為平 澪

子犬だったら、可愛いだろう。
言うことも聞くだろうし、連れて歩けば皆、振り返る。
家人だってまんざら嫌な顔なんかしない。

それにつけても血統書付き。
自慢のタネだし御犬様だってそれを誇りに生きてやがる。
猫なんてやつは猫の目をして自由気ままに生きてやがるが、明日をも知れぬ放浪猫。
恩返しの頭もない上、ただ飯喰らい。犬はいい。犬はいいぞ!

いくらなんでも十五年も経っちゃ、大きくもなるさ。
いや、まいったな、そうか。十五歳といえば壮年層。月日が経つのはとんと、早いもんだね。
あの夫婦も齢をとっちまったんだろう。なんせ、犬を飼いだした時から随分と高齢だったしな。

おっと、今じゃ放し飼いとは…、なんじゃそりゃ。
血統書付きを放し飼いとは、ブルジョア様のすることは底がないねぇ…。

ちがった、ちがった。
子供たちが村を出ていって大きくなっちまった犬に手をやいてるってさ。
力の強い犬だろう…。かといって、家の中に入れたままにしといちゃ犬だって、ストレスだらけってなもんだ。だから夜中にこっそり首輪を外して野放しにするんだと。
朝一番に啼く鶏の声を合図に犬は帰ってくるっていう寸法らしい。なんせ朝まで締め切っているんだからな。齢をとったとはいえ可哀想なのは、犬なんだか、人なんだか…。

おいおい。最近あの犬を老夫婦が苦にして貰い手を探しているそうじゃないか。血統書付きなら高くも売れるってもんだ。
どうだい、あんたたち、犬一匹飼ってみては?

何言ってるんだい。悠長なことをお言いでないよ!
昨夜、例の放し飼いの犬がとうとう人を噛んだって有線放送が村に流れたばかりじゃないか。
そんな始末に負えない犬を、今更誰が手に入れたがるんだい!
噛まれた歯型のついた部分からかなりの出血があって、そのあと傷が青紫に変色して水ぶくれに腫れ上がったそうじゃないか。

なんでも頭部が変なふうに凹んで腹の上を鎌のようなもので擦った切り傷があったとか、なかったとか…。

それは犬のことかい、人のことかい?

それってどれさ。俺はそう聞いたからそれ以上のことは知らん。
そう、この耳でしっかりと聞いたからな。

だから、それはどこまでが犬で、どこまでが人の話…?

そないなこと、知らんがな。
それより、話によれば血統書付きのわりに、なんとまぁ、残忍な犬ではないか。てっきり大人しい、賢い犬だと思っていたが、…。呆けた飼い主に似ちまったんだか、散歩行かずの後遺症が祟ったのかねぇ。

で、その後、飼い主たちはどうしてるんだ?

ああ、今は流行りの疫病が伝染るとかで、マスクをして引きこもっているんだと。

犬は処分しちまったのかねぇ。
今じゃすっかり姿も見えんわ。とうとう保健所のご厄介になって、安楽死かライオンの餌にでもなったんかな…。そな思えば、ちと、可哀想やな。歳月とは、むごいもんやなア…。齢は取りたくないもんや。

犬は、どこに行ったんやろう?
老夫婦がすべておらんようになっても、行方は分からんらしい。
そんな人を噛むようになった犬、まだ村のどこかを徘徊しよるんやろかなア…。

しかし…、
あの家ホンマに犬なんかおったんやろか…?

              *

マスクをしたまま顔を見せなくなった老夫婦の口の周りに見慣れた黒い毛が付着し、棺の中の夫婦の歯と歯茎に、淡くなった血糊がベトリ、ついていたことなど村人は最後まで知ることもなく、噂は自由気ままに七十五日を徘徊し、次第に行方をくらませていく。


自由詩Copyright 為平 澪 2021-02-23 05:45:17縦
notebook Home 戻る  過去 未来