴにもっと赤いと言ってやると、リンゴはよりいっそう赤く見えると。リンゴが赤いのは、赤いと言われているからである。

 別の現実が、ぼくのなかで目を覚ます。眠りとは、夢とは、このことだったのか。


二〇一五年十二月二十四日 「プリティ・モンスターズ」


 ペソアの『不安の書』のルーズリーフ作業が終わった。きょうは、詩集を読むか、小説を読むか、どっちにしようか。ボルヘスとカミングズの思潮社の海外詩文庫を買って、まだ読んでなかった。ボルヘスの全短篇集のつづきか、どれかにしよう。

 あんまり寒いので、お風呂につかりながら読書することに。お風呂場では、ひさびさにヘッセ全集を読もう。2、3時間はゆっくり湯船につかろう。

 きょうは、ケリー・リンクの短篇集『プリティ・モンスターズ』のつづきを読もう。辛ラーメン3袋入り×3と、カレーのレトルト『メガ盛り』辛口4袋、大辛6袋買ってきた。合計2216円。年末・年始の食糧確保だす。

 ケリー・リンクの『プリティ・モンスターズ』を読んでいて、読んだことあるなあ、まえの短篇集のタイトルと同じ「マジック・フォー・ビギナーズ」じゃんって思って、解説を読んだら、そうだった。早川書房、なんちゅう商売してるんだろ。もう1作「妖精のハンドバッグ」も、まえのにも収録されていた。まあ、もう1回読んでもいいくらい、ケリー・リンクの小説は味わい深いし、短篇集の『マジック・フォー・ビギナーズ』が好きで、単行本と文庫本を1冊ずつ買ったくらいだけれど。単行本の表紙がいい味しているのだ。文庫で読んだだけで、単行本は読んでいないのだが。

クスリのんで寝よう。おやすみ。グッジョブ! 寝るまえの読書も、ケリー・リンクで。


二〇一五年十二月二十五日 「そんなことがあるんや。」


 これから塾へ。ちょっと早いので、マクドナルドでホットコーヒーを飲もう。それからブックオフに行って、塾へ。

 詩集が1冊、出るのが遅れているのだが、記号だけでつくったぼくの作品を Amazon のコンピューターがエラー認識してしまい、どうしてもそれを入れて製本することができないということが、きょうわかった。その作品ははずしてもらうことにした。その作品はお蔵入りということになる。笑った。


二〇一五年十二月二十六日 「愛の力」


 台湾人のFBフレンドが「My boy in my home (灬ºωº灬)」というコメントをつけて、恋びとと向かい合ってプレゼント交換して、クリスマスの食事をしようとしている画像をアップしていて、見ているぼくまでハッピーな気持ちになる。ぼくにも、そんなときがあったんだって思うと。20代同士のかわいいゲイ・カップルだから、見ていて、ほんわかとしたんだと思うけれど、これが、60代同士のおじいちゃんカップルでも、見ていて、ほんわかすると思う。基本、愛し合ってるひとたちを見るのは、こころがなごむ。それも愛の力のひとつなんだろうね。


二〇一五年十二月二十七日 「15分」


 起きた。セブイレでサラダとかっぱえびせんの朝ご飯を買いに行こう。きょうは、朝9時から夜9時半までの冬期講習だ。がんばる。

 ご飯を買ってきた。15分も湯煎をしないといけないんやね。カレーのレトルトといっしょに温めている。

辛ラーメンもつくってる。おなかいっぱいにして、冬期講習に臨む。

キングオブコメディ、残念。

 やっぱり、ケリー・リンクは天才だ! 短篇集『プリティ・モンスターズ』は大傑作だった。彼女のような作家の作品を読んでしまうと、レベルの低いものは読めなくなってしまう。それでいいのだけれど。本棚の未読の本が怖い。あしたは、さいごに収録されてる作品を読んで、ルーズリーフ作業をしよう。


二〇一五年十二月二十八日 「雨に混じって落ちてくるもの」


 夕方までには、ケリー・リンクの『プリティ・モンスターズ』のルーズリーフ作業が終わるので、そのあとは読書でもするかな。ナボコフの全短篇集のつづきでも読もうかな。お風呂場では、なにを読もうかな。ジョージ・R・R・マーティンの『フィーヴァードリーム』にしよう。ダブって持っていたものだ。

 雨に混じって落ちてくるもの。きみの言葉に混じってきみの口から出てくるもの。

人間の声。世界でもっとも美しいもののひとつ。

 それとも、ルーズリーフ作業が終わったら、河原町でも行こうかな。欲しい本が2冊出てた。ジーン・ウルフの『ナイト』Ⅰ、Ⅱの続篇2冊。『ナイト』自体買ったけど、読むの1年後くらいかもしれないけれど。本って、買っておかないとなくなることが多いしね。とくに、ぼくが買う類の本は。大丈夫かな?

 10代と、20代と、30代と、40代の経験は、そのまんま、文学的な衣装をいっさいつけずに作品にしたい。体験のうち、いくつかは書いたけど、そのまんまを書くことはできていないような気がする。

虚偽にも真実が必要なように、真実にも虚偽が必要なのである。

 病院で配膳のボランティアをしていて、残った食べ物を集めていると、うんこのような臭いがした。それと同じことなのだろうか。ポルノ映画館の座席と座席の間の通路が黒く照り光っているのは。さまざまな風景を拾い集めて、数多くの裸の人間や服を着た人間たちの色彩を集めて、黒く照り光っているのは。

 精神病の母から毎日、電話がかかってくる。死ぬまでかけてくるだろう。電話をとるしかないだろう。一日、1分ほどの苦行だ。3日もほっておくと、警察に連絡して、ぼくが無事かどうかの確認をさせるのだ。はじめて派出所から警官が2人で訪れたときはびっくりした。母が精神病であると告げると帰った。

 ルーズリーフ作業が終わった。ナボコフの全短篇集を本棚から取り出した。85ページの『復習』というタイトルの作品のところに付箋がしてあった。84ページまで読んだところでやめていたのだろう。字面を見て、本をもとのところに戻した。ぼくの詩集を読んでくれた、ある女性詩人の詩集を手に取った。数字だけのタイトルの詩集である。ぱらぱらとページをめくる。具体と抽象がよいバランスで配置してある。これを読もう。薄い詩集なので、すぐに読み終えるだろう。

 何年もまえに思いついた詩のアイデアがあるのだが、いまだに書くことができない。ただ書くのが面倒なだけなのである。とてもシンプルなものなのだが、マクドナルドにでも行って、コーヒーを10杯くらい飲まないと書く気力がわかないタイプのものである。正月まえにミスタードーナツに行って書こう。

 イタリアのプログレのアレアのファーストを聴いている。こんなアルバムみたいな詩集をつくりたい。ぼくの詩集はすべてプログレを意識してつくっているのだが、まだ、アレアのファーストのようなものはつくっていないような気がする。来年出す予定の『図書館の掟。』で目指す。『ヨナの手首』を入れる。

 ぼくのために、ユーミンの「守ってあげたい」を歌ってくれたや安田太くんのことを思い出してる。そのときのこと思い出しながら寝よう。ぼくのこと好きだったんだろうなって思う。もう30年数年前のことだけど、ラグビーで国体にも出てたカッコイイ男の子だった。そのときの前後のこと書いてなかった。


二〇一五年十二月二十九日 「ローマ熱」


 きょう、塾の空き時間に、『20世紀アメリカ短篇選』を読んでいて、2つ目の短篇、「ローマ熱」(作者はイーディス・ウォートン)というのにびっくりした。むかし読んだときは気にもしなかった作品だった。齢をとって、好みが変わったのかもしれない。

 再読にはあまり興味がなかったのだが、部屋にある本、読み直すのも、おもしろいかも。あ、そのまえに未読の本を読まなくちゃいけないけれど。うううん。来年は、さらに読書に時間を割こう。未読本をどれだけ減らせるか、新たに買う本をどれだけ少なくできるか、だな。

 寝るまえの読書は、『20世紀アメリカ短篇選』上巻、3つ目の収録作品。ドイツ系アメリカ人の肉屋の親父とその娘の話。まだ数ページ読んだだけだけど、期待できそう。


二〇一五年十二月三十日 「生きること。感じること。楽しむこと。」


 きのう寝るまえに、『20世紀アメリカ短篇選』の2つと、ハインリヒ・ベルの短篇も1つ読んだ。きょうは、部屋にこもって、ナボコフの全短篇集のつづきを読む。どこまで読めるだろう。正月休みに読み切れれば、うれしいのだけれど。

 四条に出てジュンク堂で本を買ってきた。ジーン・ウルフの『ウィザード』Ⅰ、Ⅱと、岩波文庫の『20世紀アメリカ短篇選』下巻と、『20世紀イギリス短篇選』上下巻と、『フランス短篇傑作選』である。8600円ほどだったかな。まあ、それくらいの買い物は、いいだろう。本を買わないと書いたけど。

 本棚には、もう本を置けないので、押し出し式。捨てる本を決めなければならない。けっこうつらい。あとでほしくならない本を捨てなければならない。カヴァー違いの文庫など捨てればいいんだろうけれど、これがまた惜しくて捨てられない。こころ根がいやしい証拠だな。

とりあえず、タバコ吸って考えよう。

きょうは、チューブラー・ベルズを聴いて寝よう。

 ふと高校時代の友だちのことを思い出した。いっしょに映画を見てると、座席が揺れ出したので、あれっと思って、友だち見たら、チンポコいじってたから、「ここ、抜くとこ、ちゃうやん!」と言ったら、「ちょっと待って!」と言って、いっちゃったから、びっくりした。けど、めっちゃ、おもしろかった。

 めっちゃかわいかった友だちのこと思い出したから、お酒が欲しくなった。セブイレに買いに行こう。最高におもしろくて、最悪にゲスな高校時代だった。なにしても、おもしろかった。なに見ても、なに聞いても、おもしろかった。お酒は、なに飲もうかな。涙、ポロポロ→

 ロング缶のヱビスビールと、かっぱえびせんを買ってきた。すばらしい詩や小説を読んでいると、自分の人生の瞬間瞬間が輝いて見えるけれど、自分の人生の瞬間瞬間が輝いていたからこそ、詩や小説も深い味わいがあるのだとも思う。生きること。感じること。楽しむこと。


二〇一五年十二月三十一日 「プー幸せだった」


これは、ぼくとスーとの約束だった
彼を見て、ぼくは本当に、プー幸せだった
彼が心配しているのは、大晦日に彼女を慰めるためのドライブ
1、2、3は会えないね
それを言ってたのは、ベッドサイドテーブルをはさんで
缶コーヒー
きみは、ぼくに出合った休暇だった
ベイビー
メイ・メイ・スー

 もうじき55歳になる。60歳まですぐだ。老人である。残された時間は短い。これからなにが書けるのか、時間との競争でもある。きょうは、だれともしゃべらず。これが正月の3日までつづくのかと思うと、うんざりではあるが、ひとといても、うんざりである。

 弟を針で刺すと、シューって空気が抜けて、ぺちゃって倒れた。パパを針で刺すと、シューって空気が抜けて、ぺちゃって倒れた。ママを針で刺しても、シューって空気が抜けて、ぺちゃって倒れた。テーブルを針で刺すと、シューって空気が抜けて、ぺちゃって倒れた。そこらじゅうを針で刺していった。




自由詩 詩の日めくり 二〇一五年十二月一日─三十一日 Copyright 田中宏輔 2021-03-27 00:21:01縦
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