春の花
田中修子

そうだね、
戦争があったんだ。たしかに。

私の血の中に流れる色のない祖母の声は、
終戦の真っ青な夏空をしている。

春はどうだったろう。そういえば戦争の春のことを
聞いたことがない。春は芽吹いて穏やかだった。
台所で一緒に、フキの皮を剥いて、
薄く醤油のしみた、澄んだ煮物の甘苦い香り。

あの、いつも清潔で皺のなかった、腰から膝までの灰色のエプロンは、
祖母が自分で縫ったんだろうか。
針と糸、布で。
乳白色のこぎん糸もあったから、
細かな十字を縫って
灰色の布を強くしたのかもしれない。後姿はしゃきんとしていて、
いっしょにお風呂にはいると、蓮華シャンプーとリンスを使った後、
きゅっと髪をねじってから、きれいに髪をすすいでいた。

花柄の水色のタイル、ふたりははだかで水音が流れる。

そうだね、小さな戦争がありました、あれから、幾度も幾度もありました。
おおきな戦争のせいで、
あなたは私の母を愛せなくって、母は歪んで、
かわりにあなたが私を愛したから、
あなたが逝ってから、母に妬まれたんです。
苛め抜かれたけれど、いまとなっちゃあ、可哀想で仕方がない。

新聞の灰色の中に、おおきな戦争もありました。
父も母も、笑いながら戦争反対の集会に行っていた。

遠い、遠い国の、血を流す人の、痛みに泣き叫ぶ人の、
あの日のように、硬直して犯される人のこと。
あの子のように、新聞にも載らずに死ぬ人が、たくさんたくさんいたでしょう。
この頃は悪咳流行りの大騒ぎです。

(深い、暗い森。黒髪のラプンツェルが、
塔から降りてひとりでよろめいている。
王子はいないが、いない王子の傷まで引き受け、
彼女の眼は灯かりを失っている。
そう、王子はいないんだ、って、
ひとりきり、生きるっきゃないから、
包帯を巻いて、鬼さんこちら、手の鳴るほうへ--男たちが、
戯れに。
白粉塗って、割れしのぶに結い、梅の簪刺しまして、着物を着ましょ、
いざとなったら簪で、男を刺し殺してしまいましょ)

もう余生のようなんです。

あなたにとっての春は、私と過ごした日々でしたか、あなたの春の花でしたか。

それももはや、過去の話、あなたは逝った。

私は目を瞑って、戦争を閉ざしている。大きいのもだ、小さいのもだ。
余生を死ぬまで、生きなけりゃ、ならない、
まだ三十六だ。


自由詩 春の花 Copyright 田中修子 2021-02-27 05:43:13縦
notebook Home 戻る