<批評対象作品>
枯れ果てない泥水の井戸の前で
•「鳴けない文鳥のためのピエタ」
米津の新曲 だろうか。
大衆歌謡への回帰懐古 リスペクト
鳴けない文鳥、誘引強し、お涙頂戴的か。
"ブッダのように私は死んだ" 直喩法を用いた、
これは、坂本冬美の新曲だ。
•「ラジオ体操第一」
第二第三、マイナス第零第一第二第三と。
第四人類はどこへゆくのだろう、こんなにも気だるい朝。
Human-Re 準備は大事だ。
•「雑目に挨拶、」
、付きの雑目さ加減がどこか意味深なようだ、
•「天国へ行った男」
オラハ シンジマツタダ
ネーチャンハ キレイダ
• 「青色吐息」
••• 朱色 銀色 桃色 ••• 季節ははやいものですね
のさばりつづけるコロナ
は税を納めているのでしょうか
•「1987 トランジスタラジオ」
屋上よりヘビーローテーションアジテーションOpenCode-Gストロークでヘイベイビー愛しあってるかい冬
•「腹いっぱい」
八分目 とも言いますが、大食中食少食無食、
人や環境、習慣に体調、意地、文化や宗教、
水中砂漠、樹上地中、月火水木金土日、
各々の、星によりですね。
•「紅白」
2021. おめでとうございます。
見ていません。
紅 だったようです。
•「K.」
プリプリ 前夜 オウム 老人 悲劇 不条理…
陰謀 ヒーロー 地上の星 大衆 POP 悟空…
以上。
• 著者名は省略して列挙してみました。
• こちらへ投稿された直近の作品群のタイトル、そしてタイトルから受けたイメージについて記述してみた次第です。
「枯れ果てない泥水の井戸の前で」
羽田恭
上に挙げましたのは、羽田恭さんが昨年12月23日に投稿されました作品のタイトル。そして次にご本人の名が置かれています。
作品タイトルについて。
• 説明的
• 長い
• 情報過多
• 井戸とは?
、
• 全体の字面にシビレる
• ストレートであり潔し
• ドラマ性を感じる
• お名前がカッコいい
、
……。
好き嫌い、良し悪し、等。さまざまあるかと思います。タイトルは顔 とたとえられます。本のカバーや雑誌の表紙、ジャケットも同様に言われます。
第一印象はノンバーバルな、非言語の情報によりほぼ決められる、とは聞きます。書き手と読み手と。タイトルは窓のような目のような、そうしたものでもあるのでしょうか。作品タイトル、そして本文である詩文へと。
「無題」なる作品もあります。
あまりよくないようですが、おそらく書き手にとりイメージがよく捉えきれない、未詩、無詩、め詩、マ詩、も詩、独白等。時には題名のない子の音楽会のように。抑えきれない感情を、こぼれてしまう情念を詩情を一旦読み手に預けてしまおう、そうした考えからでもあるのでしょうか。リハなしのぶっつけ本番による、怖いもの知らずといった。
「枯れ果てない泥水の井戸の前で」
やや長い 説明的か。同時に、ドラマの始まりのような感じをも受けました。作品に課せられた名称 題 タイトル。そして続く本文が同タイトルからの始まり。賭けでしょうか、挑発的とも思える出だしのようです。賭けが報われるのか、否か。以後に続く作品の詩文を読めばわかるのでしょう。
汲めども汲めども枯れ果てない泥水の井戸の前で
>"汲めども汲めども"
枕のようにして置かれたリフレインの韻律による詩文。タイトルとの一繋がりによる構造から、作者なりの気概、そして率直に吐露された今ここの感情を受け取ります。ヘッダーに置かれた共通宣言、主旋律及び通奏低音としての。
「『我はここにあって死ぬはずのものである』と覚悟しよう。多くの者はそうはしないが、そうすれば争いは鎮まる」
「」の中に『』。不思議な形を用いた一文があります。切迫感が感じられる詩文ですが、どこかで見聞きしたことがありそうな一文のよう、実際には一度も口にしたことなどない性質のもののようです。どこか格調高い響きを持つ言葉。なんらかの説明、注釈などは置かれていません。語り手による語り、言葉のようにして置かれています。『』は文章上での共通マナーとして、著書名などのタイトルを引用するために用いられるもののようですが、その『』が途中からは外され、しかし語りの調子は変わらずに続けられます。外部のもの、他者の存在であるはずのものが憑依する、自己の内に宿る、言霊としての。そうした感覚でしょうか。而今、一如、不二などを想起します。
ことばと血肉を果たすイメージ、信仰と呼ばれるものに近い感覚のものでしょうか。鈎括弧をこのように用いた作品を見かけないか、わたしがほとんど用いたことがないためなのか、視覚的な効果も含め興味深く思えるようです。
その言葉と共に水が引き始めた
ごく普通の文章のようですが、先の語りの調子を受け、そしてそのまま事の流れ、内実を説明する一文のようです。
涙と怒りの体液の井戸はついに乾き
用をなくしていく
臭い立つ汚水は 手ですくえる程しかなく
いずれ湿りもしなくなる
乾き、臭い、すくう、湿り、と。
これでもかというほどに、先の水から、体液、汚水、へと身体感覚からの実感的な言及が続く連。
日差しよ当たれ 霧雨よ降れ
ぬかるむ足場よ 揺るがぬ島となれ
歩む一足一足を 頼れる山として
悲しみの中で 大いに楽しく生きていこう
楽観に達した語り手の様子が見えるようです。語りの調子に劇的に変化が与えられた連。応答と命令とによりともに飛躍を果たした強さ、大きさを感じさせます。足場が島になれ、一足を山として、と。私を支える、私が歩き生きていく大地への弛まない、揺るぎなき生へ捧げられることば、信仰の激白。
振り返れば土台となるものを肥やすためのものであったかと。そうした縁、時のめぐりが訪れた爆発的な感情、瞬くような一瞬の心の気づきが表現されているように思います。一人の自立した人間へと真に成長をする。新たな一歩を踏み出していく。
「誰が今死ぬものと知るだろう 今まさにやるべき事をなせ」
なぜでしょう。自分の死は認識が不可能なようです。
生とは。命とは。
日差しよ当たれ 霧雨よ降れ
歩むのだけは心のまま 失う事はない
井戸からはもう 湧きだす事はない
足跡を増やしていこうそこかしこに
かつて歩み進んだ人にならって
頼りとなる 舟となる 跡を残し
道を行く
垢抜ける、悟るといった表現、物言いがなされたりしますが、わたしがこの作品に惹きつけられた理由はそうした性質からくるものというよりも、わたし自身もまた同様の心情を思ったことが過去にあったからだろうと。水、あるいは土。そしてこの足腰。一つ違えばもまれ、すくわれ、あっけなく崩され死に追いやられてしまう、それでもここで踏ん張るなりがむしゃらになってしまう身体がある。わけもなく生み落とされ露わなままに外部に接する身と心と、しかしそうしたぎりぎりの通過点の生のフラッグを過ぎなければまた発せられることはないだろうものを言葉をこの作品から感じ受け取ることができたからだろうと、そのように思います。
再び目を向けます。
枯れ果てない泥水の井戸の前で
羽田恭
結果
勝ちました 作品が です。
ありがとうございました。
https://www.breview.org/keijiban/?id=6652