詩の日めくり 二〇一五年十一月一日─三十一日
田中宏輔

二〇一五年十一月一日 「海に戻る。」


 ぼくはまだ体験したことがないのだけれど、おそろしい体験だと思うことがある。自分がどの時間にも存在せず、どの場所にも存在せず、どの出来事とも関わりがないと感じることは。どんなにつらい体験でさえ、ぼくはその時間にいて、その場所にいて、そのつらい出来事と遭遇していたのだから。

 詩があるからこそ、季節がめぐり春には花が咲くのだ。詩があるからこそ、恋人たちは出合い、愛し合い、憎み合い、別れるのだ。詩があるからこそ、人間は生まれ、人間は死ぬのだ。詩があるからこそ、事物や事象が生成消滅するように。つまり、詩が季節をつくり、人間をつくり、事物や事象をつくるのだ。

 奪うことは与えること。奪われることは与えられること。与えることは奪うこと。与えられることは奪われること。若さを失い、齢をとって、健康を損ない、うつくしさを失い、みっともない見かけとなり、若いときには知ることのなかったことを知り、そのことを詩に書くことができた。

 ぼくが天才だと思う詩人とは、遭遇の天才であり、目撃の天才であり、記述の天才である。遭遇と目撃は同時時間的に起こることだが、遭遇と目撃から記述に至るまでは、さまざまな段階がある。さまざまな時間がかかる。ときには、いくつものことが合わさって書かれることもある。何年もかかることもある。

 純粋な思考というものは存在しない。つまり、あらゆる思考には、きっかけとなるものがあるのだ。たとえば、偶然に目にした辞書の言葉との遭遇であったり、読んでいた本に描かれた事柄とはまったく違ったことを自分の思い出のなかで思い出したものであったりするのだ。きっかけがなく、思考が開始されることはない。なぜなら、人間の脳は、思考対象が存在しなければ、思考できないようにつくられているからである。したがって、遭遇と目撃と記述の3つの要素についてのみ取り上げたが、解析には、その3つの要素で必要十分なのである。

 そうだ。詩が書くので、太陽が輝くことができるのだし、詩が書くので、雨が降ることができるのだし、詩が書くので、川は流れることができるのだし、詩が書くので、ぼくが恋人と出合うことができたのだし、詩が書くので、ぼくは恋人と別れることができたのだ。

 そうだ。詩が書くので、ぼくたちは生まれることができるのだし、詩が書くので、ぼくたちは死ぬこともできるのだ。もしも、詩が書くことがなければ、ぼくたちは生まれることもできないし、詩が書かなければ、ぼくたちは死ぬこともできないのだ。

 こんなに単純なことがわかるのに、ぼくは54歳にならなければならなかった。あるいは、54歳という年齢が、ぼくにこの単純なことをわからせたのだろうか。たぶん、そうだ。単純なことに気がつかなければならなかった。気がつかなければならないのは単純なことだった。

 さっき、きょうの夜中に文学極道の詩投稿掲示板に投稿する新しい『詩の日めくり』を読んでいて、読むのを途中でやめたのだった。自分でもドキドキするようなことを書いていて、自分だからドキドキするのかな。でも、完全に忘れてることいっぱい書いていて、ことしの2月のことなのにね。すごい忘却力。

 ディキンスンやペソアのことを、さいきんよく考える。彼女や彼がネット環境にあったら、どうだったかなとも考える。まあ、なんといっても、ぼくの場合は、詩は自分自身のために書いているので、発表できる場所があれば、それでいいかなって感じだけど。詩集も出せてるしね。

 目を開かせるものが、目を閉じさせる。こころを開かせるものが、こころを閉じさせる。意味を与えるものが意味を奪う。喜びを与えるものが喜びを奪う。目を閉じさせるものが、目を開かせる。こころを閉じさせるものが、こころを開かせる。意味を奪うものが意味を与える。喜びを奪うものが喜びを与える。

 小学校の3年生のときくらいに好きだった友だちのシルエットが、いまだに目に焼き付いて離れない。あしが極端に短くて、胴が長い男の子だった。あのアンバランスさが、ぼくの目には魅力的だったのだ。当時は、うつくしいという言葉を使うことはなかった。逆光で、真っ黒のシルエット。顔は記憶にない。

 これからお風呂に入って、レックバリの『人魚姫』を読もう。ペソアの『ポルトガルの海』かなりお気に入りの詩集になりそうだ。いまのところ、はずれの詩がひとつもない。よく考えてつくってある。ペソアは自分自身のことを感じるひとだと思っていたかもしれないが、考えるひとだったと思う。徹底的に。

 お風呂から上がった。ペソアの『ポルトガルの海』のつづきを読もう。財布にはもう58円しか残っておらず、ドーナツひとつも買えない。あした銀行に行こう。

 詩が、ぼくの目が見るもののことについて語ってくれるので、よりはっきりと、ぼくの目は、ぼくが見るもののことを見ることができるのだ。詩が、ぼくの耳が聞くもののことについて語ってくれるので、よりはっきりと、ぼくの耳は、ぼくの耳が聞くもののことを聞くことができるのだ。詩が、ぼくの手が触れるもののことについて語ってくれるので、よりはっきりと、ぼくの手は、ぼくの手が触れるものを触れることができるのだ。詩が、ぼくのこころが感じるもののことについて語ってくれるので、よりはっきりと、ぼくのこころは、ぼくのこころが感じるものを感じることができるのだ。詩が、ぼくの頭が考えるもののことについて語ってくれるので、よりはっきりと、ぼくの頭は、ぼくの頭が考えるもののことにについて考えることができるのだ。詩が、ぼくに、目を、耳を、手を、こころを、頭を与えてくれたのだ。詩がなければ、ぼくは、目を持たなかっただろう。詩がなければ、ぼくは、耳を持たなかっただろう。詩がなければ、ぼくは、手を持たなかっただろう。詩がなければ、ぼくは、こころを持たなかっただろう。詩がなければ、ぼくは、頭を持たなかっただろう。詩がなければ、ぼくは、見ることができる目を持たなかっただろう。詩がなければ、ぼくは、聞くことができる耳を持たなかっただろう。詩がなければ、ぼくは、触れることができる手を持たなかっただろう。詩がなければ、ぼくは、感じることができるこころを持たなかっただろう。詩がなければ、ぼくは、考えることができる頭を持たなかっただろう。

ナボコフの『アーダ』の新訳はいつ出るんだろうか。

 休みがつづくと、油断してしまうからか、クスリの効きがよくて、お昼も何度か眠ってしまった。つぎの日が仕事だと思うと、あまり眠れないけれど。眠れるクスリがなければ、ぼくなんか、とっくに死んじゃってると思う。まあ、詩がなかったら、精神的に死んじゃってるだろうけれど。詩があってよかった。

 ペソアか。はやってるときに、名前は知ってたけど、はやってるって理由で避けてたけど、いいものは避けつづけることはできないみたいね。平凡社から出てる新編『不穏の書、断片』もよかったけど、思潮社の海外詩文庫の『ペソア詩集』も『ポルトガルの海』も、とってもいい。あと1冊、いちばん高かった『不安の書』が本棚にあって、これも楽しみ。『ポルトガルの海』に収録されているもの、いくつも、海外詩文庫の『ペソア詩集』で澤田 直さんの訳で読んでてよかったと思っていたけど、翻訳者が変わって、訳の雰囲気がちょっと違っててもいいものなんだなって思った。『不安の書』の訳者は、高橋都彦さんで、ラテン・アメリカ文学も訳してらっしゃったような気がする。リスペクトールだったかな。透明な訳だった記憶がある。まあ、リスペクトールのモチーフ自体、無機的なものだったけど。言葉が肉化していない、でもいい感じだった。

 ぼくの詩が、ぼくに教えてくれるって、変かなぁ。ぼくの詩が、だろうか。ぼくの書いた詩句が、ぼくに、ほらね、その言葉の意味は、この言葉とくっつくと、ぜんぜん違ったものになるんだよとか、こういうふうに響くと、おもしろいだろとか、いろいろ教えてくれるのだ。あ、そうか。いま、わかった。自分の書いたもので学ぶことができるようになったんだ。めっちゃ、簡単なことだったんだ。というか、いままでにも、自分の書いた詩句から学んでいたと思うけれど、いまはっきり、それがわかった。わかって、よかったのかな。いいのかな。いいんだろうね。主に翻訳を通してだけど、世界じゅうのすばらしい詩人や作家たちから学んでいたけど、ぼく自身からも、いや、ぼくじゃないな、ぼくが書いた言葉からも学べるんだから、めっちゃお得なような気がする。これまで、めっちゃお金、本代に費やしたもんね。『ポルトガルの海』に戻ろう。海に戻ろうって、まるでウミガメみたいだな。ウミガメは、しばらくのあいだ、ぼくのこころをそそるモチーフの1つだった。ウミガメ、カエル、コーヒー、ハンカチーフ、バス、花、猿、海。ここに、こんど、思潮社オンデマンドから出る3冊の詩集で、サンドイッチが加わる。

 あ、電話を忘れてた。電話を忘れるっていいな。しなきゃいけない電話を忘れるのは、シビアな場面もあるけど、しなきゃいけないような電話じゃない電話を忘れるのは、いいかも。しなくていい電話を忘れる。ここ5、6年。恋人がいなくて、そんな電話のこと、忘れてた。恋人には、電話しなきゃいけないのかな。でも、ぼくは自分から電話をかけたことが一度もなくって。こういうところ、消極的というか、感情がないというか、感情がないんだろうな。相手の気持ちを優先しすぎて、そうしちゃってるんだろうけれど、逆だったかもしれない。

海に戻る。


二〇一五年十一月二日 「あの唇の上で、ほろびたい。」


 銀行に行こう。財布に58円しかなくって、朝ご飯も食べていない。きょうも一日、ペソアの詩を読もう。

 えっ、えっ、あした休日だったの? 知らなかった。知らなかった。知らなかったー。ペソアの詩集、ゆっくり読めるじゃんかー。カレンダー見ても信じられない。あしたが休日だったなんて。ツイートにあした祝日だと書いてらっしゃる方がいらっしゃったから気づけたけど、もしそのツイート目にしなかったら、明日、学校行ってたわ。もうちょっとで、バカしてた。なんか一日、得したような気分。5連休だったんだ。どこにも出かけず、原稿のゲラチェックと詩集の読みとレックバリ読んだだけ。

言うことなく言う。
伝えることなく伝わる。
することなくする。
見ることなく見る。
合うことなく合う。
聞くことなく聞く。
噛むことなく噛む。

 理想が理想にふさわしい理想でないならば、現実が現実にふさわしい現実である必要はない。

 きょうは、CDを2枚、Amazon で買った。soul II soul の2枚だ。ファーストが42円。5枚目が1円だった。送料が2つとも350円だったけれど。

誰に言うこともなく言う
say half to oneself

誰にともなく言う
ask nobody in particular
say to nobody in particular

誰言うともなく
of itself

The rumour spread of itself.
その風説は誰言うとなく広まった。

 ほんのちょこっと違うだけで、ぜんぜん違う意味になってしまうね。日常、自分が使っている言葉も、しゃべっているときに、書いているときに、微細な違いに気がつかないでいることがあるかもしれない。時間はふふたび廻らないのだから、ただ一度きり、注意しなきゃね。

 その詩句に、その言葉に意味を与えるのは、辞書に書いてある意味だけではない。また、その言葉がどのような文脈で用いられているのかということだけでもない。読み手がその詩句を目にして、自分の体験と照らし合わせて、その詩句にあると思った意味が、そこにあるのである。

 ルーズリーフ作業をしていると、書き写している詩句や文章とは直接的には関係のない事柄について、ふと思うことが出てきたり、考えてしまうようなことになったりして、楽しい。書き写すことは、ときには煩雑な苦しい作業になるけれど、自分の思考力が増したなと思えるときには、やってよかったと思う。

 このあいだゲーテのファウストの第一部を読み直したときにメモをしたものをまだルーズリーフに書き写してなくて、そのメモがリュックから出てきたのだけれど、ゲーテすごいなあって思うのは、たいてい、汎神論的なところだったり、理神論的なところだったりしたのだけれど、次の詩句に驚かされた。

あの唇の上で
ほろびたい
(ゲーテ『ファウスト』第一部・グレートヒェンのちいさな部屋、池内 紀訳)


二〇一五年十一月三日 「いまが壊れる!」


 悪徳の定義って、よくわからないけど、いまふと、ドーナツを1個買ってこよう。これはきょうの悪徳のひとつだ。と思った。BGMはずっとギターのインスト。高橋都彦さんの訳された『不安の書』のうしろにある解説や訳者の後書きを読んでいた。この解説によると、ペソアもそう無名ではなかったみたい。新聞にも書いていたっていうから、無名ではないな。無名の定義か。なんだろ。生きているあいだにまったく作品が世のなかに出なかったということでいえば、たしか、アメリカの画家がいて、部屋中にファンタジーの物語にでてくる人物たちを描いてた人がいたと思うけど。名前は忘れてしまった。その人が亡くなってはじめて、その絵が発見されたっていう話を、むかし読んだことがある。その人は、描くことだけで、こころが救われていたんだね。なんという充足だろう。きっと無垢な魂をもった人だったんだろね。ぼくはドーナツ買いに行く。

 ドーナツを買いに行くまえに、来週、文学極道の詩投稿掲示板に投稿する新しい『詩の日めくり』を読んでいて、驚いた。とても美しい詩句を書いていたのだ。
こんなの。

二〇一五年三月三十一日 「ぼくの道では」

かわいた
泥のついた
ひしゃげた紙くずが
一つの太陽を昇らせ
一つの太陽を沈ませる。

「一つの」を「いくつもの」にした方がいいかな。ドーナツ買ってきてから、ドーナツ食べてから考えよう。

冒頭の「かわいた」は、いらないな。取ろうかな。

 いつも買ってるドーナツ、チョコオールドファッションなんだけど300カロリー超えてたのね。いま買った塩キャラメル200カロリーちょっとで、カロリー低いの、びっくりした。見かけは、もっとカロリーありそうなのに。ドーナツ食べたら、お風呂に入って、レックバリの『人魚姫』のつづきを読もう。

 なるべくカロリーの低そうなおやつを買いに行こう。とうとう、高橋都彦さんの訳された『不安の書』に突入。高橋都彦さんの訳文は、リスペクトールの翻訳以来かな。

 やさしいひとは、手の置き方もやさしい。FBフレンドの写真を見ていて、友だち同士で写ってる写真を何枚か見ていて、友だちの肩のうえに置く手の表情をいくつか見ていて、気がついたのだ。やさしいひとは徹頭徹尾やさしくて、手の指先から足の爪先まで、全身にやさしさが行き渡っているのだと思った。

 雨の音がする。ピーター・ディキンスンの『緑色遺伝子』の表紙絵を拡大して、プリントアウトして、ルーズリーフのファイルの表紙にしている。透明のファイルで、自分の好きな絵や写真をカヴァーにできるものなのだ。本とか、文房具とか、美しくなければ、こころが萎える。美が生活の多くを律している。

 いま、FBフレンドの画像付きコメントを自動翻訳して笑ってしまった。画像は、ヨーグルトを手に、困った顔つきのドアップ。「今日病欠日下痢、リズは密かに私の食べ物に唾を吐き 80% だか分からない! 道に迷いました! 食べることができない! ハンサムなが惨めです」(Bingによる翻訳)もとの文章を推測してみよう。「きょう、下痢で欠勤した。リズが、密かに、ぼくの食べ物のなかに唾を吐いたのだ。これは、80パーセントの確率で言っている。道に迷い子がいた。食べることができなかった。ハンサムな男の子だったけど、見なりがみすぼらしかった。」あ、80パーセントを入れるのを忘れていた。友だちのリズが下痢で欠勤したのだが、ばい菌だらけの唾を吐きながら道を歩いていると、かわいらしい男の子が迷い子になっていたので、80%食べた。でもリズの食べ方は汚らしくて、食べ残しの残骸が道に散らばっていた。まるで詩のような情景だ。友だちだか恋人かわからないけれど、その子に自分の食べ物のうえに、ばい菌だらけの唾を吐かれて、下痢になってしまって、道を見ると、迷い子の男の子がいて、魅力的だったのだが、食べることができないくらいに汚らしかったというのである。いいね!して、get better soon って、コメントしておいた。FBフレンド、はやく下痢が治まって食欲が戻ればいいな~。リズくんの唾のばい菌も、はやくなくなってほしい。80%食べられた迷い子の男の子も、そのうち生き返ってくればいいかもね~。

 目が壊れるよりさきに、目が見るものが壊れる。口が壊れるよりさきに、口が食べるものが壊れる。鼻が壊れるよりさきに、鼻が嗅ぐものが壊れる。耳が壊れるよりさきに、耳が聞くものが壊れる。手が触れるよりさきに、手が触れるものが壊れる。頭が壊れるよりさきに、頭のなかに入ってくるものが壊れる。

 目に見えるものよりさきに、目が壊れる。口に入ってくるものよりさきに、口が壊れる。鼻に入ってくるものよりさきに、鼻が壊れる。耳に聞こえてくるものよりさきに、耳が壊れる。手が触れるものよりさきに、手が壊れる。頭のなかに入ってくるものよりさきに、頭が壊れる。

壊れるのなら、いま! いまが壊れる。

 そろそろクスリのもう。さいきん、クスリの効きがよくない。あと、数十分、起きていよう。5連休、ほとんどペソアの詩集を読んでいた。詩集のゲラチェックをしていた。ギャオで、いくつか映画を見た。これくらいか。きのう、友だちとマンションの玄関で顔を合わせたけど、挨拶しなかった。なぜだろう?

 ドイルの『シャーロック・ホームズ』もののパスティーシュを書いてみたい。詩人の探偵と、詩人の探偵助手と、詩人の犯人と、詩人の被害者と、関係者がみんな詩人のミステリーだ。ホームズ作品からの引用による詩論の準備はしてあるので、詩論は、そのうちいつか、いっきょに書き上げたいと思っている。

 40年以上もむかし、子どものころに好きな遊びに、ダイヤブロックがあった。いろいろな色の透明のものが美しかった。それらを組み合わせて、いろいろなものをつくるのが好きだった。ときどき新しいダイヤブロックを買い足していた。ぼくの詩のつくり方だと思っていた。ぼくの自我の在り方だったのだ。

あくびが出た。寝る。おやすみ、グッジョブ!


二〇一五年十一月四日 「詩人賞殺人事件」


 あさ、お風呂に入りながら、シャーロック・ホームズのパスティーシュ『詩人殺人事件』のことを考えていた。引用をむちゃくちゃたくさん織り込んでつくりたい。犯人と動機は考えた。場所も考えた。殺し方も二つ考えた。無名の詩人の殺人をテーマにした詩篇通りに殺されていくことにしたらいいと思った。実名は、「田中宏輔」のみ。その殺人詩篇の作者として登場させればいいかなと思う。ノイローゼで自殺した詩人として登場させようかなと思っている。まず、殺人詩篇を完成させよう。10人くらい死なせようかな。死なせる詩人の名前がむずかしいな。すでに亡くなった詩人の名前を使えばいいかな。いや、遺族から文句がくるから、有名なミステリーの犯人や探偵の名前を使って変形しようかな。悪路井戸さんとか。ひゃはは。おもしろそう。持ってるミステリーで、犯人や被害者の名前を調べよう。あ、時間だ。これから仕事に行く。『詩の日めくり 二〇一四年六月一日─三十一日』に入っている、指をバラバラに切断して、首を切断する「切断喫茶」を真っ先に思い出した。指を切断して違う指につけて回転させて会話させたり、首をつけかえるの。ぜひ、殺人詩篇に入れたい。というか、入れるつもり。通勤時間に、殺される詩人の数を4人に減らして、ひとりひとりのプロフィールを考えてた。ひとりは東京人で、詩の雑誌の会社の近くに住んで編集者と密に連絡を取り合い、お酒などもいっしょに飲むフランス文学者で、代表作品が、村野四郎の『体操詩集』ならぬ、『ダイソー詩集』で、100円ショップで買った品物についての感慨に、フランス思想家の名前とジャーゴンをちりばめたもので、その東京の詩人の詩集はたいてい、そういうもので、あと、代表的な詩集に、『東京駅』とか、『三越デパート』とかがある。あとの3人のうちの一人は三河出身の詩人で、語尾に、かならず、「だら~」という言葉をつける。あ、さきの東京人の詩人は、しゃべるときに、かならず、「おフランスでは~」をつけてしゃべる。あと2人の詩人だが、あとの2人は女性詩人で、ひとりは広島出身の詩人で、語尾にかならず「~け」をつける。残ったひとりの詩人は、京都の詩人で、語尾に、かならず「~どすえ」をつける。じっさいの詩の雑誌の編集者には、3人ほどの方と会っているが、その3人の方は、詩に対して真摯な方たちだったと思うが、ぼくが書く予定のものに出てくる編集者は、まったく詩に関心のない編集者たちにしようと思う。あと、殺人現場は、詩の賞が授与される詩の賞の授賞式会場のあるホテルの部屋で、連続殺人が起こることにする。殺され方は、2つまで考えた。ひとつは、けさ書いたように指を関節ごとに切断して首を切断するもの。あとひとつは毒殺なのだけれど、毒が簡単に手に入らないので、食塩を食べさせて殺そうとするのだけれど、まあ、コップに半分くらいの量で致死量になったかなと思うのだけれど、じっさい、むかし、京都の進学高校で、体育競技のさいに、コップに入った食塩を飲ませるものがあって、病院送りになったという記録を、ぼくは毒について書かれた本で読んだことがあって、そこには、ほとんどあらゆるものに致死量があると書かれてあったのだけれど、食塩を毒にしようとして飲ませようとするのだが、詩人が抵抗するので、指を鉛筆削りのようにカッターで肉をそぎ落としていって、食塩を飲み込ませるというもの。これで、2つの殺し方は考えた。あと、2人の殺し方を、きょう、塾から帰ったら考えよう。殺人者は、編集者のひとりである。自殺した無名の詩人「田中宏輔」の弟である。4人の詩人のプロフィールや、各詩人の作品も考えようと思う。連続殺人ができるのは、殺人者が編集者だったからである。殺された詩人たちは、まさか編集者が殺人者だとは思わずに部屋に入れてしまって、殺されてしまったというわけである。殺人を犯す編集者の名字も田中であるが、ありふれた名前だし、母親が違っていて、顔がまったく似ていなかったので、『殺人詩篇』の作者と編集者とを結びつけることができなかったのだということにしておく。一日で考えたにしては、かなり映像が見えてきている。もっとはっきり見えるように、より詳細に詰めていきたい。探偵と探偵助手のことも考えよう。

 地下鉄烏丸線:京都駅で乗客がごそっと減るのだが、まんなかあたりに座っていた女性の両隣とその隣があいたのに驚いたような表情を見せた彼女の顔が幽霊の役をする女優のような化粧をしていた。表情も生気のない無表情というものだったが、電車が動き出すと、まるで首が折れかねないくらいの勢いで首を垂れて居眠りしだした。あさに遭遇する光景としたら、平凡なものなのだろうが、ぼくの目にはマンガのようにおもしろかった。地下鉄の最終駅までいたら、まだ観察できるかもしれないと思ったのだが、最終の竹田ではなく、そのまえのくいな橋で降りた。降り方は、べつにふつうだった。駅名がアナウンスされると、目覚めたかのように顔を上げ、目を見開いて窓のそとに目をやり、電車がとまるまで目を見開いたまま、電車がとまるとゾンビが動き出すような感じで腰を上げてドアに向かって歩き出したのである。竹田駅で降りてほしかったな。

『詩人連続殺人』にするか、『詩人賞殺人事件』にするか迷ってるんだけど、まあ、あと、ふたつの詩人の殺し方は、塾への行きしなと、塾からの帰りしなに考えてた。撲殺と溺死がいいと思う。ひとを殴ったこともないので、どう表現すればいいのかわからないけれど、とりあえず殴り殺させる。詩の賞のトロフィーを見たいと言った詩人に、トロフィーを持って行った編集者の犯人が殴りつけるということにしたい。トロフィーに詩人が愛着を持つ理由も考えた。自分自身がその賞を以前に受賞したのだが、以前に家が火事になり焼失したことにする。手で直接殴ると、たぶん、手の骨というか、関節が傷むので、手にタオルを巻いた犯人がトロフィーを、詩人の頭にガツンガツンとあてて殴り殺させようと思う。溺死は、ヴァリエーションがあればいいかなと思って考えたのだけれど、溺死はかなり苦しいらしいので、ひとの死に方を描く練習にもなると思う。どれもみな、経験はないけれど、がんばって書きたい。そだ。指の切断はかなりむずかしそうなので、祖母の見た経験を使おう。祖母から直接に聞いた話ではないけれど、生前に、父親が語ってくれた話で、戦前の話だ。祖母の、といっても、父親がもらい子だったので、ぼくとは血のつながりがないのだけれど、祖母の兄がやくざのようなひとで、じつの妹を(祖母ではない妹ね)中国に売り飛ばしたりしたらしいのだけれど、妹のひとりが間男したらしくって、その間男を風呂場に連れていって、指をアルミ製の石鹸箱にはさませて、踵で、ぎゅっと踏みつけて、指を飛ばした(こう父親が口にしてた)のだという。指がきれいに切断されていたらしい。たしかに、ペンチかなにかで切断しようと思うと、手の指の力でやるしかないけれど、足の踵で踏みつけるんだったら、手の指の力の何倍もありそうだものね。指の切断もむずかしくはなさそうである。きょうは、殴り殺す場面をより詳細に頭に思い描きながら寝るとしよう。被害者の詩人は、女性詩人よりも男性詩人のほうがいいかな。溺死は女性詩人が似合うような気がする。髪の毛が濡れるというのは、なんとも言えない感じがする。そいえば、お岩さんとか、髪の毛、濡れてそうな感じだものね。濡れてないかもしれないけど。撲殺は男性詩人、溺死は女性詩人がいいかな。男女平等に、4人の詩人たちのうち、男女2人ずつである。指と首の切断を、どちらにするか。あと毒殺をどちらにするか。とりあえず、きょうは撲殺のシーンを思い浮かべながら寝よう。ぼくが唯一、知ってるのは、知ってると言っても、文献上だけれど、『ユダヤの黄色い星』というアウシュビッツなどで行われた拷問や虐殺の記録写真集だけれど、死刑囚にユダヤ人たちを殴り殺させたものだ。あ、人身売買だけれど、戦前はふつうにあったことなのかな。父親からの伝聞で確証はないんだけれど、あったのかもしれないね。しかし、貴重な伝聞事項であった。犯人にアルミの石鹸箱を用意させよう。祖母の遺品とすればいいかな。むかし付き合ってたヒロくんといっしょに見た『ヘル・レイザー』がなつかしい。血みどろゲロゲロの映画だった。きょうの朝、きょうの昼、きょうの夜と、頭のなかは、『詩人連続殺人』または『詩人賞殺人事件』のことで、いっぱいだった。あとは、探偵役の詩人と、探偵助手役の詩人の人物造形だな。作品の語りは編集長にさせる予定だ。犯人はその編集長にいちばん近い編集者である。あ、東京人の詩人に知り合いがおらず、東京人の喋り方がわからないので、語尾に、「~ですますます」をつけることにした。頭に思い描く撲殺シーンに飽きたので、ペソアの『不安の書』のつづきを読んで寝る。おやすみ、グッジョブ!


二〇一五年十一月五日 「濡れた黒い花びら」


2015年10月22日メモから

 詩には形式などない。あるいは、こう言った方がよいだろう。詩は形式そのものなのだ。

 仕事帰りに、四条のジュンク堂に寄って、チャールズ・シェフィールドの『マッカンドルー航宙記』を買った。店員が本を閉じたまま栞をはさんだので、本のページが傷んでしまった。激怒して注意した。もちろん、本の本体は交換してもらった。本を閉じたまま栞をはさむなんて正気の沙汰ではない。

 エズラ・パウンドの『地下鉄の駅で』という詩は、もう何度も読んだことのあるものだった。つぎのような詩だ。

人混みのなかのさまざまな顔のまぼろし
濡れた黒い枝の花びら
(新倉俊一訳)

 トマス・スウェターリッチの『明日と明日』を授業の空き時間に読んでいると、その141ページに、〝黒く濡れた枝についた花びら〟(エズラ・パウンドの短詩)と割注が付いた詩句が引用されていて、パウンドの詩集を調べて確認した。(自分の詩集ではなく、仕事場で確認するために勤め先の図書館で借りた詩集で)すっかり忘れていた。何度も読んでいた詩なのに。

 こんど11月10日に思潮社オンデマンドから出る『全行引用詩・五部作・下巻』のなかに、ジャック・ウォマックの『ヒーザーン』から「濡れた黒い枝の先の花びらなどなし」(黒丸 尚訳)という言葉を引用しているのだが、この言葉のもとには見た記憶があったのだが、禅の公案か、なにかそういったものだと思っていたのだったが、公案で検索したが探し出せなかったのであるが、そうか、パウンドだったのだと、自分の記憶力のなさに驚かされた次第である。めちゃくちゃ有名な詩なのにね。

 ところで、帰りの電車のなかで、「濡れた黒い」と「黒く濡れた」では意味が違うのではないかと思った。木の枝が雨に濡れたかなんかして、水をかぶると、灰色だった枝まで黒く見えることがあるけれど、さいしょから黒い枝もある。濡れて黒いのか、黒くて濡れたのか、どっちなんだろうと思って、帰って部屋で原作の英詩を調べた。

IN A STATION OF THE METRO

The apparition of these faces in the crowd;
Petals on a wet, black bough.

さて、どっちかな?

さて、これから塾。

 いま塾から帰った。パウンドのものだ。もとから黒い枝のような気がするけど、濡れるともっと黒くなるよね。どだろ。

 ニコニコキングオブコメディを見てる。塾の帰りに今野浩喜くんに似ている青年がバス停にいるのを目にする。しじゅういるけれど、ぼくの塾の行帰りの時間に。かわいい。西大路五条の王将で皿とか洗ってる男の子だ。まえに王将で食べてたら、奥で皿を洗ってた。


二〇一五年十一月六日 「soul II soul」


 apprition には、出現のほかに、幽霊、おばけという意味があるので、新倉さんは後者に訳されたんでしょうね。どちらの訳も可能ですから、どちらもありうる訳なんでしょうね。きのう地下鉄で見た女性の表情は幽霊に近かったです。パウンドの目にもそう映ったのでしょうか。言葉が豊富な語彙を持っているので、多様な訳というのがあるのでしょうね。このことは翻訳のさいには逃れられないことであると同時に、文化を豊かにするものでもあると思っています。たくさんのひとの同じ原作の英詩の訳が読んでて楽しい(ときには腹立たしい)理由でもあります。イメージがはっきりしてそうで、じつはそうでないかもという気もしてきました。というのも、パウンドが見た顔が、どんな顔たちだったかはっきりしないからです。こうして、顔のところはわかりませんが、花のところは、原文より日本語訳の方が、ハッとする感じのような気がしますね。

 きょうは塾がないので、数日ぶりに、ペソア詩集(高橋都彦訳)を読もう。そのまえに、ニコニコキングオブコメディをもう一回、見よう。

 圧力をかけて、人間を重ねて置いておくと、そのうち混じり合う。吉田洋一と高山修治と原西友紀子と川口篤史をぎゅっと重ねて置いておくと、二日ほどすると、吉山口修と山子原史と篤田友紀治と洋西史高になる。四日ほどすると、‥‥‥

 16世紀に現われた絶対王政の国王で、最盛期の大英帝国の基礎を築いたのはだれか、つぎの①から④のなかから選びなさい。

①吉田洋一
②高山修治
③原西友紀子
④川口篤史

 吉田洋一と高山修治は同じ日に死んだ。飛び降り自殺である。二人は恋人同士だった。心中である。 原西友紀子は吉田洋一の3週間前に死んだ。吉田洋一は川口篤史ともいっしょに死んだ。交通事故である。二人の運転していた車が正面衝突したのだった。なぜ、原西友紀子が一人で死んだのか答えなさい。

 食べるママ。お金を入れると食べるママ。しゃべるママ。お金を入れるとしゃべるママ。比べるママ。お金を入れると比べるママ。食べないママ。お金を入れないと食べないママ。しゃべらないママ。お金を入れないとしゃべらないママ。比べないママ。お金を入れないと比べないママ。

 ママを食べる。お金を出してママを食べる。ママにしゃべる。お金を出してママにしゃべる。ママを比べる。お金を出してママを比べる。ママを食べれない。お金を出さないとママを食べれない。ママにしゃべれない。お金を出さないとママにしゃべれない。お金を出さないとママを比べられない。

 来週、文学極道に投稿する新しい『詩の日めくり』を読み直してたのだけれど、ほんとうにくだらないことをいっぱい書いていた。詩はくだらないものでいいと思っているので、これでいいのだけれど、ほんとうにくだらないことばっかり書いてた、笑。生きていることも、ほんとうにくだらないことばっかだ。

 soul II soul のアルバムが届いて、そればっか聴いてる。soul II soul も、くだらない音だ。だらしない、しまりのない、くだらない音だ。でも、なんだか、耳にここちよいのだ。瞬間瞬間、いっしょうけんめいに生きてるつもりだけど、くだらないことなんだな、生きてるって。

 soul II soul のアルバムを Amazon で、もってないもの、ぜんぶ買った。といっても、もってるものと合わせても、ぜんぶで5枚だけど。いまのぼくの身体の状態と精神状態に合うのだろう。身体の節々が痛いし、身体じゅうがだるい。ずっと頭がしびれている。死んだほうがましだわ。

 トマス・スウェターリッチの『明日と明日』(日暮雅通訳)がとてもおもしろいのだけれど、主人公が探している女性の姿がなぜ現われたのか、読んでる途中でわからなくなって、数十ページ戻って読み直すことにした。記憶障害かしら。一文字も抜かさずに読んでいるのに、重要なことが思い出せないなんて。

 トマス・スウェターリッチの『明日と明日』150ページまで読み直して、ようやく思い出せた。おもしろい。ペソアは、あと回しにしよう。

 月曜日は、えいちゃんと焼肉。あとは、ずっと本が読める。トマス・スウェターリッチの『明日と明日』を読もう。エリオット、パウンドの詩句とか、話とか、英語圏の現代詩人の詩句が続出(でもないかな、でも、すごいSF)。ぼくもこんなの書きたいな。

 数の連続性の話は微分と絡んでいるのだけど、微分では納得できないことがいくつもあって、もう一度、数の連続性について勉強し直そうと思う。ごまかされている感じが強いのだ。

 大谷良太くんちに行ってた。学校の帰りに、大谷くんとミスドでコーヒーとドーナッツ食べて、くっちゃべって、そのまま大谷くんちで、お茶のみながら、くっちゃべって、晩ご飯にカレーうどんをいただいて、くっちゃべってた。

 帰りにセブイレでサラダを買ってきたので、食べて寝よう。あしたは、『明日と明日』のつづきを読もう。


二〇一五年十一月七日 「20円割引券」


 雨がすごい。むかし雨が降ったら、ああ、恋人が通勤でたいへんだなと思ったものだが、別れたいまでも、たいへんだなと思ってしまう。別れたら、そんな感情はなくなるのがふつうのことみたいに聞くけれど、どうなんだろうか。ぼくのような気持ちの在り方のほうが、ぼくにはふつうのような気がするけど。

 ようやく起きた。これからフランスパンを買いに行く。帰ったら、スウェターリッチの『明日と明日』を読もう。一文字も見逃せない作品だ。すごい。

 コーヒーとドーナッツを買ってこよう。20円引きのレシート兼割引券を持っていこう。貧乏人には、こういうのが、うれしい。

 トマス・スウェターリッチの『明日と明日』(日暮雅通訳)における誤植:280ページ1行目「両目も切り開かれていて、網膜レンズがとたれていた。」 これは、「網膜レンズもとられていた。」の間違いだろう。ハヤカワ文庫の仕事は、岩波文庫と同様に一流の校正係の人間に見せなきゃいけないと思う。

これからスーパーに晩ご飯を買いに行く。終日、soul II soul 聴いてる。

 そいえば、きょうの夜中に、文学極道の詩投稿掲示板に投稿する予定の新しい『詩の日めくり』も、soul II soul みたいな感じかもしれない。


二〇一五年十一月八日 「明日と明日」


 トマス・スウェターリッチの『明日と明日』を読み終わった。すばらしい小説だった。スウェターリッチが参考にしたという、チャイナ・ミエヴィルの『都市と都市』を、これから読む。買い置きしてる小説がいっぱいあるので、当分、なにも買わないでおきたい。買うだろうけれど、笑。

きょうは、これから、えいちゃんと焼肉屋さんに行く。雨、やんでほしい。

 えいちゃんとの焼肉から帰ってきたら、電話があって、M編集長かしらと思ったら、先週、道で声をかけてくれた前に付き合ってた子からだった。で、いっしょに部屋で映画見て、お互い、体重が重いから減らそうねって話をして、いまお帰り召された。きょうの残りの時間は読書しよう。

 あしたは夕方から塾だけど、それまでは時間があるから、たっぷり読書できる。しかし、きょう読み終わったトマス・スウェターリッチの『明日と明日』はよかった。帯に書いてあった、ディックっぽいというのは、『暗闇のスキャナー』の雰囲気のことかな。たしかに、読後感は近い感じがする。

 スウェターリッチの『明日と明日』が、あまりによかったので、いま、amazon レビューを書いた。あしたくらいには反映されるだろう。

もう反映されてた。

http://www.amazon.co.jp/%E6%98%8E%E6%9%A5%E3%81%A8%E6%98%8E%E6%97%A5-%E3%83%8F%E3%83%A4%E3%82%AB%E3%83%AF%E6%96%87%E5%BA%ABSF-%E3%83%88%E3%83%9E%E3%82%B9-%E3%82%B9%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%81/dp/4150120242/ref=cm_cr-mr-img


二〇一五年十一月九日 「hyukoh」


 疲れがたまっているのかもしれない。さっきまで起きれなかった。塾に行くまで、ペソアの『不安の書』を読もう。

 hyukoh って、アーティストのアルバムを買おうと思って、Amazon ぐぐったら、再入荷の見込みが立たないために、現在扱っていないとのこと。ありゃ、ひさびさに本物のアーティストを見つけたと思ったのだけれど、まあ、こんなものか。欲しいものが手に入らないというのも、どこかすてき。

 よい音楽を聴くと、思い出がつぎつぎと思い出されて、詩句になっていく。ぼくの初期の作品も、中期の先駆形も、さいきんの作品もみな、音楽がつくったようなものだ。きょう、チューブを聴きながら、20代のころの記憶がつぎつぎと甦ってきた。ただ、ぼくの記憶を甦らせた音楽は売ってなかったけれど。

 詩はとても個人的なものが多いからかもしれないけれど、自分がよいなと思うものが、ほかのひとのよいと思うものと重なることがほとんどない。このあいだ大谷良太くんちで晩ご飯を食べたとき、半日いっしょにいて詩の話をいっぱいしたけれど、二人が同時に好きな詩はひとつもなかった。それでよいのだ。

 hyukoh のアルバムは韓国でも生産中止らしい。よい曲がいっぱい入ってるのに、残念だ。憶えておこう。いつかアルバムが再発売されるかもしれないから。欲しい本はすべて手に入れたのだけれど、CDは、hyukoh のように、Amazon で探しても見つからないものがある。よいけれど。

これから塾に。そのまえにブックオフに寄ろうかな。

寝るまえの読書は、ペソアの『不安の書』のつづきを。おやすみ、グッジョブ!


二〇一五年十一月十日 「BEENZINO」


 カヴァーをはずして、ペソアの『不安の書』を、床に就きながら読んでいるのだが、メモをとるのに、表紙のうえでメモを寝ながらとっていたために、ペンをすべらせてしまい、表紙のうえに、インクのあとを5,6センチ走らせてしまった。さいわい、表紙が黒だったので、それほど目立たないが。死にたい。ヴォネガットの本に次いで、二度目だ。ぼくくらい本の状態に神経質なひとは、めったにいないだろうに。うかつだった。死にたい。ひたすら、死んでしまいたい。5000円以上した本なのに。まあ、値段の安いものなら、だいじょうぶってわけじゃないのだけれど。

 そうか、睡眠薬の効きが関係しているのだろう。電気けして横になる。二度目のおやすみ、グッジョブ!

父の霊が出てきて、目がさめた。最悪。

大声で叫びながら目が覚めた。最悪。隣の住人がどう思っているか。最悪。

 人間は事物と同様に外部に自己を所有する。内部と似ても似つかぬ外部を所有することもある。無関係ではないのだ。ただ似たものではない、似ても似つかぬということ。外部から見れば、内部が外部になる。外部とは似ても似つかぬ内部を外部が所有しているのだ。内部は外部を所有し、外部は内部を所有する。しかし、現実にはしばしば、内部は内部と無関係な外部を所有することがある。外部は外部と無関係な内部を所有することがある。所有された無関係な外部や内部が、その内部や外部に甚大な被害をもたらすことがある。ときとして、運命論者は、それを恩寵として捉える。人間も事物も、偶然の関数である。いや偶然が人間や事物の関数であるのか。人間と事物の定義域とはなんだろう。偶然の値域とはなんだろう。あるいは、偶然の定義域とはなんだろう。人間や事物の値域とはなんだろう。そこに時間と場所と出来事がどう関わっているのか。

 それはそこに存在するものなのだが、見える者には見え、見えない者には見えないのだ。それはそこに存在するものではないのだが、見えない者には見えず、見える者には見えるのだ。

 人間だからといって、魂があるものとは限らない。人間ではないからといって、魂がないものとは限らない。

 ぼくというのは、ぼくではないものからできているぼくであって、ぼくであることによって、ぼくではないものであるぼくである。ぼくはつねにぼくであるぼくであると同時に、つねにぼくではないぼくだ。

 現実に非現実を混ぜ込む。これは無意識のうちにしょっちゅうしていることだ。ましてや、しじゅう、詩や小説を読んだり、書いたりしているのだ。意識的に現実に非現実を混ぜ込んでいるのだ。日常的に、現実が非現実に侵食されているのだ。あるいは、逆か。日常的に、非現実が現実に侵食されているのか。

 きのう、BEENZINO という韓国アーティストのアルバムが2500円ちょっとだったので、11月23日くらいに入荷すると Amazon に出てたので、買ったのだが、即効なくなってた。前日までなかったので、一日だけの発売だったのか。いま10000円を超えてて、まあ、なんちゅうごとざましょ。

 hyukoh これから毎日、Amazon で検索すると思うけど、はやくアルバム出してほしいわ。


二〇一五年十一月十一日 「ぼくを踏む道。ぼくを読む本。」


ぼくを踏む道。ぼくを読む本。

 ぼくよりもぼくについて知っている、ぼくの詩句。ぼくは、ぼくが書いた詩句に教えてもらう。ぼくが書いた詩句が、ぼくに教えてくれる。ぼくがいったいどう感じていたのか。ぼくがいったい何を考えていたのか。ぼくがいったい何について学んだのか。

 人間というものは、それぞれ違ったものに惑い、異なったものに確信をもつ。逆に考えてもよい。違うものがそれぞれ人間を惑わせ、異なるものがそれぞれ人間に確信をもたせる。人間というものが、それぞれ違った詩論を展開するのは、異なる詩論がそれぞれ人間というものを展開していくものだからである。

 ぼくよりもぼくについて知っている、ぼくの詩句。ぼくは、ぼくが書いた詩句に教えてもらう。ぼくが書いた詩句が、ぼくに教えてくれる。ぼくがいったいどう感じていなかったのか。ぼくがいったい何を考えていなかったのか。ぼくがいったい何について学ばなかったのか。

 きょうは塾がないので、ペソアの『不安の書』のつづきを読む。だいぶ退屈な感じになってきたが、まあ、さいごまで読もうか。600ページを超えるなか、今、160ページくらい。


二〇一五年十一月十二日 「言葉の生理学」


 言葉の生理学というものを考えた。人間の感情に合わせて、言葉が組み合わされたり、並べ替えられたり、新しく言葉が造られたりするのではなく、言葉が組み合わされたり、並べ替えられたり、新しく言葉が造られたりすることによって、人間の感情が生成消滅したり、存続堆積するというもの。組み合わせも、並び替えも、新しく言葉を造り出すのも無数に際限なく行うことができるので、それに合わせて、人間の感情表現も情感描写も無数につくりだすことができるというわけである。年間、100万以上の物質が新たに合成されている。おそらく、人間の感情も、年間、100万以上、つくりだされているのだろう。携帯電話を持つことで、ひとを待つイライラの感情が、以前とはまったく違うものになった。すぐに電話やメールを返されない、返信がすぐに来ないというイライラは、携帯電話を持つ以前にはなかったイライラであろう。

ぼくを消化する、ぼくが食べたもの。ぼくを聞く音楽。

 よくひとに見つめられるのだが、ぼくが見つめていると見つめられるので、こう言わなければならない。よくひとに見つめさせると。

 毒だと知っているのだけど、きょう口に入れてしまった。興戸駅の自販機でチョコレートを買って食べてしまった。また、帰りにセブイレでタバコを買ってしまい、すぐに禁煙していたことを思い出して、タバコを返してお金にして返してもらった。ものすごい意志薄弱さ。強靭な意志薄弱と言ってよいだろう。

強靭な意志薄弱さか。これはキー・ワードかもしれない。ぼくの詩や詩論の。

 soul II soul の5枚を繰り返しかけている。こんな曲展開しているのかとか、こんなメロディーだったのかとか、知らずに聴いていた自分がいたことに気がついた。じっくり聴くと、わからなかったことがわかることがあるのだ、ということである。詩や小説や映画なんかも、そうなんだろうな。

 きのう、塾で椅子に腰かけたら、お尻が痛かったので、骨盤が直接あたるくらいに肉が落ちて、ダイエットが成功したのかと思っていたのだが、塾から帰って、ズボンとパンツを下してお尻を見たら、おできができてたのだった。おできの痛みであったのだ。痛いわ~。きょうも痛い。寝ても痛い。痛った~い。

 ダイエット中だが、ドーナツが食べたいので、セブイレに買いに行く。でも、睡眠薬のんでからにしよう。ああ、歯磨きしちゃったけど。まあ、いいか。も1回、磨けば。クスリがきいて、ちょっとフラフラして、ドーナツ食べるの、おいしい。それで、頭とお尻の痛いのが忘れられるような気がする。

 高橋都彦さんが訳されたペソアの『不安の書』を読んでいると、記述の矛盾が気になって、だんだん読むのが苦痛になってきた。全訳だからかもしれない。澤田直さんが訳された、平凡社から出てる『新編 不穏の書、断章』は、よいものだけピックアップしてあったので、たいへんおもしろかったのだが。でも、高い本だったので、もったいないので、さいごまで読むつもりだけど。貧乏なので、つい、そういう気持ちになってしまう。まあ、高い本なのに、買ってからまったく読んでないものもあれば、ナボコフの全短篇集のように、読むのを中断しているものもあるけれど。とりあえず、歯を磨いて、ペソアの『不安の書』のつづきを読もう。論理的に詰めが甘いところが多々ある。記述の矛盾も、文学的効果というより、うっかりミスかなと思われるところも少なくない。全訳読むと、ちょっと、ぼくのなかでのペソアの評価がさがってしまった。


二〇一五年十一月十三日 「ケイちゃん」


あめがしどいなあ。しごとだ。いってきます。

 レックバリの『人魚姫』あと少しで読み終わる。不覚にも、涙が出てしまった。レックバリ、そりゃ売れるわと思った。読み捨てるけど。本棚に残して、ひとに見られたら一生の不覚という類の作家。

 そうとう飽きてきたけれど、これからペソアの『不安の書』のつづきを読む。あしたは、バーベQ。

田中宏輔は童貞で純粋でビッチでホモでオタクでヘタレです。
https://shindanmaker.com/495863

「田中宏輔」がモテない最大の理由
【 い ち い ち セ コ い 】 
https://shindanmaker.com/323387

田中宏輔さんのホモ率は…
74% 平凡より少し上です
https://shindanmaker.com/577787

 いまはもうなくなった、出入口。阪急電車の。高島屋の向かい側。西北角。コンクリートの階段。そこに、ぼくは、ケイちゃんとぼくを坐らせる。ケイちゃんは23才で、ぼくは21才だった。そこに、夕方の河原町の喧騒をもってくる。たくさんの忙しい足が、ケイちゃんとぼくの目のまえを通り過ぎていく。ふたりの肩を触れさせる。ふたりの肩を離す。ふたりの肩を触れさせる。ふたりの肩を離す。繰り返させる。ケイちゃんに訊かせる。「きょう、おれんち、泊まる?」「泊まれない。」ぼくに答えさせる。ふたりの目は通り過ぎていく足を見ている。目はどこにもとまらない。大学生になっても親がうるさくて、外泊がむずかしかった。ふたりの肩を触れさせる。ふたりの肩を離す。ふたりの肩を触れさせる。ふたりの肩を離す。繰り返させる。このときのぼくのなかに、この会話のほかの会話の記憶がない。ただただたくさん、足が通り過ぎていったのだった。数十分、ぼくは、ケイちゃんと、ぼくを坐らせたあと、ふたりの姿を、いまはもうなくなった、出入口。阪急電車の。高島屋の向かい側。西北角。コンクリートの階段。そこから除く。ふたりの姿のない、たくさんの足が通り過ぎていく風景を、もうしばらく置く。足元をクローズアップしていく。足音が大きくなっていく。プツンッと音がして、画面が変わる。ふたりの姿があったところにタバコの吸い殻が捨てられ、革靴の爪先で火が揉み消される。数時間後の風景を添えてみたのだ。架空のものの。(『13の過去(仮題)』の素材)あちゃー、現実だけをチョイスするんだった。タバコの吸い殻のシーンは除去しよう。読書に戻る。

 シャーリイ・ジャクスンの短篇集『なんでもない一日』 (創元推理文庫) これは買わなければならない。

 記憶とはなんとおもしろいものなのか。無意識の働きとはなんとおもしろいものなのか。ケイちゃんの名字も山田だった。ヤンキーの不良デブのバイの子も山田くんだった。彼が高校3年のときにはじめて出合ってそれから数年後から10年ほどのあいだ付き合ってたのだ。怪獣ブースカみたいなヤンキーデブ。

 ケイちゃんの記憶が3つある。ヤンキーデブの山田くんの記憶はたくさんある。ほとんどセックスに関する記憶だ。不良だったが人間らしいところもあった。


二〇一五年十一月十四日 「バーベQ」


 きょうは、えいちゃん主催のバーベQだった。炭になかなか火がつかなくって、みんな苦労して火を熾してた。お肉がおいしかった。お酒もちょびっと飲んだ。禁酒してたけど。

セブイレにサラダを買いに行こう。

 バーベQから帰ってきたら、『まるちゃんのサンドイッチ詩、その他の詩篇』の再校のPDFが送られていた。これからプリントアウトしてチェックする。

ゲラチェック、つらすぎ。

 ゲラチェックはスムーズに行くようになった。『全行引用詩・五部作』の上巻と下巻に比べたら、めっちゃ楽。基本、ぼくの詩句だから、間違ってても、どってことない。引用部分だけに気をつけていればいいのだから。あしたじゅうに、ゲラチェック終えられると思う。だいぶ精神的に立ち直った。よかった。

もうそろそろクスリのんで寝る。おやすみ、グッジョブ!

 あした、病院に行くの、おぼえておかなきゃ。ついでに、ジュンク堂で、S・ジャクスンの新刊を買おうっと。


二〇一五年十一月十五日 「だまってると、かわいいひと。」


 だまってると、かわいいひと。しゃべってると、かわいいひと。だまってても、しゃべってても、かわいいひと。だまっていなくても、しゃべっていなくても、かわいいひと。だまってると、かわいくないひと。しゃべってると、かわいくないひと。だまってても、しゃべってても、かわいくないひと。だまっていなくても、しゃべっていなくても、かわいくないひと。

 朝から、『まるちゃんのサンドイッチ詩、その他の詩篇』の再校のゲラチェックをし終わって、手直ししたところをワードにコピペした。あと、もう一度、点検したら、送ろう。『全行引用詩・五部作』のことを思ったら、ぜんぜんちょろいものだった。あー、ちかれた。ちょっと休憩して、サラダ買いに行こ。

『まるちゃんのサンドイッチ詩、その他の詩篇』の再校のゲラチェック、2回目完了。これから病院に。帰ってきたら、3回目の再校のゲラチェックして、訂正部分をPDFにして、メール添付して送ろう。

 いま帰ってきた。シャーリイ・ジャクスン1冊、ジーン・ウルフ2冊で、6500円ちょっとだったかな。まあ、ぼくの一日の労働に対する給金分くらいである。いつ読むか、わからんけど、買っておいた。ジーン・ウルフのは、棚に平置きされてるのがごっそり数が少なくなってたから、売れているのだろう。

 きょうは、晩ご飯を食べよう。これからイーオンに買いに行く。お弁当にするか、フランスパンにするか。

 再校の直しを書いたワードを見直しているのだが、何度、見直しても、その見直しに直すべき個所が出てくる。ぼくのテキストが異様なのか、ぼく自身が異様なのか。それとも、これがふつうなのかな。ちょっと球形して、もう一度、見直して、PDFにして送ろう。

 ようやく、『まるちゃんのサンドイッチ詩、その他の詩篇』の再校のゲラチェックしたものを送付した。全行引用詩は3週間かかったけれど、これは24時間以内にできた。楽チンだった。来年も、思潮社オンデマンドから3冊出すことにしている。ゲラチェックに時間をとられないように、目を鍛えておこう。

 きょうの残りの時間は、きょう買った、シャーリイ・ジャクスンの短篇集『なんでもない一日』の表紙をじっくり眺めて、解説を読んで眠ろう。本のきれいなカヴァーを見ると、幸せな気分に浸れる。基本的にきれいなものが好きなのだ。音楽も、詩も、絵画も、映画も。そこに奇妙さが加わると、たまらない。


二〇一五年十一月十六日 「ちょっとしたことが、すごく痛かった。」


 仕事に。詩集のことがほとんど終わったので、気分が楽。数学と読書に集中できる。

 きょうからお風呂場では、20TH-CENTURY POETRY & POETICS をのつづきを読む。きょうは、ロバート・フロストの DEPARTMENTAL。ひさびさにフロストの原詩を読む。

 退屈な読み物になってしまっているペソアの『不安の書』だけど、惰性で読みつづけることにした。まだ218ページ。あと、この2倍ほどの分量がある。シャーリイ・ジャクスンの『なんでもない一日』のなかのエッセイや短篇をつまみ食いしてるけど。ミエヴィルの『都市と都市』は中断してしまっている。

 仕事帰りに日知庵に寄って、てんぷらとご飯を食べて、その帰りにジュンク堂に寄って、本棚を見てたら、ケリー・リンクの『プリティ・モンスターズ』を見つけて、びっくりして買った。第3短篇集だけど、昨年に出てるの、知らなかったのだ。ケリー・リンクも、ぼくの文学界でのアイドルである。クスリのんで横になって、ペソアを読む。おやすみ、グッジョブ!

 歯磨きチューブを足の指の先に落として、めっちゃ痛くって泣きそうになった。泣かなかったけれど。こんなに痛くなるんだ、歯磨きチューブのくせに。どんな角度で落ちたんだろう。あした、指の爪のところが変色していませんように。寝るまえの出来事としては衝撃的だった。


二〇一五年十一月十七日 「午後には非該当する程度には雨が降るとより良い」


『まるちゃんのサンドイッチ詩、その他の詩篇』の三校が送られてきたので、即行チェック、5分でチェックが終わった。3カ所の直しで、終わり。即行、ワードに直しの箇所を書いて、送付した。この間、わずか30分ほど。念校は秒単位でチェックができると思う。チェックの能力がひじょうに高くなった。

 これからセブイレに行って、サラダとドーナッツを買ってこよう。それからお風呂に入って、塾だ。サイボーグゼロゼロナインのように、加速装置でも付いてるかのよう。きょうは仕事が速い。BEENZINO のミニアルバムが届いた。すばらしい音だ。hyukoh のアルバムがほしい。いま一番ほしい。

 午後には非該当する程度に雨が降るとより良い気分にされたスパイシーな射撃のためになる近所の増加が非常に安全保障のこれら4つの黒い子供の電子免れた写真は撮影しようとするいくつかの3つが入って失敗の笑顔は笑顔でも撮ると脇もないトイレを検索し、そう、私は真のライブは私の精神はないようだ。

 これからお風呂に、それから塾に。お風呂場では、ロバート・フロストの『DESERT PLACES』、『NEITHER OUT FAR NOR IN DEEP』、『DESIGN』を読む。3つとも短詩だけど、どだろ。3つ読めるかな。


二〇一五年十一月十八日 「ペンギンは熟さない。」


ペンギンは熟さない。


二〇一五年十一月十九日 「どうせ痛いんだったら、痛みにも意味を見つけないとね。」


 いま帰ってきた。学校の帰りに、大谷良太くんちに寄った。ドーナッツとコーヒーで、ひとときを過ごした。左半身の血流が悪くて、とくに左手が冷たい。父親がリュウマチだったので、その心配もあるが、叔母が筋ジスだったので、その心配もある。まあ、なるようになるしかない。それが人生かなって思う。

 西院駅からの帰り道、セブイレで、サラダとおにぎりを買ってきた。これが晩ご飯だけど、お茶といっしょに買ったら、600円くらいした。こんなもんなんだ、ぼくの生活は。と思った。あしたは、イーオンでフランスパンを買おう。そう決心したのだった。きょうは、ペソアの『不安の書』のつづきを読む。

 あさって京都詩人会に持っていく新しい詩というのがなくて、このあいだツイートした『13の過去(仮題)』の素材をつかって書こうかなと思っているのだが、いま、ふと、過去の記憶を素材にしたあの場面の記憶というのが、ぼくを外側から見たぼくの記憶であったことに気がついた。ぼくの内部を、ぼくは見たこともないので、わからないが、そう単純に、ぼくを内部と外部に分けられないとも思うのだけれども、ぼくの記憶の視線が構成する情景は、ぼくが目で見た光景に、ぼくと、ぼくといっしょにいたケイちゃんを、そこに置くというものであったのだった。そう思い返してみると、ぼくの記憶とは、そういうふうに、ぼくが見た光景のなかに、その光景を目にしたぼくを置く、というものであるのだということに、いま気がついたのであった。ぼくの場合は、だけれども、ぼくの記憶とは、そういうものであるらしい。54年も生きてきて、いま、そんなことに気がつくなんて、自分でも驚くけれども、そう気がつかないで生きつづけていた可能性もあったわけで、記憶の在り方を、振り返る機会が持ててよかったと思う。嗅覚の記憶もあるが、視覚の記憶が圧倒的に多くて、その記憶の在り方について、ごくささいな考察であるが、できてよかった。とはいっても、これはまだ入り口であるようにも思う。自分が見た光景のなかに自分の姿を置くという「映像」がなぜ記憶として残っているのか、あるいは、記憶として再構成されるのか、そして、そもそものところ、自分が見た光景に自分の姿を置くということが、頭のなかではあるが、なぜなされるのか、といったことを考えると、かなり、思考について考えることができるように思われるからだ。ぼくが詩を書く目的のひとつである、「思考とは何か」について、『13の過去(仮題)』は考えさせてくれるだろう。ぼくの記憶は、ぼくが見た光景のなかに、その光景を目にしたときのぼくの姿を置くということで記憶に残されている、あるいは、再構成されるということがわかった。他者にとってはささいな発見であろうが、ぼくの思考や詩論にとっては、大いに意義のある発見であった。その意義のひとつになると思うのだが、自分の姿というものを見るというのは、現実の視線が捉えた映像ではないはずである。そのときの自分の姿を想像しての自分の姿である。したがって、記憶というものの成り立ちのさいしょから、非現実というか、想像というものが関与していたということである。記憶。それは、そもそものはじめから、想像というものが関与していたものであったということである。偽の記憶がときどき紛れ込むことがあるが、偽の記憶というと、本物の記憶があるという前提でのものであるが、そもそものところ、本物の記憶というもののなかに、非現実の、架空の要素が潜んでいたのだった。というか、それは潜んでいたのではなかったかもしれない。というのも、記憶の少なくない部分が、現実の視覚が捉えた映像によるものではない可能性だってあるのだから。スタンダールの『恋愛論』のなかにある、「記憶の結晶作用」のことが、ふと、頭に思い浮かんだのであるが、自分がそうであった姿を想像して、自分の姿を、自分が見た光景のなかに置くのではなく、自分を、また、いっしょにいた相手を美化して、あるいは、反対に、貶めて記憶している可能性があるのである。というか、自分がそうであった姿を、そのままに見ることなど、はなからできないことなのかもしれない。そのような視線をもつことができる人間がいるとしても、ぼくは、そのような視線をもっていると言える自信がまったくないし、まわりにいる友だちたちを見回しても、そのような能力を有している友人は見当たらない。いくら冷静な人間でも、つねに冷静であるというようなことはあり得ない。まして、自分自身のことを、美化もせず、貶めもせずに、つねに冷静に見ることなど、できるものではないだろう。「偽の記憶」について、こんど思潮社オンデマンドから出る『全行引用詩・五部作・下巻』のなかのひとつの作品で詳しく書いたけれども、引用で詩論を展開したのだが、そもそものところ、記憶というものは偽物だったのである。記憶というもの自身、偽物だったのである。現実をありのまま留めている記憶などというものは、どこにもないのであった。たとえ、写真が存在して、それを目のまえにしても、それを見る記憶は脳が保存している、あるいは、再構成するものであるのだから、そこには、想像の目がつくる偽の視線が生じるのであった。

 そろそろクスリをのんで寝る。身体はボロボロになっていくけれども、まだまだ脳は働いているようだ。より繊細になっているような気がする。より神経質に、と言ったほうがよいかもしれないけれど。おやすみ、グッジョブ!

 齢をとって、身体はガタがきて、ボロボロになり、しじゅう、頭や関節や筋肉や皮膚に痛みがあるけれども、この痛みが、ぼくのこころの目を澄ませているのかもしれない。齢をとって、こころがより繊細になったような気がするのだ。より神経質に、かもしれないけれども。

 睡眠導入剤と精神安定剤をのんで、ゴミを出しに部屋を出たとき、マンションの玄関の扉を開けたときに、その冷たい玄関の重いドアノブに手をかけて押し開いたときに、ふと、そういう思いが去来したのであった。痛み、痛み、痛み。これは苦痛だけれども、恩寵でもある。


二〇一五年十一月二十日 「足に髭のあるひと。髭に足のあるひと。」


足に髭のあるひと。
髭に足のあるひと。


二〇一五年十一月二十一日 「記憶」


 なぜか、こころが無性につらいので、シャーリイ・ジャクスンの短篇集『なんでもない一日』のつづきを読んで寝る。朝、目覚めずに死んでいたい。

 目覚めた。生きている。夢を見たが忘れた。上半身左、とくに肘関節と肩から肘にかけての筋肉の痛みが半端ではない。そうだ。夢のなかで、細くなった自分の足首を見てた。いま足首を見たが、いま見てる足首よりも細かった。なにを意味しているのだろう。あるいは、なにを意味していないのだろうか。

 きょうやる予定の数学のお仕事が終わったので、あした京都詩人会の会合に持って行く『13の過去(仮題)』の素材データをつくろう。夕方から、日知庵で皿洗いのバイト。

『13の過去(仮題)』のさいしょの作品になるかもしれないものを、ワードに書き込んだ。14日のツイートと、きのうのツイートを合わせて、手を入れただけのものだが、じつはほかのものを、さいしょのものにしようとしていたのだったが、ぼくの文体では、いつでもさいしょの予定のものを組み込める。

これからお風呂に、それから日知庵に行く。

 さっきまで竹上さんと、パフェを食べながらオースティンの話とかしてた。また記憶について話をしていて、ぼくと竹上さんの記憶の仕方について違いがあることを知った。もしかしたら、ひとりひとり記憶の仕方が違うのかもしれない。あした京都詩人会で、大谷くんととよよんさんにも訊いてみようと思う。


二〇一五年十一月二十二日 「理不尽。理不の神。」


 きょうは、これから京都詩人会の会合。夜は雨だそうだから、カサを持っていかなくちゃね。行くまえに、どこかで、なんか食べよう。

 京都詩人会の会合が終わって、隈本総合飲食店に、とよよんさんと、竹上さんと行って、食事した。12月の京都詩人会の会合はお休みで、つぎは1月の予定。身体がきついので、いろいろ後回しにするけれど、ごめんなさい。元気になれば、動きます。

 竹上さんと、大谷くんは、自分の後ろから自分が見た感じの映像の記憶のよう。とよよんさんは、自分が目にした映像の記憶のよう。前方や横からぼく自身を見るぼくの記憶の仕方は、作品化を無意識のうちに行っている可能性がある。大谷くんから、「現実の記憶」ではなく「記憶の現実」という言葉を聞く。

 とよよんさんに、かわいらしい栞をいただいた。さっそく、シャーリイ・ジャクスンの短篇集『なんでもない一日』に挟む。ペソアの詩集というか論考集というか散文集『不安の書』に挟む。ミエヴィルのSF小説というかミステリー小説『都市と都市』に挟む。コーヒーもいただいた。あした、仕事場で飲む。

 きょうは、もうクスリをのんで寝る。楽しい夢を見れるような本を読めばいいのだろうけれど、本棚にあるすべての本が、楽しい夢を見れるような本ではない。クスリをのんだ。効いてくるのは1時間ほどあと。きのう竹上さんに話したことのひとつ。スウェターリッチの『明日と明日』をすすめたのだが、まったく物語を憶えていなかったのだった。ジェイムズ・メリルの詩集をまったく憶えていなかったようにだ。傑作だと思っていたのだが、記憶にないのだった。いま、シャーリイ・ジャクスンの短篇集の読んでいたページを開いても、同じように記憶がないのだった。まえのページを開けて、読むと、ようやく思い出された。ペソアは寝るまえに読んでも、ほとんど記憶できないと思うので、シャーリイ・ジャクスンの短篇集『なんでもない一日』を読もう。きのう竹上さんとディックの話もした。ディックが不遇だったことと、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』というタイトルのよさ。同じディックでも、ディック・フランシスの作品のタイトルの味気無さについて。ディケンズ、ジョージ・エリオット、ゾラ、バルザックの作品について話を聞いてた。なつかしいものも知らないものもあった。そうだ。オースティンの『高慢と偏見』の話でも盛り上がったのだが、竹上さんに、P・D・ジェイムズを以前にすすめたのだが、さっそく、『正義』の上下巻を読んでくれたらしい。これまた傑作だと思ってすすめたのだが、聞くと、ぼくが記憶していた物語ではなかった。20代から起こっていたのだが、作品を取り違えたり、融合させてしまったりして、これまた偽の記憶を持ってしまっていたのだった。「そして、だれもがナポレオン」の話を以前に『詩の日めくり』に書いたが、いまだに、だれの言葉だったか、ぼくのだったかわからない。マイクル・スワンウィックの『大潮の道』も、竹上さんに以前にすすめたと思うのだが、きのう、読んでよかったとの感想が聞けてよかった。いま Amazon で、いくら? と尋ねると、調べてくれた。1円だった。傑作なのに、1円である。「理不尽。理不の神である。」(キングオブコメディのコント、今野浩喜くんのセリフから引用)

眠気が起こった。PC消して横になる。おやすみ、グッジョブ!


二〇一五年十一月二十三日 「ユルい体型」


起きた。お風呂に入って、学校に。

 夕方から塾。塾に行くまえに晩ご飯を食べよう。イーオンに行って、フランスパンを買ってこよう。あと、コンビニで、レタスのサラダとスライスチーズとお茶を。

塾へ。

 塾から帰ってきたら、カードの請求書が来てて、今回はたくさんCDを買ったのだけれど、安いものが多かった。4000円を超えてるのは、本だと思うのだが、どの本を買ったのか、すぐにはわからず。ああ、ペソアだな。違うかな。違うか。ペソアは、5000円を超えてたな。なんだろう、記録を見よう。

 彩流社のペソア本2冊『ポルトガルの海』と『ペソアと歩くリスボン』が一回の請求になってて4428円だった。まぎらわしい。soul II soul のCDの記録を見ると、3つほど、1円で買ってる。流れのいいアルバムで、イージー・リスニングにいいのにね。ペソア本では、平凡社の『新編・不穏の書・断章』がいちばんよかったと思うのだけれど、思潮社海外文庫の『ペソア詩集』も、いま読んでる、『不安の書』もよいと思う。ただし、もう、「不穏の書(不安の書)』を読むのは、3冊目なので、既視感バリバリなのだけれど。

 郵便ボックスには、カードの請求書といっしょに、校了になる雑誌のゲラも届いてたのだけれど、きょうは、もう自分の原稿のチェックをする体力がないので、あしたの朝にすることにして、クスリのんで寝る。おやすみ、グッジョブ!

 寝るまえの読書は、ペソアの『不安の書』。ようやく300ページ超えた。これで半分ほど。ぼくも600ページほどの詩集をつくりたい。あ、つくってるか。『Forest。』が500ページを超えてた。来年も、思潮社オンデマンドから3冊出す予定だが、合わせて、1000ページを超えさせるつもり。

 ふと、ユル専という言葉を思いついた。ユルい体型が好きな人たちのことだけど、デブ専とポチャ専のあいだくらいかな。デブ専のDVDをちらっと見たら、ほんとすごくて、考えられない体型してるけれど、ポチャ専だと、まだかわいらしい。でも、ユルい体型だということは、精神的にもユルいんだろうな。

 でも、ぼくの知ってるおデブさんはみな繊細。どうして、中身と外見が違っちゃうんだろうな。クスリがちょっと効いてきた。PC切って寝る。二度目のおやすみ、グッジョブ!


二〇一五年十一月二十四日 「ぼくの身体の半分は、かっぱえびせんからできている。」


これから仕事に。

 Amazon で買ったCDが、きょうくらいに届く予定だったのだが、メールで、入荷もできない可能性があると連絡してきた。どういうことだろう? 事情がさっぱりわからない。  BEENZINO のアルバムなのだが。

晩ご飯を買いにコンビニまで行く。サラダとカッパえびせんかな、笑。

どん兵衛とカッパえびせんだった。

塾へ。

 塾の帰りに赤飯と穴子の天ぷらを買った。ダイエットは、1週間ちょっと忘れることにした。とよよんさんがリツーイトしていた切手があまりにきれいで、しばし、うっとり。でも、もう手紙など書く習慣がなくなったので、買わないけれど、眺めることは、眺める。おいしそうだなあ。すごい発想だなあ。すばらしい発想の切手を見てると、なぜか、ウルトラQが見たくなったので、DVDを見ることにした。蜘蛛男爵がいちばん好きだけど、1/8計画も好き。両方、見ちゃおうかな。見ながら、食べようっと。

「このときのぼくの気持ちは、どんなものだったのだろう? わからない。」というのが、このあいだ書いた、『13の過去(仮題)』のキーワードだろうか。と、塾からの帰り道、スーパー「マツモト」で半額になった弁当を買って、それぶら下げて歩きながら考えていた。12月から、英語も教えることに。

二〇一五年十一月二十五日 「なんでもない一日」

 学校の帰りに、大谷良太くんとミスドでコーヒー飲みながら、くっちゃべってた。ぼくは聞き手に回ることが多いけれど、話を聞きながら、ぼく自身はなんとなく哲学の方向に行くような気がした。まあ、知識がないから素人哲学になっちゃうんだろうけれど。そいえば、詩も素人だけど、ずっと素人だろうな。

シャーリイ・ジャクスンの短篇集『なんでもない一日』を読みふけっている。

 きょうは、ドーナッツを朝と昼と夜に食べた。ダイエットを忘れてた。あしたから、またダイエットする。どうして忘れてしまうのだろうか。しかし、きょうは、疲れていたし、ここ数週間、体調、まったくダメだったし、ストレスすごかったし、ドーナッツ、ばかばか食べたのだと思う。あしたから自重する。

 帰りにセブンイレブンでサラダを買って食べたので、これからかっぱえびせんを買いに行く。きょうは、食べまくって死んでもいいような気がしている。左手が右手よりずっと冷たい。左半分が腐って落ちてしまうかもしれない。半分だけ死ぬってことなのかもしれない。なんでこんなに体温が違うのだろうか。

 あした一日中、数学するので、きょうは、もう寝る。12月になったら、英語の勉強もする。勉強して教える。これを過去形にすると、ぼくの人生を要約した言葉になる。「勉強して教えた。」句点を入れて、8文字だ。「どうにか生きた。」でも、8文字だ。「なんとか生きた。」でも、8文字だ。うううん。

 FBフレンドの方があげてらっしゃる食べ物の写真がとてもおいしそうで、いいなあと思った。ぼくが食べるものって、10種類もないんじゃないかな。何十年も同じようなものを食べてる。さっきツイートに、トマト鍋なるものをあげてらっしゃる方がいらして、ぼくもやってみようかなって思った。あした。

 おとついかな。とよよんさんがツイッターで書いてらっしゃったのだけれど、ぼくの『全行引用詩』の表紙画像の上巻と下巻の時間が逆だった。ビールの入ってる量を比較してわかった。とよよんさん、鋭い。いま表紙画像をあらためて見てわかった。二度目のおやすみ、グッジョブ! PC切って、寝まする。ドボンッ↓

PCつけた。

 もう夜はぼくのものじゃなくなった。クスリをのんで眠るようになったからだ。20代、30代のときは、夜中まで起きてた。朝まで起きてたこともよくあった。下鴨や北山に住んでたころだ。ジミーちゃんと夜中までうろうろしてた。いつか、自販機を蹴り倒そうとしている少年に出合ったことがある。真夜中だ。だれも警察に通報しなかった。なぜだか知らないけれど。府立資料館のまえの道を歩きながら、その少年が自販機を蹴りまくっていたことを憶えている。ぼくたちは、ぼくとジミーちゃんは、居酒屋からの帰り道、ヨッパの状態で、それを見てた。不思議だった。月明かりのしたで、ぼくと、ジミーちゃんと、その少年しか道にいなくて、その少年が自販機を蹴りまくる音が道路に響き渡っていたのだった。バンバンという大きな音がしているのに、だれも外に出てこず、警察にも通報せず、という状態だった。ぼくと、ジミーちゃんは、そのあと、たぶん、ぼくの部屋で、飲みのつづきだったと思う。このエピソードは、『13の過去(仮題)』に入れるほどのものではないかな。そうでもないか。なにしろ、いまでは、もう夜が、ぼくのものではないということの意味のひとつを書いたのだから。


二〇一五年十一月二十六日 「ぼくは画家になりたかった。」


 お昼を買いに行く。トマト鍋をつくろうと思ったけれど、フランスパンとチーズとサラダとミルクにしようと思う。『ジェニーの肖像』に出てくる貧しい画家の食事だ。というか、フランス・ロマン派の作家が描く貧しい詩人や画家の食事である。ぼくのあこがれでもある。ぼくはいちばん画家になりたかった。ジャック・フィニイはフランスの作家ではないけれど。そいえば、O・ヘンリーの作品に出てくる貧しい建築設計家の食事も(と、パン屋の女性経営者は思っていたが)古くなって半額になった固いフランスパンだった。貧しさを楽しんでる部分も会って、自分がわからない。10年、20年、同じ服を着て、無精ひげで、さえない顔をして、古本をリュックにいっぱい入れて、公園で本を読んでたり、マクドナルドやミスドでコーヒー飲みながら本を読んでたり、まあ、よく言えば、知的なコジキ、悪く言えば、少し清潔なコジキといったところか。25才で、家を出て、10年ほど、親に会っていなかったのだけれど、久しぶりに再会したとき、継母が、ぼくの姿がコジキみたいになっていると言って泣いた。河原町のど真ん中で泣かれて困ったけれど、そういう継母とぼくの姿を、ドラマのようだなと見てるぼくがいた。

 パンを買いにイーオンに行く。きょう、あすは数学のお仕事をしなければならない。頭がはっきりしないけれど。まだはっきり目覚めていないのかもしれない。

 バケット半分151円とバナナ5本100円と烏龍茶106円を買ってきた。これを、きょう一日の食事にしたい。

 バケット食べてて口のなかを切った。パンを口もとから離して見てみたら、パンに血が付いてた。どうやら歯で口のなかの肉を噛んでしまったらしい。たしかに口のなかの肉に痛みを感じる。神経系がおかしくなっているのかもしれない。はやく死ねばいいのにグズグズしてる。ちょっと球形して、お仕事する。

 寝てた。仕事せず。コンビニにサラダを買いに行こう。帰ってサラダを食べて、また寝そう。それくらい、しんどい。しんどいときは、寝てもいいと思う。

 イーオンでチゲ定食を食べた。790円。帰りに、セブンイレブンでかっぱえびせんを買った。薄弱な意志力が強固である。仕事まったくせず。ここでも、薄弱な意志力を発揮している。とにかく、しんどいので、寝よう。

 きょう、セブンイレブンからの帰り道、住んでるところのすぐ近くで、スポーツやってそうな少年に、「こんにちは!」って声をかけられてびっくりしたけれど、ぼくも、こんにちは、と返事した。知らない男の子だったのだけれど、あいさつされると気分がよい。しつけのいい家の子なのだろうと思う。

 きょうは、仕事をいっさいせずに、音楽をずっと聴いてた。Brown Eyed Soul のアルバムを買おうかどうか迷っている。カセット付きのCDなんだけど、カセットなんか再生する装置がないんだけど。

 ぼくが21才で、彼も22、3才だったと思うけど、Brown Eyed Soul の Thank You Soul ってシングル(のアルバム)を聴いてて思い出したのだけれど、彼んちに泊まって、つぎの日の朝の喫茶店で、って彼の実家の喫茶店なのだけど、窓の外を見てた光景が思いだされた。それと同時に、滋賀県の青年のことが思い出されたのだけれど、ぼくのことも、あるひとにとっては、何人かの思い出と同時に思い出されてる可能性もあるってことかな。ぼくの知らないだれかといっしょに思い出されてるって。そういうこともあるだろうな。そのだれかて、ぼくとはぜんぜん似てなかったり。ぜんぜんぼくとは違うだれかと、ぼくがいっしょに思い出されてるって思うと、おもしろい。けど、もう54歳にもなると、だれかを愛することってないけれど(少なくとも、ぼくにはもうね)ぼくが愛さなくなると同時に、ぼくも愛されないと考えると、いっしゅ、すがすがしい思いでいられるのは、事実だ。だけど、そう、だけど、だけど、愛した子の顔は、しっかり覚えてて、その子たちも、ぼくの顔は覚えててくれて、この地上ではもう二度と会うことはなくっても、あの世っていうのかな、天国では、「やあ!」とか「ひさしぶりぃ。」とか「元気にしてる?」とかって声はかけ合うような気はする。

 今晩、いい夢が見れるかな。見れるような気がする。Brown Eyed Soul の Thank You Soul ってシングル(アルバムかな)を何回も聴いてて、そんな気がしてる。ありがとう、魂、か。ノブユキ、歯磨き、紙飛行機。ありがとう、魂か。もっとたくさん、もうたくさん。

 うつくしい曲を聴くと、むかしあったことがつぎつぎと思い出される。大阪の彼の喫茶店は、彼と、彼のお姉さんがやってて、ぼくたちは、窓の外の景色を見ながらコーヒーを飲んでた。朝だった。流れる川と、小さな黒い点々がちらつく川岸。ってことは、朝までいっしょにいたんだ。ここまで思い出した。

 名前が思い出せない作曲家の子と付き合ってたことがあって、その子の頬が赤かったことは憶えてる。大坂の子の頬も赤かった。ぼくは若かったから、なんか、その頬の赤い色って、田舎者って感じがして、ちょっとばかにしてた。いまなら、その赤い頬を見て、健康的で、かわいいなって思うんだろうけれど。ああ、小倉●●くんだ。その作曲家の子の名前、4、5年も付き合ったのに、名前を忘れてた。お金持ちで、ぼくが別れたいって言ったとき、いろいろなものをくれるって言ってたけれど、ぼくはなにもいらないと言ったのだった。さいごに会った日、とっておきの服を着てきたのに、ってバカなことを言ってた。ぼくの『陽の埋葬』を読んで、「売れないものを書く意味があるの?」って言ってた。彼の曲は売れてるものもあって、「ひとを幸せにするのが芸術だよ。ひとを幸せにする芸術だけが売れるんだよ。あっちゃんのは、いったいだれを幸せにしてるの?」って言われた。返事もしないで、顔をそむけてたと思う。それももう、10年も、20年もむかしの話だ。彼は音楽的にも成功して、ますますお金持ちになっているらしい。どうでもよいことだし、彼の芸術観は、ぼくのものとはまったく違っていたし。もう愛していた記憶もなくなっている。いっしょに食事をした記憶くらいしかない。きょう、居酒屋さんで飲んでて、ひとりのお客さんが、「人生は成功しなくちゃ意味がない。」とおっしゃられて、ぼくは、すかさず、「成功するとかしないとかじゃなくて、そのひとが幸せに感じて生きているかどうかではないのですか」と言った。ぼくより年上の方に言って、少し申し訳なく思ったけれど。

 朝、目が覚める。ノブユキは、朝、目が覚めなかったらって考えたら怖いって言ってた。ぼくが28才で、ノブユキは20才だった。ぼくは何度も自殺未遂してたくらいに、中学生のときから自殺して死にたいって思ってたひとだから、朝、目が覚めないことほど幸せなことはないと思ってた。それも、もう昔。

 自殺しないですんでいるのは、世界には、まだぼくの知らないうつくしい音楽や詩や小説があるからだと思う。ぼくのまだ知らない音楽や詩や小説がなければ、ぼくが生きている意味がない。

 そろそろ、クスリのんで寝る。クスリが効くのが1時間後くらいだから、ちょっと遅いかな。はやく効きますように。


二〇一五年十一月二十七日 「ユキ」


 すこぶる気分がよい。きょう部屋に遊びにきてくれた子が、いちばん顔がかわいらしい。ぼくの半分くらいの齢の男の子だ。54才のジジイといて、気分よく、時間を過ごしてくれているようだった。『ダフニスとクロエ』のなかで、老人が少年にキスをしようとして、あつかましいと断られるシーンがあった。むかしで言えば、ぼくはもう十分にジジイだ。かわいらしい子にチューをしても断られずにすむ自分がいて、とてもうれしい。若いときは、世界は、ぼくに無関心だったし、えげつなくて残酷だった。いまでもぼくには無関心だろうけれど、残酷ではなくなった。齢をとり、美しさを失い、健康を損なってしまったけれど、人生がこんなにおもしろい、楽しいものだと、世界は教えてくれるようになった。ぼくがまだまだ学ぶ気持ちがいっぱいで生きているからだろうと思う。きょうは、言葉にして、神さまに感謝して眠ろう。おやすみ。


二〇一五年十一月二十八日 「コンピューター文芸学」


 コンピューター文芸学については、ほとんど知らないのだが、はやりはじめのころ、もう4分の1世紀以上もむかしのことだが、ドイツ文学者の河野 収さんに、いくつか論文の別刷をいただいて読んだくらいなのだが、さいしょは、聖書にどれどれの文字が何回出てくるかとかいったことに使っていたようだ。やがて、詩や小説のなかに出てくるキーワードの出現頻度を調べたりして、文体研究に使ったり、作者の同定に使ったりするようになったのだろうけれど、シロートのぼくが言うのもおこがましいだろうけれど、たとえば、「目」という言葉でも、文脈によって意味が変わる。たとえば、さいころのようなものの「目」であったり、眼球の「目」であったり、こんな目にあったの「目」であったり。ということは、同じ言葉でも意味が異なるので、同じ言葉ではなくなっているのではないかということである。どうなのだろうか。そこらへんのところ。


二〇一五年十一月二十九日 「エイジくん」


 日付けのないメモ「スウェットの上下、ジャージじゃなく」 たぶん、これは、京大のエイジくんのことだと思う。紫色のゴアテックスの上等そうなスウェットを着てたんだけど、ぼくはスウェットという言葉を知らなくて、だれかに聞いたんだと思う。ペラペラの白い紙の端切れに書いてあった。捨てよう。


二〇一五年十一月三十日 「バカ2人組」


 きょうは、晩ご飯を食べた。昼に、数か月ぶりに天下一品に行って、チャーハンセットを頼んだのだが、あとから来た2人組の肉体労働者風の男のまえに先に店員がチャーハンを置いたのだった。ぼくはラーメンを半分食べたところだった。二人組がにやにやして「返そうか」と言ったが無視して、ぼくのチャーハンになるはずだったチャーハンを男が食べるのを視界に入れないようにしていた。すぐにぼくのほうのものがつくられて出てきたので、ラーメン残り3分の1をおいしくチャーハンと食べれた。肉体労働者風の男たち二人には、ぼくが食べ終わるまでラーメンは来ず、葬式のような雰囲気で、一つのチャーハンを一方の男が食べておった。真昼間のクソ忙しい時間の天下一品でのヒトコマである。いい気味であった。しかし、悪いのは、ぼくのまえに置くべきだったチャーハンを、あとから来て注文した男に先に出した中年女の店員であった。一つのチャーハンしか目のまえに置かれていない葬式のような暗い雰囲気になった、隣のテーブルに坐った肉体労働者風の二人の男たちをあとにして、ぼくは、おいしくラーメンとチャーハンをいただいて、勘定を払って店を出たのであった。どれくらいの時間、ラーメンが二人の目のまえに出されなかったのか、想像していい気持だった。一生、来なければ、おもしろいのに、とかとか思った。神さま、ごめんなさい。たとえ、愚かな男たちが、ぼくのチャーハンが間違えて置かれたことで、ぼくを愚弄しても、ぼくがその男たちの不幸を笑うようなことがあってはいけませんね。神さま、ごめんなさい。反省します。このことを反省して、きょうは寝よう。おやすみ、グッジョブ!


二〇一五年十一月三十一日 「隣の部屋に住んでるバカ」


 ぼくの隣の部屋に越してきたひと、ほとんどずっとテレビつけてるの。バカじゃないかしら。引っ越してきたときに顔を見たけど、それほどバカじゃなさそうだったけど、ぼくが部屋にいるときは、ほとんどずっとテレビの音がしてるの。いったい、どんな脳みそしてるんやろか。むかし、ノブユキに、テレビを見るなんて、バカじゃないのって言ったら、「テレビにも、教養のつくのがあるよ。選択の問題じゃない?」って言われたのだけど、隣の部屋から漏れ聞こえてくる音はバラエティー番組とか、ドラマのとか、そんなのばっかり。こっちは、プログレで対抗してるんだけど。プログレやジャズでね。まあ、12時近くなると、テレビ消してくれるんで、まだましだけど。でも、ぼくがいる時間、ずっといるって、ぼくは非常勤だし、時間がいっぱいあって、部屋にいまくりなんだけど、隣の男もずっといてる。仕事してないのかな。まあ、いいけど。



自由詩 詩の日めくり 二〇一五年十一月一日─三十一日 Copyright 田中宏輔 2021-03-19 01:32:18縦
notebook Home 戻る  過去 未来