詩の日めくり 二〇一五年一月一日─三十一日
田中宏輔

二〇一五年一月一日 「初夢はどっち?」


 ようやく解放された。わかい、ふつう体型の霊が、ぼくの横にいたのだ。おもしろいから、ぼくのチンポコさわって、というと、ほんとにさわってきたので、びっくりした。きもちよかった。直接さわって、と言って、チンポコだしたら、霊の存在が感じられなくなって、あ、消えてしまったのだと思うと、からだの自由がとりもどせたのだった。それまで、口しかきけず、からだがほとんどうごかなかったのだ。手だけ、うごかせたのだった。しかし、この部屋とは違う部屋になっていた。その青年の霊が、ぼくのチンポコをさわっているときに、窓に何人もの霊があらわれて、のぞいていたのだけれど、ぼくの部屋に窓はない。ひさしぶりに、霊とまじわった。まあ、悪い霊じゃなくて、よかった。気持ちいいことしてくれる霊なら、いくら出てきてくれてもよい。ただし、タイプじゃなかったので、まえのように、ふとんの上から、重たいからだをおしつけてきてくれるようなオデブちゃんの霊なら、大歓迎である。も一度寝る。はっきり目がさめちゃったけど。寝るまえの読書が原因かな。じつは、ロバート・ブロックの『切り裂きジャックはあなたの友』のつづきを読んでいたのだ。『かぶと虫』というタイトルのエジプトのミイラの呪いの話を読んで寝たのだ。これが原因かもしれない。しかし、ぼくの言うことを聞いてくれた霊だったので、もしもこれが夢だったら、ぼくは夢を操作できるようになったということである。これからは、夢に介入できるという可能性があることになる。怖いけれど、楽しみである。こんど出てきたら、ぼくのタイプになってってお願いしてみようと思う。そしたら、恋人いない状態のぼくだけれど、ぜんぜんいいや。寝るのが楽しみである。お水をちょこっと飲んで、も一度寝る。おやすみ。起きた。すぐに目が覚めてしもた。学校の先生のお弁当の夢を見た。こっちが初夢なのかな? なんのこっちゃ。先生のお弁当の心配だった。「奥さんがつくってくれはりますよ。」とぼくが言ったところで終わり。だけど、あんまり親しくない先生だったのが不思議。


二〇一五年一月二日 「SF短編集・SFアンソロジー」


 SFの短篇集やアンソロジーは、おもしろいものが多く、また勉強になるものも多い。
ぼくがもっとも感心したのは、つぎの短篇集とアンソロジー。

1番 ジョディス・メリルの『年間SF傑作選』1~7(創元推理文庫)
2番 20世紀SF①~⑥(河出文庫)
3番 SFベスト・オブザ・ベスト 上・下巻 創元SF文庫 
4番 ロシア・ソビエトSF傑作集 上・下巻 創元推理文庫
5番 東欧SF傑作集 上・下巻 創元SF文庫
6番 時の種(ジョン・ウィンダム) 創元推理文庫
7番 ふるさと遠く(ウォルター・テヴィス) ハヤカワ文庫
8番 ヴァーミリオン・サンズ(J・G・バラード) ハヤカワ文庫
9番 シティ5からの脱出(バリントン・J・ベイリー) ハヤカワ文庫 
9番 サンドキングズ(ジョージ・R・R・マーティン) ハヤカワ文庫
10番 第十番惑星(ベリャーエフ) 角川文庫
11番 マッド・サイエンティスト(S・D・シフ編) 創元文庫
12番 時間SFコレクション タイム・トラベラー 新潮文庫 
13番 宇宙SFコレクション① スペースマン 新潮文庫
14番 宇宙SFコレクション② スターシップ 新潮文庫
15番 〈時間SF傑作選〉ここがウィネトカなら、きみはジュディ ハヤカワ文庫
16番 〈ポストヒューマンSF傑作選〉スティーヴ・フィーヴァー ハヤカワ文庫
17番 空は船でいっぱい ハヤカワ文庫
18番 第六ポンプ(パオロ・バチガルピ)ハヤカワ文庫
19番 河出書房新社の「奇想コレクション」全20巻
20番 早川書房の「異色作家短篇集」全20巻
21番 スロー・バード(イアン・ワトスン) ハヤカワ文庫
22番 ショイヨルという名の星(コードウェイナー・スミス) ハヤカワ文庫

以上、いま本棚をちらほらと眺めて、これらは読んでおもしろく、また勉強になった作品だなと思ったものだけれど、順番をつけて書いたが、その順番には意味がない。ジョディス・メリルの編集したものに、はずれが1つもないことには驚嘆した。とくにSFという枠に収まらないものがあって、その中の1篇の普通小説が特に秀逸だった。ここに怪奇小説の傑作集を入れると、右にあげたSFの傑作集以上の数のものがあるけれど、それにミステリーを加えると、ものすごい数のものになってしまって、短篇集やアンソロジーだけでも、50以上の秀逸なものがあると思う。「読まずに死ねるか」と、だれかが本のタイトルにしていたような気がするけど、ほんと、おもしろい本と出合うことができて、よい人生だなと、ぼくなどは思う。


二〇一五年一月三日 「人間のにおい」


「指で自分の鼻の頭、こすって、その指、におてみ。」と言われて
指で自分の鼻の頭をこすって、その指のにおいをかいでみた。
「くさっ。」と言うと
「それが人間のにおいや。」と言った。
テレビででもやっていたのだろう。
ぼくがまだ中学生のときのことだ。
中学生の同級生とのやりとりだ。
中学生が「人間のにおい」などという言葉を思いつけるとは思えない。
そのとき、友だちに確かめたわけではないけれど。
それから40年以上たつけれど
ときどき鼻の頭のあぶらをティッシュでぬぐって
そのあとティッシュの汚れた部分を見て
そこに鼻を近づけて
そのいやなにおいを嗅ぐことがある。
くさいと思うそのにおいは、ずっと同じようなにおいがする。
「人間のにおい」って言っていたけれど
「人間のにおい」だなんて、いまのぼくには思えない。
「ぼくのにおい」だったのだ。


二〇一五年一月四日 「登場人物と設定状況」


 文学作品を読んでいて、その登場人物のことや、その作品の設定状況などについて考える時間が多いのだが、一日のうち、あんまり多くの時間をそれに費やしていると、頭のなかは、その架空の登場人物や設定状況についての知識と考えにとらわれてしまって、じっさい現実に接している人間についてよりも多くの時間を使っているために、現実の人間についての考察や現実の状況についての考察を、架空の人物や設定状況の考察よりも手薄くしてしまうことがあって、ああ、これは逆転しているなあ、これでは、あべこべだと思って、ふとわれに返ることがある。一日じゅう、文学作品ばかりに接していると、そういった逆転がしょっちゅう起こっているのだった。ところで、これまた、ふと考えた。しかし、現実に接している人間でも、じっさいに接して、その人間の言動を見て、聞いて、触れて、嗅いでいる時間は、その人間といないときよりずっと短いのがふつうである。したがって、現実に接している人間でも、自分がその人間の特性のすべてを知って接しているわけではないことに注意すべきだし、その点に留意すると、現実に接している人間もまた架空の人間と同様に、その人物について知っていることはごくわずかのことであり、それから読み取れることはそれほど多くもないということで、そういう彼らを、自分の人生という劇に登場してくる架空の人物なのだと思うことは、それほどおかしなことではないようにも思われる。ただ、現実の人間のほうが感情の起伏も激しいし、意外な面を見せることも多くて、文学作品のほうが驚きが少ないような気がするが、それは、つくりものがつくりものじみて見えないように配慮してつくってあるためであろう。これはこれでまた一つの逆転であると思われる。皮肉なことだ。


二〇一五年一月五日 「主役と端役」


 日知庵でも、よく口にするのだが、ぼくたちは、それぞれが自分の人生という劇においては主役であり、他人は端役であるが、それと同時に、他人もまた彼もしくは彼女の人生という劇においては主役であり、ぼくたちは彼らの人生においては端役であるのだと。


二〇一五年一月六日 「磔木の記憶」


 木の生命力はすごくて、記憶力もそれに劣らず、ものすごいものであった。イエス・キリストの手のひらと足を貫いて打ち込まれた鉄釘の衝撃を、いまでも覚えているのだった。さまざまな教会の聖遺物箱のなかにばらばらに収められたあとでも。


二〇一五年一月七日 「弟」


 お金ならあり余っている実業家の弟からいま電話があった。「あっちゃん、生活はどうや?」と言うので、「ぎりぎりかな。」と言うと、心配して援助してくれそうな雰囲気になったので、「食べていけるぶんだけはちゃんと稼いでるから、だいじょうぶやで。」と言うと、「なにかあったら電話してや。」とのこと。ありがたい申し出だったのだけれど、25才で芸術家になると宣言して家を出て30年。意地でも自立して生きてきたのだ。いまさらだれにも頼る気はない。人間はまず経済的自立にいたってこそ、自由を獲得できるのだ。芸術はその自由のうえでしか築けるものではないのだ。


二〇一五年一月八日 「少女」


 二日まえから少女と暮らしている。まだ未成年だ。大坂の子らしい。すこしぽっちゃりとして、かわいらしい。肉体関係はない。けさ帰ってしまった。ぼくの夢のなかに現われた少女だったけれど、なぜか、いなくなって、さびしい。いい子だったのだ。高校生だと言っていた。どこかで見た子ではなかった。河原町にいっしょに買い物に行ったけど、「京都って、やっぱり、大阪よりダサイんじゃないかな。」と、ぼくが言うと、「そうかな?」って言って、店のなかに入って行った。けさ、駅まで見送ったけれど、そのまえに、自動販売機でジュースを買って、ふたりで飲んだ。その自動販売機って、おかしくって、買ったひとの名前が表示されるのだけれど、彼女の名前が出て、ふううん、こんな名前だったんだと思ったのだけれど、目がさめたら、忘れてた。おぼえておきたかった。なんていう名前だったのだろう。とてもかわいらしい少女だった。


二〇一五年一月九日 「ちょっとだけカーテン。」


ちょっとだけ台風。
ちょっとだけ腹が立つ。
ちょっとだけ崩れる。
ちょっとだけ助ける。
ちょっとだけ地獄。
ちょっとだけ天国。
ちょっとだけ感傷的。
ちょっとだけノンケ。
ちょっとだけゲイ。
ちょっとだけプログレ。
ちょっとだけアウト。
ちょっとだけ嘔吐。
ちょっとだけ喜劇。
ちょっとだけ一目ぼれ。
ちょっとだけ偉大。
ちょっとだけ四六時中。
ちょっとだけ正当。
ちょっとだけ正解。
ちょっとだけ螺旋。
ちょっとだけ奥。
ちょっとだけ5時間。
ちょっとだけアルデンテ。
ちょっとだけバカ。
ちょっとだけ永遠。
ちょっとだけボブ・ディラン。
ちょっとだけ激しい。
ちょっとだけフンドシ。
ちょっとだけ孤独。
ちょっとだけTV。
ちょっとだけ愛する。
ちょっとだけいい。
ちょっとだけ聞きたくない。
ちょっとだけほんとう。
ちょっとだけカーテン。


二〇一五年一月十日 「頭のおかしい扉」


 うちのマンションの入り口の扉、自動ロックなんだけど、変わってて、ぼくがドアの前に立つとロックして、それから勝手に開錠するの。頭おかしいんじゃないのって思う。


二〇一五年一月十一日 「ドブス」


高校時代の
クラスコンパの二次会のあとで
友だち、6、7人といっしょに行った
ポルノ映画館の
好きだった友だちと
膝と膝をくっつけたときの
思い出が
いまでも、ぼくを興奮させる
ドブスってあだ名の
かわいいらしいデブだった

酒に酔った勢いで
生まれてははじめてポルノ映画館に行ったのだけれど
そのときに見たピンク映画の一つに
田んぼのあぜ道で
おっさんが農婆を犯すというのがあった

でもあまり映画に集中できなかった
ドブスに夢中で


二〇一五年一月十二日 「詩人の才能」


 けっきょく、詩人の才能って、ときどき、とんでもないものを発見する才能じゃないのかな、と思う。つまり、遭遇する才能じゃないのかな、と思ったってこと。たとえ、日常のささいなことのなかにでも、目にはしていても、それをまだだれも表現していないものがあって、それを詩句というもののなかに描出できることを才能って言うんじゃないのかなって思ったのだった。このあいだ行った、第2回・京都詩人会・ワークショップ・共同作品に参加してくれた森 悠紀くんの「やおら冷蔵庫を開け/煙と共にしゃがみ込み」という表現にはほんとうに新鮮な驚きがあったのだ。もちろん、観念だけで書かれた作品のなかにも、機知というものがうかがえるものがあるだろう。それも、もちろん才能によって書かれたものだと思う。ぼくも、どちらかといえば、そちらの人間なのだろうけれど、だからよけいに、ごく自然に書かれたふうな風情に強い共感を持ってしまうのかもしれない。若いときには、ぼくは機知だけで書いてきたようなところがあった。これからも多くはそうだろうけれど、そのうち、いずれ、ごく自然なふうに、すぐれた詩句を書いてみたいものだと思わせられたのだ。


二〇一五年一月十三日 「詩語についての覚書。」


 表現を洗練させるということは、詩語を用いてそれらしく仕上げることではない。ふつうに普段使っている日常の言葉を用いて、まるで、かつての詩語のように(その詩語が当初もたらせた、いまはもうもたらせることのない)さまざまな連想を誘い、豊かにその語の来歴を自らに語らしめさせること、それこそ表現を洗練させることであろう。現在、このことを全的に認識している詩人は、日本にはいない。詩語を用いて詩作品をつくるつもりならば、それは反歴史的に、反引用的に用いなければ、文飾効果はないだろう。すなわち、詩語は、もはやパロディー的に用いるほか、まっとうな詩作品など書けやしないであろうということである。ほんとうに、このことを認識していなくては、これから書かれる詩のほとんどのものは、後世の人間に見せられるようなものではなくなるだろう。


二〇一五年一月十四日 「プラスチックの蟻」


 赤色や黄色や青色や緑色や紫色など、さまざまの色のプラスチックの10センチメートルほどの大きさの蟻が、ぼくの頭のうえにのっかっている。で、ぼくの脳みそから、赤色や黄色や青色や緑色や紫色など、さまざまな色のプラスチックのぼくの脳みその欠片をとりだして、カリカリ、カリカリと齧っている。


二〇一五年一月十五日 「ウサギには表情筋がない」


ぼくが孤独を求めているんじゃなくて
孤独のほうが、ぼくを求めているんじゃないかなって思うことがある。
ぼくはそこに行った。
なぜなら、そこが、ぼくにとって、とても親しい場所だったからだ。
Poets eat monkeys, flowers, benches, chocolate, faces, windows ─.
Monkeys change flowers change benches change chocolate change faces change windows change ─
Chocolate のつぎは changes かな?
イーオンに行ったら、 ぼくが探してたボールペンがあった。
黒0.38ミリの本体つきのもの3本と黒インク7本。 赤0.5ミリの本体つきのもの1本と赤インク4本。
合計1370円。 これって、買い占めじゃなくて、買い置きだよね。
書くと嘘になる。
書かなければ、少なくとも嘘にはならないってこと?
嘘でないことと、ほんとうのことは同じ?
老いたる表情筋がぴくぴく。
そだ、きのう読んだ本に、ウサギには表情筋がないって書いてあった。
「兎は顔面筋をほとんど動かせない。」(チャールズ・ストロス『シンギュラリティ・スカイ』金子 浩訳、370ページ)
ちょっと違ったね。
近くのうんこと、遠くのケーキ。
知覚のうんこ。
内容が貧しいものほど、表現が大げさなのは、なぜなのだろう?
ちいさいものが かわいらしいと むかしのさいじょは かいたっけ ちいさいことばが かわいらしいと いまのぼくにも よくわかる よくわかる ふむふむふむ~
あなたの足が、洗面台のうえに、床のうえに、台所のシンクタンクのなかに、ベッドのうえに、テーブルのうえに同時に置いてある風景。
疑問を削除する花粉。
新たな視力を得ること。
理論的に言うと、スイカは電磁波ではなく、球形である。
犬や猿やない 見たらわかるし 見たらわかるし
自分自身をたずさえて、自分自身のなかを潜らなければならない。
人間は自分の皮膚の外で生きている。
人間は、ただ自分の皮膚の外でのみ生きているということを知ること。
ロゴスが自らロゴスの圏外に足を踏み外すことがあるのかしら? と、ふと考えた。


二〇一五年一月十六日 「霊」


 電気消して二度寝してたら幻聴がして、たくさんの人がいる場所の声がして、とつぜん、布団のうえから人が載ってる感じがして、抱きしめられて、怖いけど、なんか愛情みたいなの感じたから、耳なめて、って声に出して言ったら、かすれた声が耳元でして、耳に息を吹きかけられて気持ちよくなって、ええっ? ほんまものの霊? って、思って、ぼくのむかしの彼氏のうちのひとりかなって思ってたら、気持ちよく頭をなでられたので、あれっ、ドアの鍵してなくて、いま付き合ってる子がいたずらしてるのかなって思って、電気のスイッチに手を伸ばして電気つけたら体重もすっとなくなって気配も消えた。こんなに生々しい肉体の感触のある幻覚はひさしぶり。やさしい霊だった。耳元に息を吹きかけられて頭なでられて、声はちょっとかすれてて、ヒロくんかな。どうしちゃったんだろ。もしかしたら、ヒロくんが、むかしの夢を見たのかもしれない。ヒロくんが二十歳で、ぼくが二十代後半だった。電気つけなきゃよかったかな。でも、怖さもちょっとあったしなー。でも、気持ちよかったから、いい霊だったのだと思う。さっきの霊となら、つきあってもいいかな。やさしそうだし、体重は重たかったし、たぶんデブで、かわいいだろうし、声もかすれてセクシーだったし。あしたから二度寝が楽しみだー。


二〇一五年一月十七日 「セックス」


 おじいさんとおじいさんがセックスしても子どもが生まれるわけである。おばあさんとおばあさんがセックスしても子どもが生まれるわけである。体位についても考えた。親指から人差し指から中指から薬指から小指から、ぜんぶ切断して、くっつけ直すような体位。あるいは、すべての指を親指につけ直してまぐわう体位。忘れてた。息子と娘の近親相姦で親も生まれるし、息子と息子の近親相姦でも親は生まれるし、孫とおばあちゃんとのセックスでも親は生まれる。どうしたって親は生まれる。孫が携帯電話とセックスしても生まれる。あたらしい親。キーボードを打つたびに、親が生まれるのだ。体位はさまざま。指の切断、首の切断も、実質は同じだ。交換し合う指と指。交換し合う首と首。さまざまな体位でまぐわり合う言葉たち。言葉と言葉の近親相姦。他人相姦。はじめて出合う言葉と言葉がはげしくまぐわうのだ。体位はさまざま。とりわけ推奨されるのが切断と接合の体位である。すべての指を切断し接合し直すのだ。すべての首を切断し接合し直すのだ。体位はさまざま。言葉と言葉がはげしくまぐわい合うのだ。あ、さっき、り、と書いた。いだ。いいだ。いいいだ。


二〇一五年一月十八日 「小西くん」


 日知庵では、小西くんが隣でコックリ、コックリ居眠りしていて、えいちゃんの、「あっちゃん、お持ち帰りしたら?」という声に反応して、きゅうに頭を起こして、両手でバッテンしたのには笑った。たいへんかわいい小西くんでした。


二〇一五年一月十九日 「なんちゅうことざましょ。」


プルーストの『失われた時を求めて』の「花咲く乙女たちのかげに」のなかで
シャルリュス男爵が言うように
「人生で重要なのは、愛の対象ではありません」(鈴木道彦訳)
「それは愛するということです」(鈴木道彦訳)
そうね。
愛こそが
どのように愛したか
どのように愛していたのかという愛し方が
まさに、愛し方こそが、問題ね。
しかも、
「われわれは愛の周辺にあまりにも狭苦しい境界を引いているけれども、そうなったのも、もとはと言えば、ただもうわれわれが人生を知らないからなのです。」(鈴木道彦訳)
なんちゅうことざましょ。


二〇一五年一月二十日 「真意」


真意はつねに誤解を通して伝わる。
折り曲げた針金をまっすぐにしようとして、折り曲げ戻したもののように。


二〇一五年一月二十一日 「言語意識」


「言語自体が意識を持ちうるか」という点について、文学的な文脈や、比喩的に、ではなく、きちんと科学的に追及されるということが、いままでに一度でもなされたのだろうか。可能なら、追及してみたい。もしも、科学的に追及できないものなのだとしたら、科学的に追及できないということを証明したい。人間が言葉に意味を与えたのだ。その言葉が人間に意味を与えるのだ。言葉が意識を持っている可能性は十分にあると思う。


二〇一五年一月二十二日 「両もものかは」


 ジョン・クロウリーの『リトル、ビッグ』Ⅰの誤植・その2 276ページ上段2行目にある「男は短い両もものかは、ちょこまかとした足取りで」 なんだろう? 「両もものかは」って。いかなる推測もできない誤植である。


二〇一五年一月二十三日 「無意識領域の自我と意識領域の自我」


 クスリをのんで1時間たったので、電気を消して、自分自身と会話してたら、ふたりか三人の自分のうちのひとりが、「これだよこれ。」と言って、自分のうなじを両手でかきあげるしぐさをしたのだが、わけがわからなかった。これは起きて書かなくてはと思った。わけのわからない夢のほうがおもしろいからである。無意識領域の自我が出現間近だったような気がする。それでも、意志の力で、身体を起こして、目を覚まさせ、意識領域の自我にパソコンをつけさせたのだった。そう促せたのは、いくつかのぼくの自我のうちのどれかだったのだろうが、もちろん、それは意識領域の自我か、意識領域に近いほうの自我だったのだと思う。まだ無意識領域の自我にはなっていなかったと思う。いつもなら、こんなふうに無理に起きようとはしないで、その日に見た夢は、その夢の記憶を夜に書きつけて眠るのだけれど、夢の入り口から戻ってすぐにワードに書き込むのは、はじめてかもしれない。夢。限りなく興味深い。その夢をつくっているのは、ぼくなのだろうけれど、起きているときに活動している意識領域の自我ではないと思っている。無意識領域の自我というと、記憶が意識領域とは無関係に結びつける概念やヴィジョンがあって、自我という言葉自体を用いるのが適切ではないのかもしれないけれど、きょうの体験は、その無意識領域の自我と意識領域の自我が、わずかな瞬間にだが、接触したかのような気がして、意味の不明な、つまらない夢なのだけれど、体験としては貴重な体験をしたと思っている。


二〇一五年一月二十四日 「吊り輪」


 ぼくの輪になった腕に男が吊るされる。男は二人の刑務官によって、ぼくの腕のそばに立たされる。男が動くので、なかなか、ぼくの輪になった腕に、男の首がかからない。二人の刑務官ががんばって、ぼくの腕に、男の首をかけた。床が割れて、男の身体がぶら下がる。輪になったぼくの腕に吊るされて。


二〇一五年一月二十五日 「簡単に捨てる」


シンちゃんからひさしぶりに電話があった。
「前に持ってたCD
 ヤフオクで買ったよ。」
「なんで?
 あ、
 また前に売ったヤツ買ったんやな。」
「そだよ。」
「なんでも捨てるクセは
 なおらへんねんな。」
「売ったの。
 飽きたから。」
「いっしょや。
 そうして、人間も
 おまえは捨てるんや。」
「人間の場合は
 ぼくが捨てられてるの。」
「いっしょや。」
「いっしょちがうわ。」
と言ったけど
もしかしたら
いっしょかもしれない。


二〇一五年一月二十六日 「カムフラージュ、ユニコーン、パルナス、モスクワの味」


「あっくんてさあ
 どうして
 そんなに言葉にとらわれてばかりいるの?」
「うん?」
「まるで言葉のドレイじゃん。」
「言葉のドレイ?」
「そだよ
 もっと自分のことにかまったほうがいいと思うよ。」
「自分のことに?
 ううん
 それで
 言葉にかまってるんだと思うんだけどなあ。」
「言葉は
 あっくんじゃないでしょ?」
「言葉はぼくだよ。」
「うそつき!」
「うそじゃないよ。
 ほんとだよ。
 シンちゃんは
 そう思わないの?」
「思わないよ。
 まっ
 あっくんのことだから
 ぼくは
 べつにかまわないんだけどね。」
「かまわないんかよ?」
「かまわないんだよ。」
「ふふん。」
「でも
 あっくんは
 言葉じゃないんだからね。」
「言葉かもしんないよ。」
「バーカ。」
カムフラージュ
ユニコーン
パルナス
モスクワの味
あら
しりとりじゃなかったの?


二〇一五年一月二十七日 「いやなヤツ」


しょっちゅう
烏丸のジュンク堂でチラ読みしてたのだけれど

いいなあとは思っていたのだけれど
雑誌のアンケートがきっかけで買った
パウンドの『ピサ詩篇』
やっぱり
とてもいい感じの詩集だった。
ああ
なんでSFみたいなものにこの4、5年を費やしてしまったんやろか。
時間だけやなくて
お金も、そうとう、つぎ込んだけど
あほやった。
歴史に出てくる人物とか
詩人とか
そんなひとの名前は、わからんものも多かったけど
言葉の運び方がいいので
ぜんぜん気にならず
ときおり見せる抒情と
言葉のリフレインに
こころがキュンとつかまれたって感じ。
じつは、きょうは
『消えた微光』も読んでいて
ルーズリーフ作業のついでに
もう一度ね
とてもここちよかったのだ。
ジェイムズ・メリルの場合もそうやった。
ここちよかったのだ。
ただし、メリルのほうは
もう一行もおぼえていないし
ひとことの詩句も出てこないのだ。
パウンドの詩句も、きっと近いうちに忘れるだろう。

それでいいのだ。
ぼくのなかに埋もれて
いいのだ。
「さみしい」は単複同形だ。
どの引き出しにも「さみしい」がぎっしり。
「わっ!」
「うん?」
「びっくりしないんですね。」
「なんで?」
「いや、いままでのひと、みんな、びっくりしたから。」
「ぼくは、反応が遅いのかもしれないね。」
なんでびっくりさせようとしたんやろうか。
あの男の子。
もう20年くらい前のこと火傷。
火傷ねえ、笑。
無名であること。
ぼくの作品や文章には
完全ゼッタイ的に無名な人物がたくさん出てくるのだけれど
それでいいのだ。
と思う。
『マールボロ。』のシンちゃんについて。
とても相性が悪いのだ。
なんかのときだけど
なんのときか忘れたけれど

誕生日かな
違うかもしれないけど

横綱っていうラーメン屋に入って
「きょうは、おごるね。」って言ったら
いちばん高いラーメンを注文して
(1500円!)
しかも
「これ、まずい。」
って言って
ほんのちょっと食べただけで
そのあとずっと
「まずい。」
「まずい。」
って言われつづけて
ぼくはギャフンとなりました。
「ギャフン」というものになったのだ。

それから
ぼくのなかで
シンちゃんは
「とてもいやなヤツ」になったんやけど
「とてもいやなヤツ」というものになったのね。
そのほかに
これまで
ぼくの恋人のことを
やれブサイクだとか
デブだとか
ブスだとか
もっとマシなのにしたらとか
チョーむかつくこと言われてて
電話も
用もないのにかけてくるし
しかも
話をしてるのよりも
沈黙のほうがずっと多いし。
はあ?
って感じの会話が多いし
一度なんて
恋人とのデート前に電話をしてきて
なかなか切ろうとしないし
ほんとにうっとうしかった。
「こんなん読んではるんですか?」
「そだよ。」
なんで、そこで本棚、見つめて
ぼくに背中向けてるんだよ。
「なに?」
「いや、どんなん読んではるんかなあって思って。」
襲われ願望?
「ああ、ぼく襲われるかなって思っちゃった。」
「どっちがですか?」
大笑い。
そかな?
そうかなあ?
これは5、6年以内の思い出かな。
いまの部屋やから、笑。

シンちゃん
本人は
短髪
ガッチリで
モテ系だと思ってて
まあ
じっさいそうなんだけど
モテ系のくせに
性格
暗いし
悪いし
最悪なのに
ぼくの純情な恋人を
ぜったいにほめないし
死ね
とか
キチガイ
とか
平気で
ぼくに言うし
もう
おまえのほうが
死ねよ
って感じ。
しかも
フリートウッドマックちゅう
二流バンドが好きで
趣味が悪いっちゅうの。
まあ
ええ曲もあるけど

これはカヴァーやけど
カヴァーのほうがいい。
あっは~
あっは~
「そんなに真剣になって読むものなんですか?」
ムカッ。
「あとで読めばいいっ!」
ムカムカッ。
ここで
シンちゃんから離れて
エイジくんのことを思い出す。
予備校に勤めていたときに
ビックリしたことがある。
静岡から京都に来て
どんな事情か知らないけど
奈良の予備校で教えていた子がいて
エイジくんと
同じようなジャケット。
ニットの帽子。
そういえば
エイジくんのはいてたのもゴアテックス。
その子は
髪を金髪に染めた
ロン毛やったけど。
エイジくんは
短髪
バチムチね、笑。

ガチムチ。
「弟さん、おれとおない齢や。」
そうやったね。
ヒロくんの写真見て
エイジくんが笑いながら
「こんな弟が欲しいなあ。」
もうひとりのエイジくんの記憶もよみがえる。
っていうか
前恋人、笑。
合鍵を持っているから
(いまだにね。)
勝手に部屋に入って
内部調査。
メールも勝手に見るし
でも、自分の携帯はぜったい見せない。
ここで
シンちゃんに戻る。
いつも不機嫌そうな顔をして
ぼくの部屋の玄関のチャイムを鳴らして
ぼくがドアを開けたら
勝手にあがるバカ。

そういえば
エイジくん
ぼくが玄関を開けようとしたら
しょっちゅう
ドアを身体で押さえて
あけさせようとしなかった。
バカ。
バカ。
バカ。
みんな、なんちゅうバカやったの?
ふう
落ち着いた。
友だちの悪口を書くと
けっこう気持ちいいものだね。
もしかして
もしかしなくても
ぼくがいちばん
いやなヤツやね、笑。


二〇一五年一月二十八日 「ひざまずくホッチキス」


 ひざまずくホッチキス。不機嫌なビー玉。気合いの入った無関係。好きになれない壁際。不器用な快楽。霧雨の留守電。趣味の書類。率直な歩道橋。寝る前の雑草。気づまりな三面鏡。粒立ちの苛立ち。無制限の口紅。


二〇一五年一月二十九日 「階段ホットココア。」


階段ホットココア。半分、階段で、半分、ホットココア。
ディラン・ディラン。半分、ボブ・ディランで、半分、ディラン・トマス。
チョコレート・バイク。半分、チョコレートで、半分、バイク。
欺瞞円周率。半分、欺瞞で、半分、円周率。
ひよこマヨネーズ。半分、ひよこで、半分、マヨネーズ。
金魚扇風機。半分、金魚で、半分、扇風機。
シャボン玉ヒキガエル。半分、シャボン玉で、半分、ヒキガエル。


二〇一五年一月三十日 「一羽の悩める鶫のために」


言葉の死体が岸辺に打ち上げられていた。
片手の甲に言葉の波が触れては離れ触れては離れていく
言葉の死体は言葉の砂に顔を埋めながら
言葉でできた過去を思い出している
たくさんの美しい裸体の青年たちのまわりに無数の太陽を撒き散らし
たくさんの太陽のまわりに無数の美しい裸体の青年たちを撒き散らしていた
日が落ちてきて真っ赤に染まった砂浜を
言葉の死体は思い出していた
青年たちの裸体は赤く染まり
岸辺の砂も赤く染まり
あらゆる言葉が赤く染まって輝いていた
言葉の死体はもう十分死んでいたとでもいうように起き上がると
手のひらや腕や肘についた言葉の砂を払い落として
つぎの死に場所を求めて足を踏み出した

言葉の死体はバラバラになった自分の死体を見つめていた。
言葉の死体は
言葉でできた自分の身体を切断し、腑分けしていった
言葉の指を切断し
言葉の目を抉り出し
言葉の舌を抜き
言葉の腹を切り裂いて
言葉の内臓を紙の上に撒き散らした
それから
言葉の死体は
自分の身体をつぶさに見つめながら
口と耳のまわりに指を縫合し
いらなくなった腕を捨てて
膝から下を切断し
腹部に目を縫いつけて
背中の皮膚を裏返しにした。
それでも自分がまだ言葉でできた死体であると
そう思っていたのであった。
言葉の死体は
言葉でできた情景に目をうつした
言葉の死体は
さまざまな情景を
自分の身体のさまざな部分と交換しはじめた
それでもやっぱり
言葉の死体は
自分がまだ言葉でできた死体であると
そう思っていたのであった。
やがて
すべての部分が
自分の身体ではなくなってしまったのだけれど
その新しい身体もまた
言葉でできた死体であると
そう思っていたのであった。


二〇一五年一月三十一日 「服役の記憶」


住んでいた近くのスーパー「大國屋」の

いまは
スーパー「お多福」と名前を替えているところでバイトしていた
リストカットの男の子のことを書いたせいで
10日間、冷蔵庫に服役させられた。
冷蔵庫の二段目の棚
袋詰めの「みそ」の横に
毛布をまとって、凍えていたのだった。
これは、なにかの間違い。
これは、なにかの間違い。
ぼくは、歯をガチガチいわせながら
凍えて、ブルブル震えていたのだった。
20代の半ばから
数年間
塾で講師をしていたのだけれど
27、8才のときかな
ユリイカの投稿欄に載った『高野川』のページをコピーして
高校生の生徒たちに配ったら
ポイポイ
ゴミ箱に捨てられた。
冷蔵庫のなかだから
食べるものは、いっぱいあった。
飲むものも入れておいてよかった。
ただ、明かりがついてなかったので
ぜんぶ手探りだったのだった。
立ち上がると
ケチャップのうえに倒れこんでしまって
トマトケチャップがギャッと叫び声をあげた。
ぼくは全身、ケチャップまみれになってしまった。
そのケチャップをなめながら
納豆のパックをあけて
納豆を一粒とった。
にゅちょっとねばって
ケチャップと納豆のねばりで
すごいことになった。
口を大きく開けて
フットボールぐらいの大きさの納豆にかじりついた。
ゴミ箱に捨てられた詩のことが
ずっとこころに残っていて
詩を子どもに見せるのが
とてもこわくなった。
それ以来
ひとに自分の詩は
ほとんど見せたことがない。
あのとき
子どものひとりが
自分の内臓を口から吐き出して
ベロンと裏返った。
ぼくも自分の真似をするのは大好きで
ボッキしたチンポコを握りながら
自分の肌を
つるんと脱いで脱皮した。
ああ、寒い、寒い。
こんなに寒いのにボッキするなんて
すごいだろ。
自己愛撫は得意なんだ。
いつも自分のことを慰めてるのさ。
痛々しいだろ?
生まれつきの才能なんだと思う。
でも、なんで、ぼくが冷蔵庫に入らなければならなかったのか。
どう考えても、わからない。
ああ、ねばねばも気持ちわるい。
飲み込んだ納豆も気持ち悪い。
こんなところにずっといたいっていう連中の気持ちがわからない。
でも、どうして缶詰まで、ぼくは冷蔵庫のなかにいれているんだろう?
お茶のペットボトルの栓をはずすのは、むずかしかった。
めっちゃ力がいった。
しかも飲むために
ぼくも、ふたのところに飛び降りて
ペットボトルを傾けなくちゃいけなかったのだ。
めんどくさかったし
めちゃくちゃしんどかった。
納豆のねばりで
つるっとすべって
頭からお茶をかぶってしまった。
そういえば
フトシくんは
ぼくが彼のマンションに遊びに行った夜に
「あっちゃんのお尻の穴が見たい。」と言った。
ぼくははずかしくて、ダメだよと言って断ったのだけれど
あれは羞恥プレイやったんやろか。
「肛門見せてほしい。」
だったかもしれない。
どっちだったかなあ。
「肛門見せてほしい。」
ううううん。
「お尻の穴が見たい」というのは
ぼくの記憶の翻訳かな。
ぼくが20代の半ばころの思い出だから
記憶が、少しあいまいだ。
めんどくさい泥棒だ。
冷蔵庫にも心臓があって
つねにドクドク脈打っていた。
それとも、あれは
ぼく自身の鼓動だったのだろうか。
貧乏である。
日和見である。
ああ、こんなところで
ぼくは死んでしまうのか。
書いてはいけないことを書いてしまったからだろうか。
書いてはいけないことだったのだろうか。
ぼくは、見たこと
あったこと
事実をそのまま書いただけなのに。
ああ?
それにしても、寒かった。
冷たかった。
それでもなんとか冷蔵庫のなか
10日間の服役をすまして
出た。
肛門からも
うんちがつるんと出た。
ぼくの詩集には
序文も
後書きもない。
第一詩集は例外で
あれは
出版社にだまされた部分もあるから
ぼくのビブログラフィーからは外しておきたいくらいだ。
ピクルスを食べたあと
ピーナツバターをおなかいっぱい食べて
口のなかで
味覚が、すばらしい舞踏をしていた。
ピクルスっていえば
ぼくがはじめてピクルスを食べたのは
高校一年のときのことで
四条高倉のフジイ大丸の1階にできたマクドナルドだった。
そこで食べたハンバーガーに入ってたんだった。
変な味だなって思って
取り出して捨てたのだった。
それから何回か捨ててたんだけど
めんどくさくなったのかな。
捨てないで食べたのだ。
でも
最初は
やっぱり、あんまりおいしいとは思われなかった。
その味にだんだん慣れていくのだったけれど
味覚って、文化なんだね。
変化するんだね。
コーラも
小学生のときにはじめて飲んだときは
変な味だと思ったし
コーヒーなんて
中学校に上がるまで飲ませられなかったから
はじめて飲んだときのこと
いまだにおぼえてる。
あまりにまずくて、シュガーをめちゃくちゃたくさんいれて飲んだのだ。
ブラックを飲んだのは
高校生になってからだった。
あれは子どもには、わかんない味なんじゃないかな。
ビールといっしょでね。
ビールも
二十歳を過ぎてから飲んだけど
最初はまずいと思った。
こんなもの
どこがいいんだろって思った。
そだ。
冷蔵庫のなかでも雨が降るのだということを知った。
まあ
霧のような細かい雨粒だけど。
毛布もびしょびしょになってしまって
よく風邪をひかなかったなあって思った。
睡眠薬をもって服役していなかったので
10日のあいだ
ずっと起きてたんだけど
冷蔵庫のなかでは
ときどきブーンって音がして
奥のほうに
明るい月が昇るようにして
光が放射する塊が出現して
そのなかから、ゴーストが現われた。
ゴーストは車に乗って現われることもあった。
何人ものゴーストたちがオープンカーに乗って
楽器を演奏しながら冷蔵庫の中を走り去ることもあった。
そんなとき
車のヘッドライトで
冷蔵庫の二段目のぼくのいる棚の惨状を目にすることができたのだった。
せめて、くちゃくちゃできるガムでも入れておけばよかった。
ガムさえあれば
気持ちも落ち着くし
自分のくちゃくちゃする音だったら
ぜんぜん平気だもんね。
ピー!
追いつかれそうになって
冷蔵庫の隅に隠れた。
乳状突起の痛みでひらかれた
意味のない「ひらがな」のこころと
股間にぶら下がった古いタイプの黒電話の受話器を通して
ぼくの冷蔵庫のなかの詩の朗読会に参加しませんか?
ぼくの詩を愛してやまない詩の愛読者に向けて
手紙を書いて
ぼくは冷蔵庫のなかから投函した。
かび臭い。
焼き払わなければならない。
めったにカーテンをあけることがなかった。
窓も。
とりつかれていたのだ。
今夜は月が出ない。
ぼくには罪はない。


自由詩 詩の日めくり 二〇一五年一月一日─三十一日 Copyright 田中宏輔 2021-01-11 21:04:08縦
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