トランプは何故リベラルに憎まれるか
一輪車

もう五十年もむかし、
二十歳になったばかりのころだったが今も忘れることのできない面白い本を読んだことがある。
本といっても全集というか講座本の体裁になっていて『岩波講座 西洋近代思想史』というタイトルだったと記憶している。
全十巻ほどの全集で、どんな冒険小説やスリラー、探偵小説よりも面白く、寝食を忘れて夢中で読んだ。
執筆者は東大講師やらなんやら無名の人たち二十名ほどだが、どなたも、おそろしく頭の切れる人たちばかりであり、
その諧謔というかユーモアというかおそろしく皮肉に満ちた語り口は我を忘れるほどであった。

そんな堅いタイトルの講座本のどこが面白いのかと首をかしげる人がいるだろう。なにを気取ってるのか、おれはインテリだと自慢したいのかと。
そうじゃないのです。
わたしがインテリじゃなく、ただの冒険スリラー小説好きの素人だから面白く読めたのだといいたいのです。
というのも「思想史」というものは思想そのものに深くわけ入っていくわけじゃなく、主にその地域の権力関係とか社会関係とかが
複雑に絡み合った結果、どのようにその思想が生じたかを語るものだからわたしのようにあまり頭がよくなくても読める。
まして「近代」「西洋」「思想史」ともなれば、必ずキリスト教会の権威と、王国の権力との角逐があり、そして
新たに力を持ち始めた資本家たちとの闘争のなかで「思想」というものがかたちをなす過程が語られる。
突き詰めて言うと、〈思想史〉とはある意味"思想の下腹部"を語ることだといっていい。知性に対するこのような視点を
わたしはかってに「マクロ的な思想観」と呼んでいる。
ここで話は唐突に飛ぶが、
トランプやトランプ支持者たちはしばしば「反知性主義者」と軽蔑的に語られるが、かれらは知性そのものにアンチしているのではなく
近代的な知性への見方が思想史的にマクロなのだ。思想をマクロ的に見るということは
深く思想のなかに埋もれていくのではなく
権力関係のつながりからその思想を外から眺める視線であるといえる。
たとえばルターの宗教改革ならそれを思想家や宗教家の視線で見るのではなく学のない当時の農民の目から見る視線をいう。
そうすると、ルターなる人物がひどく胡乱な存在としか農民には見えない。
当時のローマ教皇はメディチ家出身のレオ10世です。
レオ10世はカトリックの権威を立て直すためにヨーロッパ全土から資金を搾取しており、ドイツのザクセン選帝侯、
フリードリヒ3世もカトリック教会から搾取されている国王の一人だった。
そこでフリードリッヒの庇護のもとで学なんでいたルターは教会の搾取から王国の独立と自由を勝ち取るために
国王の謀略と指揮のもと『95ヶ条の論題』を書き上げる。つまりはローマ教皇への反逆です。
無知な農民からみれば内容はわからないけれども所詮は権力関係のなかでうまく立ち振る舞った小賢しいチビにしかすぎない。笑
これはカントなんかもそう。「純粋理性批判」だのなんだのといわれているけどマクロ思想史からみれば
カントの庇護者であるプロイセン国王への貢物として書き上げたものであり、それはプロイセン国王にとっては
周辺諸国やカトリック教皇など政敵への強烈な思想的武器となるものであった。そういう下世話な観点から
知性というものを見る目、それをマクロ的な視点というならば、トランプやトランプ支持者の
「反知性主義」と重なるところがある。

米国ではトランプを社会的にも生活的にも抹殺しょうとするリベラル富裕層知識人の容赦ない攻撃がとまらない。
30年も前に出演した映画『ホームアーロン2』からトランプのシーンを削除してその部分を撮り直すという。
また、トランプ夫人の会社製品を流通システムから排除するという宣告や、トランプ支持者たちの子どもを
収容施設に入れて教育し直せという民主党議員まであらわれた。
常軌を逸しているのだが、
かれらが憎悪し怖れているのはもちろんトランプ本人ではなくその背後にいる7000万とも1億ともいわれるトランプ支持者である。
狂気としかいえない執拗で徹底的なトランプ攻撃はじつはこの、トランプ支持者への恫喝であることはいうまでもない。
しかし彼らリベラル富裕層知識人、文化人、企業家、芸術家、アスリートたちはトランプ(支持者)の何を怖れているのだろう。

トランプvsオバマ、クリントン、バイデンの戦いは中央部vs沿岸部の戦いともいわれている。
中国でも中央部は極貧のまま捨て置かれているが米国も中央部は農業、畜産、中小生産業などが主体で
金融やITの中心である沿岸部の豊かさから見放されている。それはつまり文化の先端からもずり落ちていることを意味する。
そのような中央部に棲息する住人の洗練されていない、時代遅れの慣習や態度、文化、思想などを
沿岸部の富裕層知的リベラルたちは「反知性主義」と吐き捨てた。
そういえば日本の自称リベラル知識人もトランプや支持者を「反知性」と侮蔑的に呼ぶし、
わたしもネットに詩を投稿している女性詩人から「反知性」と罵られたことがある。反知性ってなんですかと尋ねると「トランプのような人間」と返された。
しかしわたしは彼女とは違って何十年もむかしにトランプ的な「反知性主義」のなんであるかを自分なりに納得していたから
なんと頭の悪いやつかと唖然としただけであった。

「反知性主義」。
そう、無国籍巨大企業や金融資本に寄生するリベラル富裕層知識人、文化人、企業家、芸術家、アスリートたちは
トランプ(支持者)らの鈍臭さ、知性のなさ、未来を志向しないで土地にしがみつく保守性が我慢ならないのであるが、
ほんとうの、かれらの存在の意味や脅威に触れることができない。それは自己批判を強いるからだ。
そこでかれらはトランプに代表されるそのような人間的傾向性を「反知性」とみなし、
知性を蔑み、ツバを吐くかれらを「反知性主義者」と呼んで軽蔑している。
しかしここで何度も紹介している我那覇真子さんがインタビューしたトランプ支持者はたしかに学はないが
知性に関してはむしろリベラルよりもはるかに深い世界観、人間観、人生観をもっていて
わたしなど
かれらの素朴な語りから胸を打たれることが多かった。
というか、そもそもトランプに代表される貧困層や中央部住民の「反知性主義」のなんたるかを日本のリベラルや知識人はまたくわかっていない。
時代を感じる能力もセンスもない無知無能で野卑な田舎者くらいにしか考えていない。しかし、
それなら彼らはトランプをそこまで怖れることはないのだ。正気を失うほどにトランプ(支持者)を叩き、
恫喝し、憎悪する必要などない。じつは米国の「反知性主義」とは知性を否定することではないのだ。
知性だけでいうならさきほども述べたようにトランプ支持者のほうがよほど知性的である。
そもそも知性が健全なら、いまの米国に吹き荒れているようなめちゃくちゃな憎悪と暴力を容認するだろうか。
米国の「反知性主義」とは"富裕層知識人の知性の卑劣さおぞましさ"に対する侮蔑であって、いわゆる知性へのアンチではない。
米国中央部のおとなしい保守層はこれまで沿岸部の頭のいい、洗練された「知性」にさんざんな目に遭ってきた。
そこからわたしのいうこところの「マクロ的な」知性への眼差しが生まれたのだろう。
そこからみれば、へん、知性などクソのようなものに映ってもしょうがない。笑
それが怖いのだ。
世間を知らない、貧困を知らない、飢えを知らない富裕層知識人リベラルたちは、トランプに代表される庶民大衆の
そのマクロ的な目線を心底怖れているのだ。水の底を見透かすような反知性主義のまなざしを。




散文(批評随筆小説等) トランプは何故リベラルに憎まれるか Copyright 一輪車 2021-01-16 13:39:39
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