詩の日めくり 二〇一四年六月一日─三十一日
田中宏輔

二〇一四年六月一日 「偶然」

 あさ、仕事に行くために駅に向かう途中、目の隅で、何か動くものがあった。歩く速さを落として目をやると、飲食店の店先で、電信柱の横に廃棄されたゴミ袋の、結ばれていたはずの結び目がゆっくりとほどけていくところだった。思わず、ぼくは足をとめた。
 手が現われ、頭が現われ、肩が現われ、偶然が姿をすっかり現わしたのだった。偶然も齢をとったのだろう。ぼくが疲れた中年男になったように、偶然のほうでも疲れた偶然になったのだろう。若いころに出合った偶然は、ぼくのほうから気がつくやいなや、たちまち姿を消すことがあったのだから。いまでは、偶然のほうが、ぼくが気がつかないうちに、ぼくに目をとめていて、ぼくのことをじっくりと眺めていることさえあるのだった。
 齢をとっていいことの一つに、ぼくが偶然をじっくりと見つめることができるように、偶然のほうでも、ぼくの目にとまりやすいように、足をとめてしばらく動かずにいてくれるようになったことがあげられる。

二〇一四年六月二日 「魂」

心音が途絶え
父の身体が浮き上がっていった。
いや、もう身体とは言えない。
遺体なのだ。
人間は死ぬと
魂と肉体が分離して
死んだ肉体が重さを失い
宙に浮かんで天国に行くのである。
病室の窓が開けられた。
仰向けになった父の死体が
窓から外に出ていき
ゆっくりと漂いながら上昇していった。
魂の縛めを解かれて、父の肉体が昇っていく。
だんだんちいさくなっていく父の姿を見上げながら
ぼくは後ろから母の肩をぎゅっと抱いた。
点のようにまでなり、もう何も見えなくなると
ベッドのほうを見下ろした。
布団の上に汚らしいしみをつくって
ぬらぬらとしている父の魂を
看護婦が手袋をした手でつまみあげると
それをビニール袋の中に入れ
袋の口をきつくしばって
病室の隅に置いてある屑入れの中に入れた。
ぼくと母は、父の魂が入った屑入れを一瞥した。
肉体から離れた魂は、
すぐに腐臭を放って崩れていくのだった。
天国に昇っていく
きれいになった父の肉体を頭に思い描きながら
看護婦の後ろからついていくようにして、
ぼくは、母といっしょに病室を出た。

二〇一四年六月三日 「Oを●にする」 

●K、のようにOを●にしてみる。

B●●K D●G G●D B●Y C●●K
L●●K T●UCH G●●D J●Y C●●L
●UT S●UL Z●● T●Y

1●● + 1●● = 2●●●●
3●●●● − 1●● = 2●●

なんていうのも、見た目が、きれいかもしれない。
まだまだできそうだね、かわいいのが。

L●VE L●NG H●T N●
S●METHING W●RST B●X

二〇一四年六月四日 「影」

仕事から帰る途中、坂道を歩いて下りていると、
後ろから男女の学生カップルの笑いをまじえた
楽しそうな話し声が聞こえてきた。
彼らの若い声が近づいてきた。
彼らの影が、ぼくの足もとにきた。
彼らの影は、はねるようにして、
いかにも楽しそうだった。
ぼくは、彼らの影が、
つねに自分の目の前にくるように
歩調を合わせて歩いた。
彼らは、その影までもが若かった。
ぼくの影は、いかにも疲れた中年男の影だった。
二人は、これから楽しい時間を持つのだろう。
しかし、ぼくは? 
ぼくは一人、部屋で読書の時間を持つのだろう。
もはや、驚きも少し、喜びも少しになった読書の時間を。
それも悪くはない。けっして悪くはない。
けれど、一人というのは、なぜか堪えた。
そうだ、帰りに、いつもの居酒屋に行こう。
日知庵にいる、えいちゃんの顔と声が思い出された。
ただ、とりとめのない会話を交わすだけだけど。
ぼくは横にのいて、若い二人の影から離れた。

二〇一四年六月五日 「循環小数」

 微熱する交番でナオコを直していると、学生服を着た自転車が突っ込んできた。驚いて目を覚ますと、「うつくしいひととき。」とナオコがつぶやいた。「カフェで、こうしていっしょにいることが?」と言うと、「おれの見間違いかな。」とナオコ。微熱する交番でナオコを直していると、学生服を着た自転車が突っ込んできた。驚いて目を覚ますと、「うつくしいひととき。」とナオコがつぶやいた。「カフェで、こうしていっしょにいることが?」と言うと、「おれの見間違いかな。」とナオコ。微熱する交番でナオコを直していると、学生服を着た自転車が突っ込んできた。驚いて目を覚ますと、「うつくしいひととき。」とナオコがつぶやいた。「カフェで、こうしていっしょにいることが?」と言うと、「おれの見間違いかな。」とナオコ。微熱する交番でナオコを直していると、学生服を着た自転車が突っ込んできた。驚いて目を覚ますと、「うつくしいひととき。」とナオコがつぶやいた。「カフェで、こうしていっしょにいることが?」と言うと、「おれの見間違いかな。」とナオコ。微熱する交番でナオコを直していると、学生服を着た自転車が突っ込んできた。驚いて目を覚ますと、「うつくしいひととき。」とナオコがつぶやいた。「カフェで、こうしていっしょにいることが?」と言うと、「おれの見間違いかな。」とナオコ。微熱する交番でナオコを直していると、学生服を着た自転車が突っ込んできた。驚いて目を覚ますと、「うつくしいひととき。」とナオコがつぶやいた。「カフェで、こうしていっしょにいることが?」と言うと、「おれの見間違いかな。」とナオコ。微熱する交番でナオコを直していると、学生服を着た自転車が突っ込んできた。驚いて目を覚ますと、「うつくしいひととき。」とナオコがつぶやいた。「カフェで、こうしていっしょにいることが?」と言うと、「おれの見間違いかな。」とナオコ。……

二〇一四年六月六日 「LGBTIQの詩人の英詩翻訳」

Sophie Mayer

David’s First Drafts: Jonathan

Fuck you, Jonathan. You
abandoned me.
What was it you said? Oh yes: our love
is too beautiful
for this world. Fuck you.

Nothing, Jonathan, nothing
is too beautiful
for this stupid, unruly world and
don’t roll your eyes
and ask if I’m alive to the ambiguity. I’m the poet-king and nothing,

beautiful Jonathan, nothing is more
beautiful in my eyes
than you, so I cling, I cling with my
filthy bitten
fingernails to your non-existence, beautiful

filthy bitten sight ─ Jonathan ─ seen
everywhere
in the nowhere that passes
the ark
as it passes. I’m the drunken filthy

poet-king, Jonathan, that Plato saw in nightmares
dancing naked
in this gaping, ragged hole
that is power.
I’m naked without you, not a poem but a king

Jonathan, that is power and I
hate it.
Tell me how he did it, your father,
and why
I wanted it more than I wanted you, my king-poem, my Jonathan.


ソフィ・メイヤー

ダビデの第一草稿 『ヨナタン』

ファック・ユー、ヨナタン、おまえってやつは
おれのことを見捨てて行きやがって。
おまえは、何て言った? ええ、こう言ったんだぞ、
「ぼくたちの愛は、この世界にあっては
美しすぎるものなんだよ」ってな、ファック・ユー。

何もないんだぜ、ヨナタン、何もないんだ
美しすぎるものなんてものは
このバカげた、くだらない世界にはな。
しっかり見ろやい、おまえ。
この言葉の両義性を、おれが
ちゃんとわきまえてるのかどうかなんて訊くなよ。
おれは詩人の王で、それ以外の何者でもないんだからな。

おお、美しいヨナタンよ、おれの目にはな
おまえより美しいものなんてものは、何もないんだぜ。
それで、おれは、おまえがいないんで
おれは、おれの汚い指の爪をカジカジ噛んじまうんだ。
ヨナタンよ、
目に見える汚らしいボロボロの景色ってのは
どこにでもあってな
というのも、箱舟がそばを通り過ぎるときにはな
箱舟のそばを通り過ぎないところなんてものは
どこにもなくってな
おれは酔っぱらいの汚らしい詩人の王なんだぜ、
ヨナタンよ、

プラトンが悪夢のなかで見たこと
裸で踊りながらな
このぱっくり口を開いたデコボコの穴のなかでな
そいつが力なんだ。
おれは、おまえがいなけりゃ、ただの裸の男だ、
詩じゃないぞ、ただの王なんだ。

ヨナタンよ、そいつが力というもので
おれは、そいつを憎んでる。
おまえの父親が、そいつをどういうふうに扱ったか、
おれに言ってみてくれ。
そして、なんで、おれが、
おまえに求めた以上のことを、
おれがそいつに求めたのか、言ってくれ。
おれの王たる詩よ、ヨナタンよ。

訳注

David ダビデ(Saul に次いで Israel 第2代の王。羊飼いであった少年のころペリシテ族の巨人 Goliath を退治した話で有名。のち有能な統治者としてまたすぐれた詩人としてヘブライ民族の偉大な英雄となった:旧約聖書の詩篇(the Psalms)の大部分は彼の作として伝えられている:その子は有名な Solomon)。(『カレッジ・クラウン英和辞典』より)

David and Jonatan 互いに自分の命のように愛し合った友人(Damon と Pythias の友情とともに古来親友の手本として伝えられている:Jonathan は Saul の子。→1. Sam. 18.20)。(『カレッジ・クラウン英和辞典』より)

著者について

Sophie Mayer : ソフィ・メイヤーは、イギリスのロンドンを拠点に活動している作家であり、編集者であり、教育者である。彼女は、二冊の選集、The Private Parts of Girls (Salt, 2011)とHer Various Scalpels (Shearsman, 2009)と、一冊の批評書、The Cinema of Sally Potter: A Politics of Love (Wallflower, 2009)の著者である。彼女は、LGBTQ arts magazine Chroma: A Queer Literary Journal (http://chromajournal.co.uk )の委託編集者である。

Translation from ‘collective BRIGHTNESS’edited by Kevin Simmonds
http://www.collectivebrightness.com/

二〇一四年六月七日 「言葉」

 一人の人間が言葉について学べるのも、せいぜい百年にも満たない期間である。一方、一つの言葉が人間について学べる期間は、数千年以上もあった。人間が言葉から学ぶよりも、ずっとじょうずに言葉は人間から学ぶ。人間は言葉について、すべてのことを知らない。言葉は人間について、すべてのことを知っている。

 たとえどんなに偉大な詩人や作家でも、一つの言葉よりも文学に貢献しているなどということはありえない。どんなにすぐれた詩人や作家よりも、ただ一つの言葉のほうが大いなる可能性を持っているのである。一人の詩人や作家には寿命があり、才能の発揮できる時間が限られているからである。たとえどのような言葉であっても、自分の時間を無限に持っているのである。

二〇一四年六月八日 「セックス」

 ぼくの理想は、言葉と直接セックスすることである。言葉とのセックスで、いちばん頭を使うのは、体位のことである。

二〇一四年六月九日 「フェラチオ」

 二人の青年を好きだなって思っていたのだけれど、その二人の青年が同一人物だと、きょうわかって、びっくりした。数か月に一度くらいしか会っていなかったからかもしれないけれど、髪形がぜんぜん違っていて、違う人物だと思っていたのだった。太めの童顔の体育会系の青年だった。彼は立ち上がって、トランクスと作業ズボンをいっしょに引き上げると、ファスナーを上げ、ベルトを締めて、ふたたび腰掛けた。「なかなか時間が合わなくて。」「えっ?」「たくさん出た。」「えっ?」「たくさん出た。」「えっ? ああ。うん。」たしかに量が多かった。「また連絡ください。」「えっ?」思いっきりはげしいオーラルセックスをしたあとで、びっくりするようなことを聞かされて、ダブルで、頭がくらくらして、でも、二人の顔がようやく一つになって、「またメールしてもいいの?」かろうじて、こう訊くことが、ぼくができる精いっぱいのことだった。「嫁がメール見よるんで、すぐに消しますけど。」「えっ?」呆然としながら、しばらくのあいだ、彼の顔を見つめていた。一つの顔が二人の顔に見えて、二つの顔が一人の顔に見えてっていう、顔の輪郭と表情の往還というか、消失と出現の繰り返しに、ぼくは顔を上げて、目を瞬かせていた。彼の膝を両手でつかまえて、彼の膝と膝とのあいだにはさまれる形で跪きながら。

二〇一四年六月十日 「フォルム」

 詩における本質とは、フォルムのことである。形。文体。余白。音。これらがフォルムを形成する。意味内容といったものは、詩においては、本質でもなんでもない。しかし、意味内容には味わいがある。ただし、この味わいは、一人の鑑賞者においても、時とともに変化することがあり、それゆえに、詩において、意味内容は本質でもなんでもないと判断したのだが、それは鑑賞者の経験や知識に大いに依存するものであり、鑑賞者が異なれば、決定的に異なったものにならざるを得ないものでもあるからである。本来、詩には、意味内容などなくてもよいのだ。俳句や短歌からフォルムを奪えば、いったい、なにが残るだろうか。おそらく、なにも残りはしないだろう。詩もまたフォルムを取り去れば、なにも残りはしないであろう。

二〇一四年六月十一日 「ホラティウス」

 古代の詩人より、現代の詩人のほうが実験的か、あるいは知的か、と言えば、そんなことはないと思う。ホラティウス全集を読むと、ホラティウスがかなり実験的な詩を書いていたことがわかるし、彼の書く詩論もかなり知的だ。現代詩人の中で、ホラティウスよりも実験的な詩人は見当たらないくらいだ。そして、エミリ・ディキンスンとホイットマン。このふたりの伝統に対する反抗心と知的な洗練度には、いま読み返してみても戦慄する。さて、日本の詩人で、知的な詩人と言えば、ぼくには、西脇順三郎くらいしか思いつかないのだけれど、現代に知的な詩人はいるのだろうか。ぼくの言う意味は、十二分に知的な詩人は、だけど。ホラティウスの詩でもっとも笑ったのは、自分がつくった料理のレシピをただただ自慢げに開陳しているだけという料理のレシピ詩と、自分の知っている詩人の実名をあげて、その人物の悪口を書きまくっている悪口詩である。ほんとに笑った。彼の詩論的な詩や詩論はすごくまっとうだし、ぼくもおなじことを思っていて、実践している。詩語の廃棄である。これができる詩人は、現代においてもほとんどいない。日常語で詩を書くことは、至難の業なのだ。

二〇一四年六月十二日 「膝の痛み」

 左膝が痛くて足を引きずって歩かなければならなかったので、近くの市立病院に行って診てもらったのだけれど、レントゲン写真を撮ってもらったら、右足の膝の骨が奇形で、体重を支えるときに、その骨が神経を刺激しているという話で、なぜ右膝の骨が奇形なのに、左膝が痛いのかというと、右膝をかばうために、奇形ではないほうの左足が負担を負っているからであるという話だった。これまでのひと月ほどのあいだ、歩行困難な状態であったのだが、そのときに気がついたのは、足の悪いひとが意外に多いなということだった。自分が膝を傷めていると、近所のフレスコで、おばあさんたち二人が、「ひざの調子はどう?」「雨のまえの日はひどいけど、ふだんはぼちぼち。」みたいな会話をしているのを耳にしたり、横断歩道を渡っているときに、おじいさんがゆっくりと歩いているのを目にしたときに、ぼく自身もゆっくりと歩かなければならなかったので、気がつくことができたのだった。それまでは、さっさと歩いていて、ゆっくり歩いている老人たちの歩行になど目をとめたことなどなかったのである。このとき思ったのは、ぼくのこの右足の膝の骨の奇形も、左足の膝の痛みが激しくて歩行困難になったことも、ぼくの目をひろげさせるための現象ではなかったのだろうかということであった。ぼくの目により深くものを見る力をつけさせるためのものではなかったのか、ということであった。左膝の痛みが激しくて、仕事の帰り道に、坂道の途中で坐りこんでしまったことがあって、でも、そんなふうに、道のうえに坐り込むなんてことは、数十年はしたことがなくって、日向道、帰り道、風は竹林の影のあいだを吹き抜けてきたものだからか、冷たいくらいのものだったのだけれど、太陽の光はまだ十分にあたたかくて、ぼくは坂道の途中で、空を見上げたのだった。ゆっくりと動いている雲と、坐り込んでいるぼくと、傍らを歩いている学生たちと、坂道の下に広がる田圃や畑のある風景とが、完全に調和しているように感じられたのであった。ぼくは、あの動いている雲でもあるし、雲に支えられている空でもあるし、ぼくの傍らを通り過ぎていく学生たちでもあるし、ぼくが目にしている田圃や畑でもあるし、ぼくの頬をあたためている陽の光でもあるし、ぼくが坐り込んでいるざらざらとした生あたたかい土でもあるのだと思ったのであった。

二〇一四年六月十三日 「ケルンのよかマンボウ」

 戦争を純粋に楽しむための再教育プログラム。あるいは、菓子袋の中のピーナッツがしゃべるのをやめると、なぜ隣の部屋に住んでいる男が、わたしの部屋の壁を激しく叩くのか? 男の代わりに、柿の種と称するおかきが代弁する。(大便ちゃうで~。)あらゆることに意味があると、あなたは、思っていまいまいませんか? 人間はひとりひとり、自分の好みの地獄の中に住んでいる。

 世界が音楽のように美しくなれば、音楽のほうが美しくなくなるような気がするんやけど、どやろか? まっ、じっさいのところ、わからんけどねえ。笑。 バリ、行ったことない。中身は、どうでもええ。風景の伝染病。恋人たちは、ジタバタしたはる。インド人。 想像のブラやなんて、いやらしい。いつでも、つけてや。笑。ぶひゃひゃひゃひゃひゃひゃ。

 ケルンのよかマンボウ。あるいは、神は徘徊する金魚の群れ。 moumou と sousou の金魚たち。 リンゴも赤いし、金魚も赤いわ。蟹、われと戯れて。 ぼくの詩を読んで死ねます。か。扇風機、突然、憂鬱な金魚のフリをする。ざ、が抜けてるわ。金魚、訂正する。 ぼくは金魚に生まれ変わった扇風機になる。 狒狒、非存在たることに気づく、わっしゃあなあ。

二〇一四年六月十四日 「ベーコンエッグ」

フライパンを火にかけて
しばらくしたら
サラダオイルをひいて
ベーコンを2枚おいて
タマゴを2個、割り落として
ちょっとおいて
水を入れて
ふたをする
ジュージュー音がする
しばらくしたら
火をとめて
ふたをとって
フライパンの中身を
そっくりゴミバケツに捨てる

二〇一四年六月十五日 「点」

点は裁かない。
点は殺さない。
点は愛さない。

点は真理でもなく
愛でもなく
道でもない。

しかし
裁くものは点であり
殺すものは点であり
愛するものは点である。

真理は点であり
愛は点であり
道は点である。

二〇一四年六月十六日 「その点」

F・ザビエルも、その点について考えたことがある。
フッサールも、その点について考えたことがある。
カントも、その点について考えたことがある。
マキャベリも、その点について考えたことがある。
M・トウェインも、その点について考えたことがある。
J・S・バッハも、その点について考えたことがある。
イエス・キリストも、その点について考えたことがある。
ニュートンも、その点について考えたことがある。
コロンブスも、その点について考えたことがある。
ニーチェも、その点について考えたことがある。
シェイクスピアも、その点について考えたことがある。
仏陀も、その点について考えたことがある。
ダ・ヴィンチも、その点について考えたことがある。
ジョン・レノンも、その点について考えたことがある。
シーザーも、その点について考えたことがある。
ゲーテも、その点について考えたことがある。
だれもが、一度は、その点について考えたことがある。
神も、悪魔も、天使や、聖人たちも、
その点について考えたことがある。
点もまた、その点について考えたことがある。

二〇一四年六月十七日 「顔」

 人間の顔はよく見ると、とても怖い。よく見ないでも怖い顔のひとはいるのだけれど、よく見ないでも怖い顔をしているひとはべつにして、一見、怖くないひとの顔でも、よく見ると怖い。きょう、仕事帰りの電車の中で、隣に坐っていた二十歳くらいのぽっちゃりした男の子の顔をちらっと見て、かわいらしい顔をしているなあと思ったのだけれど、じっと見ていると、突然、とても怖い顔になった。

二〇一四年六月十八日 「順列 並べ替え詩。3×2×1」

ソファの水蒸気の太陽。
水蒸気の太陽のソファ。
太陽のソファの水蒸気。
ソファの太陽の水蒸気。
水蒸気のソファの太陽。
太陽の水蒸気のソファ。

午後の整数のアウストラロピテクス。
整数のアウストラロピテクスの午後。
アウストラロピテクスの午後の整数。
午後のアウストラロピテクスの整数。
整数の午後のアウストラロピテクス。
アウストラロピテクスの整数の午後。

正六角形のぶつぶつの蟻。
ぶつぶつの蟻の正六角形。
蟻の正六角形のぶつぶつ。
正六角形の蟻のぶつぶつ。
ぶつぶつの正六角形の蟻。
蟻のぶつぶつの正六角形。

二〇一四年六月十九日 「詩」

約束を破ること。それも一つの詩である。
約束を守ること。それも一つの詩である。
腹を抱えて笑うこと。それも一つの詩である。
朝から晩まで遊ぶこと。それも一つの詩である。
税を納める義務があること。それも一つの詩である。
奥歯が痛むこと。それも一つの詩である。
サラダを皿に盛ること。それも一つの詩である。
大根とお揚げを煮ること。それも一つの詩である。
熱々の豚まんを食べること。それも一つの詩である。
電車が混雑すること。それも一つの詩である。
台風で電車が動かないこと。それも一つの詩である。
信号を守って横断すること。それも一つの詩である。
道でけつまずくこと。それも一つの詩である。
バスに乗り遅れること。それも一つの詩である。
授業中にノートをとること。それも一つの詩である。
消しゴムで字を消すこと。それも一つの詩である。
6割る2が3になること。それも一つの詩である。
整数が無数にあること。それも一つの詩である。
日が没すること。それも一つの詩である。
居間でくつろぐこと。それも一つの詩である。
九十歳まで生きること。それも一つの詩である。

二〇一四年六月二十日 「詩人」

 詩人とは、言葉に奉仕する者のことであって、ほかのいかなる者のことでもない。

二〇一四年六月二十一日 「考える」

よくよく考える。
くよくよ考える。

二〇一四年六月二十二日 「警察官と議員さん」

 きょうは、ひととは、だれともしゃべっていない。太秦のブックオフに行くまえに、交番のまえを通ったら、かわいらしい若いガチムチの警察官に、「こんにちは。」って声をかけられたのだけれど、運動をかねて大股で歩いていたぼくは、「あはっ!」と笑って、彼の顔をチラ見して通り過ぎただけなのであった。きょうは、一日、平穏無事やった。だれとも会わなかったからかもしれない。近所の交番の警察官が、超かわいらしかった。あしたも交番のまえを通ったろうかしら? こんどは、ちゃんと、「かわいらしい!」と言ってあげたい。ちゃんと、かわいらしかったからね。一重まぶたのかわいらしい警察官やった。
 そいえば、数年まえに居酒屋さんのまえで見た若い議員さんも、かわいらしかったなあ。「かわいい!」と大声で言って、抱きついちゃったけど、隣でその議員さんの奥さんも大笑いしてたから、酔っ払いに抱きつかれることって、しょっちゅうあるのかもしれないね。議員さんてわかったのは、あとでなんだけど。
 なにやってるひとなの? って道端で訊いたら、その居酒屋さんの看板の横に、その議員さんの顔写真つきポスターが貼り付けてあって、それを指差すから、「あっ、議員さんなの。めずらしいな。こんなにかわいい議員さんなんて。」って言ったような記憶がある。ぼくといっしょにいた友だちと顔なじみで、先にあいさつしてたから、ぼくも大胆だったのだろうけれど、いくら酔っぱらっていたからって、そうとうひどいよなと、猛反省、笑。

二〇一四年六月二十三日 「こころとからだ」

 自分ではないものが、自分のからだにぴったりと重なって、自分がすわっているときに立ち上がったり、自分が立ち上がったときにすわったままだったりする。
 自分のこころが、自分のこころではないことがあるように、自分のからだもまた、自分のからだではないことがあるようだ。あるいは、どこか、ほかの場所では、立ったまますわっていたり、すわったまま立っていたりする、もうひとりかふたりの、別のぼくがいるのかもしれない。

二〇一四年六月二十四日 「切断喫茶」

 切断喫茶に行った。指を加工してくれて、くるくる回転するようにしてくれた。それで、知らない人とも会話した。回転する向きと、回転する速度と、回転する指の種類で意味を伝えるのだけれど、会話によっては、左手の指ぜんぶを小指にしたり、両手の指ぜんぶを親指にしたりしなければならない。初心者には、人差し指と、中指と、薬指との区別がつかないこともあるのだけれど、回転する指で会話するうちに、すぐに慣れて区別がつくようになる。こんど、駅まえに、首を切断して、くるくる回転するようにしてくれる切断喫茶ができたらしい。ぼくは欲張りだから、二つか三つよけいに、頭をつけてもらいたいと思っている。

二〇一四年六月二十五日 「日記(文学)における制約」

 いま、「アナホリッシュ國文學」の、こんどの夏に出る第七号の原稿を書いている。「日記」が特集なのだけれど、ぼくも、「詩の日めくり」というタイトルで、「日記」を書いている。このタイトルは、編集長の牧野十寸穂さんが仮につけてくださったものなのだけれど、ぼくもこのタイトルがいいと思ったので、そのまま頂戴して使わせていただくことにしたのである。
 ところで、一文と一文とのあいだに、どれだけの時間を置くことができるのか考えてみたのだけれど、単に一日に起きたことを時系列的に列挙していくだけだとしたら、その置くことのできる時間というものは、一日の幅を越えることはないはずである。したがって、日記だと、その一文と一文とのあいだに置いておける最長時間というものは、二十四時間ということになる。いや、ふつうはもっと短いものにしなければならないであろう。たとえば、こんなふうに。「朝起きて、トイレでつまずいた。夜になって新しいパジャマを着て寝ることにした。」などと。もしも、これが日記でなければ、単に起きたことを時系列的に列挙していくだけだとしても、一文と一文とのあいだに置くことのできる最長時間には制限がないので、たとえば、こんなふうにも書くことができるであろう。「朝起きて、トイレでつまずいた。それから二百年たった。夜になって新しいパジャマを着て寝ることにした。」などと。また、日記を書いている人物が途中で入れ替わったりすることも、正当な日記の条件から外れるであろう。もちろん、SFや幻想文学でないかぎり、日記の作者は、人間でなければならないであろう。創作としての日記、すなわち、それが日記形式の文学作品というものであったなら、多少の虚偽を交えて、作者がそれを書くことなどは当然なされるであろうし、読み手も、書き手の誠実さを、ことの真偽といった側面でのみ測るような真似はけっしてしないであろう。
 そうである。日記、あるいは、日記形式の文学作品というものにいちばん求められるものは、作者の誠実さといったものであろう。もちろん、文学に対する誠実さのことであり、言葉に対する誠実さのことである。

二〇一四年六月二十六日 「メールの返信」

出したメールにすぐに返信がないと、お風呂かなと思ってしまう初期症状。
出したメールにすぐに返信がないと、寝たのかなと思ってしまう中期症状。
出したメールにすぐに返信がないと、寝たろかなと思ってしまう末期症状。

二〇一四年六月二十七日 「そして誰もがナポレオン」

 作者はどこいるのか。言葉の中になど、いはしない。では、作者はどこで、なにをしているのか。ただ言葉と言葉をつないでいるだけである。それが詩人や作家にできる、唯一、ただ一つのことだからである。言葉はどこに存在しているのか。作者の中になど、存在してはいない。では、言葉はどこで、なにをしているのか。言葉は、作者のこころの外から作者に働きかけ、自分自身と他の言葉とを結びつけているのだ。

 折り畳み水蒸気

 いま、ふと、ぼくのこころの中で結びついた言葉だ。ところで、作者が誰であるのか、ぼくには不明な言葉がいくつかある。どこかで見た記憶のある言葉なのだが、それがどこであるのかわからないのである。詩人か作家の言葉で見たような記憶があるのだが、その詩人や作家が誰であるのか思い出せないのである。その言葉が、どの詩や小説の中で見かけた言葉なのか思い出すことができないのである。

 そして誰もがナポレオン

 この言葉が耳について離れない。どこかで見たような気がするので、これかなと思われる詩や小説は、読み返してみたのだが、チラ読みでは探し出すことができなかった。ツイッターで、この言葉をどなたか目にされた記憶がないかと呼びかけてみたのだが、返答はなかった。ぼくの記憶が間違っていたのかもしれない。しかし、いずれにせよ、ぼくのこころの中か、外かで結びついた言葉であることは確かである。もう一つ、どこかで見た記憶があるのだが、いくら探しても見つからない言葉があった。ボルヘスのものに似た言葉があるのだが、違っていた。「夢は偽りも語るのです。」という言葉である。この言葉もまた、しばしば思い出されるのだが、「そして誰もがナポレオン」と同様に、思い出されるたびに、もしかしたら、作者などどこにもいないのではないだろうかと思わされるのである。

二〇一四年六月二十八日 「洪水」と「花」

 そのときどきの太陽を沈めたのだった。

 これは、ディラン・トマスの『葬式のあと』(松田幸雄訳)という詩にある詩句で、久しぶりに彼の詩集を読み返していると、あれ、これと似た詩句を、ランボオのもので見た記憶があるぞと思って、ランボオの詩集を、これまた久しぶりに開いてみたら、『飾画』(小林秀雄訳)の「眠られぬ夜」のⅢの中に、つぎのような詩句があった。

 幾つもの砂浜に、それぞれまことの太陽が昇り、

 ディラン・トマスとランボオを結びつけて考えたことなどなかったのだが、読み直してみると、たしかに、彼らの詩句には、似たところがあるなと思われるものがいくつも見られた。その一つに、「洪水」と「花」の結びつきがある。もちろん、「洪水」は破壊のそれ、「花」は「再生」の、あるいは、「新生」のシンボルであるのだろうが、両者のアプローチの仕方に、言葉の取り扱い方に、両者それぞれ固有のものがあって、ときには、詩集も読み返してみるべきものなのだなと思われたのであった。

わたしの箱舟は陽光を浴びて歌い
いま洪水は花と咲く
(ディラン・トマス『序詩』松田幸雄訳)

(…)洪水も引いてしまってからは、──ああ、隠れた宝石、ひらいた花、──これはもう退屈というものだ。
(ランボオ『飾画』大洪水後、小林秀雄訳)

 ディラン・トマスのものは、いかにもディラン・トマスといった修辞だし、ランボオのものもまた、いかにもランボオのものらしい修辞で、思わず微苦笑させられてしまった。

二〇一四年六月二十九日 「苦痛神学」

 以下、ディラン・トマスの詩句は、松田幸雄訳、ランボオの詩句は、小林秀雄訳で引用する。

     ○

世界は私の傷だ、三本の木のようによじれ、涙を留める。
(ディラン・トマス『黄昏の明かりに祭壇のごとく』)

 長い舌もつ部屋にいる 三文詩人は
自分の傷の待ち伏せに向かって苦難の道を行く──
(ディラン・トマス『誕生日の詩』)

      ○

不幸は俺の神であった。
(ランボオ『地獄の季節』冒頭の詩)

世界よ、日に新たな不幸の澄んだ歌声よ。
(ランボオ『飾画』天才)

黒く、深紅の傷口よ、見事な肉と肉の間に顕われる。
(ランボオ『飾画』Being Beauteous)

転々とさまようのだ、疲れた風にのり、海にのり、傷口の上を。
(ランボオ『飾画』煩悶)

 ふと頭に思い浮かべてしまった。海を渡って詩の朗読をしてまわる人間の大きさの傷口を、砂漠の砂のうえや森の中を這いずりまわる人間の大きさの傷口を。

二〇一四年六月三十日 「愛」

 ある種類の愛は終わらない。終わらない種類の愛がある。それは朝の愛であったり、昼の愛であったり、夜の愛であったり、目が覚めているときの愛であったり、眠っているときの愛であったりする。愛が朝となって、ぼくたちを待っていた。愛が昼となって、ぼくたちを待っていた。愛が夜となって、ぼくたちを待っていた。
 終わらないことは、とても残酷なことだけれど、ぼくたちは残酷なことが大好きだった。残酷なことが、ぼくたちのことを大好きだったように。愛は、目をさましているあいだも、ぼくたちを見つめていたし、愛は眠っているあいだも、ぼくたちのことを見つめていた。その愛の目は、最高に残酷なまなざしだった。

二〇一四年六月三十一日 「ガリレオ・ガリレイの実験」

 きょう、友だちのガリレオ・ガリレイが、自分の頭と身体をピサの斜塔から落としたのであった。頭と身体を同時に落として、どちらが先に地面に激突するか実験したのであったが、同時に落下したのであった。それまでにも頭と身体を同時に城や橋の上から落とした者もいたが、同時に激突すると宣言したのは、友だちの彼が史上初であった。



自由詩 詩の日めくり 二〇一四年六月一日─三十一日 Copyright 田中宏輔 2020-11-11 14:55:53
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