安置室の話など
道草次郎

先日母方の祖母の妹が亡くなったので、祖母を安置室のある家族葬ホールに連れていった。親族といえども、ごく近い近親者以外の告別式への参列は憚られるという事だった。この時節、どこでも大体そういう段取りなのだという。

ところでその時ちょうど亡くなった祖母の妹の娘が、八潮れんという詩人だということを思い出した。つまり、ぼくにとっては大伯母の娘で、母にとっては従姉妹だ。

祖父が亡くなった時だったか、一度だけ会ったことがある。その時のぼくは半引きこもりの状態で、集まった従姉妹たちに混じって全身針で刺されるような気持ちで座っていたのを覚えている。

その大伯母の娘もどこかポツンとしていて、遠くを見るような目をしていた。たしか、その人がフランスによく行くとかそんな話をちらっと他の親戚の誰かに話していた時だ。ぼくはどうしても居た堪れなくなり、唐突に大して知りもしないルネ・シャールのことを幾つか口走った記憶がある。するとその人は「ルネ・シャールとはまた渋い」だったか、そんなことを言った。

広島から来た叔母がそんなやり取りをすこし冷めた眼で見ているような気がしたぼくは、それきりで詩の話を打ち切ってしまった。

帰り際にその人から自身の新しい詩集と、『ガニメデ』という詩の雑誌を手渡された。たしかメールアドレスも貰ったような気もするが、もう随分昔のことなので忘れてしまった。

詩集はざっと見たけれどあんまりよくわらなかったので、それ切りにしてしまった。今もたぶんダンボールのどこかにはあるのだろうが、探すのは一苦労だろう。

ちなみにぼくの父方の大伯母の旦那さんは歌を詠む人だったようだ。この人はぼくと血縁の関係にないけれど、一冊の歌集を出していて我が家にはその時に進呈されたものが今もある。奥さんに優しい人だったらしく、じっさいにそういう優しい歌が歌集には幾つかあった。この本は今、我が家の居間の本棚の片隅に植物図鑑と並んでひっそりと置かれている。

大伯母の死に顔は、死に顔以外の何ものでもなかった。生前そう親しかったわけではないし、会ったのも数える程だった。利発な人で、行動力のある面白い人だったそうだ。しかしながら、多くのことはもはや過去に眠っているか、大伯母を知る何人かの人の胸にしめやかにしまわれている筈だ。

線香をあげ手を合わせた時、ぼくの胸に去来したものはなんだったか。それは、追悼というにはあまりにも複雑なものであった。死者を前にして行われたその黙祷の半分が、過去の自分へとむけられたものであった事をここに告白しなければならない。





散文(批評随筆小説等) 安置室の話など Copyright 道草次郎 2020-10-21 22:17:03縦
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